2001年度文集より転載しました。

はじめに
大庄公民館で実施する「日本語よみかき学級」も回を重ねて10年目を迎えました。今年は、5月から3月の11ヵ月の間に45回にわたる学級を開催して参りました。このように長期間にわたって学級を開催できたのは、学級の運営、或いは、学級生の指導に尽力いただいた、講師の先生をはじめ多くのボランティアのみなさんのお力があってのことと心から感謝をいたしております。
また、学級生の皆様も長期間にわたって学習をよく頑張っていただきました。10ヶ国31人の学級生と27人のボランティアのみなさんんで始めた平成13年度の「日本語よきまき学級」、いろいろな喜びや、ふれあいがありました。5月にはたこ焼きを作って食べました。11月には須磨の水族館へ遠足へ行きました。12月には忘年会で和太鼓を聞いたりゲームを楽しみました。なかでも学級生とボランティアのみなさんの心の交流は大きな思い出になることと思います。皆さんの心の中に大切にしまっておいてください。
今年度の学級の終了に当たって「日本語よみかき学級」での学習の思い出を文集にまとめました。この1年を振り返りながら楽しくご覧いただければ幸いです。

尼崎市大庄公民館 館長

過ぎ去った1年を思いながら
私が日本に来たのは去年の三月である。私の会社は韓国のポスコで、会社から派遣されて尼崎市にある産業技術短期大学に通っている。日本に来て感じたことがいくつかある。
その一つが建物の柱の太さである。地震に耐えられる建物を建てるため、柱の太さも太くする必要があったと思われる。ところで、韓国の建物の柱の太さは日本のものに比べてあまりにも弱く見える。柱の太さが細くても耐震設計には十分か、それとも韓国には地震が別にないから安全だと思うかはわからない。しかし、韓国は日本と地理的にも近いからいつかは地震が起こる可能性が高いと思ったら怖くなる。
もう一つは日本は韓国に比べて自転車に乗る人の比率がはるかに高いということである。今回日本に来て自転車に乗っている人が多いのに私は驚いた。私は中学生時代に田舎の家から学校までの距離が遠くて初め自転車に乗れるようになった。それで故障した場合、よく自分で修理してみたが、日本の田舎の学生は自転車が故障した場合どうするのか。また、女性がスカートを履いて自転車にのることもおかしく見えた。
もう一つは小川の水でもすごくきれいで、鯉などがたくさんいるのでびっくりした。韓国では都会の川で、鯉を見れることはめったにない。もし、あるとしても誰かがすぐ釣って行ってしまう。それ以外にも韓国とちがうと感じられるのが怖い事件が多いと言うことである。それはいくつかの理由があると思われるが、その一つがテレビの番組である。テレビのニュースやドラマを見ていたら、その内容のほとんどが事件のことである。もちろん韓国も事件の事が出るが、日本に比べてかなり少ない。そんな事件の事が報道される目的は多分犯罪を犯さないようとすることではないかと思う。しかし、それが模倣犯罪の原因となる可能性がすごく高いと思われる。また、原因の一つは機械化にともなってついてこられなかった人間性だと思われる。産業革命以後、機械化ははやいスピードで進んで来たが人間の情緒はそのスピードにおくれている現実が原因だと思う。今からが人間性回復のためもっとも重要な時期になるだろう。

(韓国)

日本の時間
中国に住んでいた時、時間がたつのが遅かった。日本に来た後、時間が速すぎる感じです。
中国に住んでいる時、仕事がありません。毎日家にいて、家事をする。家事が終わったら、テレビを見たり、麻雀で遊んだりしました。一日又一日、一年又一年、毎日同じような事をしました。つまらなかった。時間が遅すぎる感じだった。
日本に来て毎日みんな忙しいです。私も忙しいです。毎朝起きてから朝ごはんを作ったり、家事をしたり、8時30分から会社へ行って4時間仕事をしたりします。昼すぎ帰り、昼ごはんを食べ、ちょっと休息して、買物に行きます。朝から晩まで非常に充実している。時間がたつのが速すぎる感じがします。日本の時間は速いです。

(中国)

私の初めての初もうで
私の今年は「明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。」という、広島に住んでいる友達のメールから始まりました。
日本には友達が二人いますが、一人は大阪に、また一人は広島に住んでいるし、また、友達にも予定があるから1月1日でも特別に会いに行けるわけでもないから、バイトしに行きました。1月1日でも私のバイト先は年中無休から出て来ることができる人はできれば出て仕事をするようになりました。もちろん仕方なく出て来なければならなかった人の方が多かったですが。。。。日本では一人暮らしで韓国は日本と違って旧正月なので私はあまり正月の気分にならなかったのですが、仕事が終わって一緒に働いている浜中さんに、近所の神社の初もうでに連れていってもらいました。初めての初もうで、もちろん神社に行くのも初めてでした。韓国には神社がないからどんな雰囲気かな、と思いながら神社に着きました。初印象はなんと言うか、、、、寺とは違う感じでした。神社の構造は今まで見たことがなかったので、ちょっと面白いなと思いました。真ん中で鐘があって、左の方におみくじとかお守りとかを売っている所があって、右の方には悪運のおみくじを結ぶ所がありました。
私も他の人のようにお祈りをするために、お祈りの方法を教えてもらって、教えてもらった通りに鐘を鳴らした後、五円玉がなかったでいで十円玉を入れて今年のお祈りをしました。五円を入れる方がいい理由を聞いてたが、人が多くて賑やかだったせいで答えがちゃんと聞こえなかったので、まだその理由はわからないです。お祈りの後はおみくじもしてみました。大吉の当りを望んでましたが、末吉が出て来ました。運勢はそんなにいいのではなかったが、内容が悪くなかったのでいいじゃないかと思いました。だが、一つ今年は恋愛運がないと書いてあってちょっとがっかりしました。今年は彼氏ができればと願っていたのに。。。。焦らないで待とう!て思います。おみくじの後では暖かいお酒をいただいて飲みました。
帰り道、日本での1月1日が日本しか体験できない初もうでと言う特別なことができて本当によかったと思います。楽しい一日でした。

(韓国)

わたしについて
こんにちは。
わたしについてはなしたいとおもいます。
わたしは、ぺルーじんです。2ねんかん、にほんにすんでいます。
この2ねんかんは、とてもはやかったです。
ペルーでは、じかんはゆっくりです。
ことしももう2がつです。
いままで、たくさんのひとにあいました。
しんせつなひとや、しんぼうつよくにほんごをおしえてくれたボランティアのかたがたに、おあいすることができました。
そして、この2ねんかん、いろいろなけいけんをすることができました。
2ねんぶりに、クリスマスのやすみのときにペルーにかえって、ペルーのともだちにあうことができました。
ひさしぶりにあいましたが、かわらないゆうじょうをかんじました。
ペルーへのりょこうは、やく3しゅうかんでした。
また、わたしはにほんにすんでいます。
もっとにほんごをべんきょうしたいとおもいます。
にほんごがっこうのみなさま、ボランティアのみなさまにかんしゃしています。
いつも、にほんごをおしえてくれてありがとうございます。
これからも、どうぞよろしくおねがいいたします。

(ペルー)

ビックリサック
むかしむかし神戸という街にビックリサックという名前の少年が住んでいました。サックはポートタワーに登るのが大好きで毎朝登っては海の真ん中にうかんでいるしまを見つめて、そのしまに行くことをゆめみていました。
そんなある日、いつものようにタワーに登ったサックはつるが飛んでいるのに気づきました。サックは「どうして神戸につるが飛んでいるんだろう」ってふしぎに思いました。サックはつるに手をふってみることにしました。するとつるはサックに気づき、タワーに近付いてきました。そして「グッドモーニング」と言いました。サックはつるが英語を話したのでビックリしました。「どうしよう、ボク英語なんて話せない」サックは小学生なので英語なんて話したことがないのです。「ビックリサック、あっあいあむビックリサック」「はじめまして、私の名前はジャルコ」つるは言いました。「ジャルコ?」「そう、ジャルコ」そのあとふたりはいろんな話をしました。サックは海をみながらしまに行きたいゆめも話しました。いろんな話をしてあっという間にじかんがすぎてしまい、ジャルコは急に「もう行かないと」と言いました。「え?もう?」「そう、あの海のむこうのしまへかえらないといけないんだ。いっしょに行くかい?」サックはそくとうで「うん、行きたい」「じゃあ、行くよ」「うん」サックはジャルコの背中にのりました。するとまるでまほうのようにジャルコは飛びたったのでした。
「サック、ほんとうにしまに行きたいかい?」「もちろんさ!」しまにむかって飛びながら、サックはうしろを向いて神戸に向かって「もどってくるからね」とつぶやきました。そして神戸がだんだん小さくなっていったのでした。
そして、前にはとうとうゆめだったしまがみえてきました。「これがきみのしまかい?」「そうだよ。8つのしまがあって、ぼくはいちばん有名なしまにすんでいるんだ。そして目の前にあるのがアロハタワーだよ」といいながらおりたちました。その後、サックとジャルコはしまでいろんなことをしてすごしました。毎日、朝にはアロハタワーに行き、神戸のことを思い出していました。そして5日くらいたったある日、いつものようにアロハタワーの上から海の向こうをみながらラジオを聞いていると。神戸で信じられないことがおこったという知らせが聞こえてきました。それを聞いたしゅんかん、サックは「帰らなくちゃ」と思いました。「わかった、さあ、背中にのって!いくよ!」ふたりはアロハタワーからゆっくりと飛びたちました。そして、サックは今、アロハタワーの時計が11時をさしていることに気づくのでした。その14分前神戸ではサックのうんめいをかえるような大変なことがおきていたのでした。
ジャルコがサックをのせて神戸へ向けて飛び立ちました。サックは小さくなっていく島をみながら「いつかまた、、、」とつぶやくのでした。
どれくらい飛んだでしょうか、ふたりの前にはポートタワーが近付いてきました。「何がおきたんだ!これはぼくの知っている街じゃない」サックは涙ながらにさけびました。サックとジャルコは、街の上を飛びながら、こわれた家やビル、そしてきょうふにさまよい歩くたくさんの人たちをみました。そしてサックとジャルコはポートタワーにおりて言いました。「ぼくはこまっている人たちがもう一度げんきにすごすことができるように助けてあげたい!」サックがそう言うとジャルコはサックに一つのたまごを手わたし「このたまごがあればきみの願いはかなうよ」と言いました。そしてサックの涙がたまごにひとつぶ落ちたとき、ふしぎなことに、たまごは黄色くかがやき、中からまるで火のような明るくて大きなとりが出てきました。そのとりははねを広げて「わたしの名前はフェニックス。あなたを助けにここにきました。助けが必要な人のために、うしなったものをとりもどす手助けをしましょう」
それから7年がすぎました。サックとジャルコとフェニックスは今もまだ、いろいろな方法で助けの必要な人のところへ行くのでした。
そしてサックは思うのでした。「いつかまた、、、、」

(ハワイ)

ローマのまほう
わたしはイタリアのローマで生まれました。いつもすばらしい遺跡を見て、なんとも思わなかったけど、今日本に住んで、ローマのすばらしさを強く思う。去年2ヵ月イタリアへ帰りました。そのとき、コロセウムやローマのまちをみて、あたらしく感動しました。とってもしんせんに、すばらしくおもいました。あさ、ゆっくりあさごはんを、サンタンジェロのまえでたべ、そのまえにあるすばらしい川のあたりを散歩しました。すごくうれしくおもいました。そしてよるおそくまで友達とあそび、後で兄さんの家へかえっていっぱいしゃべってとても楽しくすごしました。この旅行で、ローマ、シシリア、フィレンツェ、ベニス、この町町を見てイタリア人だけれどまるでツーリストのように思いました。日本でたった2年だけれどとっても大きく変わりました。日本でいっぱいいいことあるけど、IL MIO CUORE E IN ROMA.(わたしの心は、ローマにあります)

(イタリア)

手紙
尊敬する先生に
お元気ですか。
私は日本へ来て、はじめて手紙を書きます。ひさしぶりに書きます。相手は先生です。
偶然のきっかけで会った、知らない中国人にいつも親切に教えてくれて、ほんとうにありがとうございます。このことを永遠に忘れないです。
私は日本がいい国だと思います。
日本での生活はしんどいがおもしろいです。それから自分の意志が試されます。
最近先生がタイへ行って来たことを聞きました。楽しかったですか。いつか中国へ旅行してください。
いつまでも健康を祈ります。

愛の物語
この物語はむかしの中国の話です。私が日本語に訳してみました。

あたたかい春に友達が一人の女性の誕生日を祝っています。その女性のきれいな姿に大勢の男性がひかれました。
その女性は恋をしてとても幸せそうでした。でも、しばらくして、ふられてしましました。つぎの時もそうでした。
それは、その女性が”まゆげ”がないからです。時が経って女性は年をとっていきました。両親の意志に従ってお見合いをして練炭売りの人と結婚しました。
夫はあまり話さず、一所懸命にがんばりました。妻は毎朝早く起きて”まゆげ”を描き寝る時も描いたままです。
夫の勤勉さと素直さに感動を受けて何回も正直に話そうと思ったけれど別れることが怖くて心の奥にしまっておきました。
旦那さんは長い間騙されたまま暮らしてきました。
ある日、夫の仕事があまりにも忙しくて妻も手伝わなければなりませんでした。仕事が終わって汗だらけになった妻は”まゆげ”のことをうっかり忘れてしまいました。
夫は感謝の視線で微笑みながらタオルで妻の汗をふき始めました。夫はなにも言わず気をつけて妻の”まゆげ”をさけて汗をふきました。妻は夫のあたたかい愛で幸せをつくづく感じました。

(中国)

時計のはりのおいかけっこ
はりくん1とはきくん2がおいかけっこをしています。
はりくん1はみじかいので、よくわかるんです。
はりくん2は長いのでよくわかるのです。
はりくん3ははりくん2と同じ長さで、早くてよくわかるのです。
はりくんきょうだいはおいかけっこをあそんでいます。
まいかい、12時1分前、心の中はドキドキします。
12時あと30秒だ!
12時あと20秒だ!
12時あと10秒だ!
12時にだんだんちかづく。
12時になったらあんしんした。

(中国)

私の家族としゅみ
私はベトナム人です。私の家族は5人です。両親と弟と妹がいます。
私は日本に去年七月にきました。今日本でけんしゅうしています。毎日8時から5時まではたらいています。しごとがおわったら、わたしはへやへかえって、りょうりをつくってたべます。それからシャワーをあびて、へやでテレビをみます。
毎週水曜日は日本語をべんきょうしています。きょうしつのみなさんはたいへんしんせつです。きれいな人がたくさんいます。日本語はとてもおもしろいです。
私のしゅみはテニスです。みなさんいっしょにしませんか。

(ベトナム)

ベトナムをしょうかいします
私はベトナムからきました。
私の国は中国とカンボジアの間にあります。一年中あつい国です。
ベトナム人は、お金は少ししかありませんが、とてもしんせつです。
私のいなかはベトナムの西のカノン川のちかくにあります。「ミトー」というところはゆうめいな町です。おいしいくだものがたくさんあります。とくに、ミカン、ぶどう、ドリアンがおいしいです。
みなさん、一度ベトナムへきてください。好きになるとおもいます。
ベトナム人は世界のみなさんをまっています。

(ベトナム)

日本語の勉強
大庄公民館で日本語の勉強を始めてもう一年半くらいになりました。初めてここにきた時より、日本語がわかるようになりました。日本語難しいですが、日本で生活するからかならず勉強しなければならないんです。
水曜日のこおでの日本語の勉強は、私達が生活の中で一番大切なことになります。ボランティアのみなさんは、私達にひとつづつ丁寧に日本語を教えてくれますから、仕事がいくら忙しくても、しんどくても、ここに来たいんです。
公民館で勉強したものをいろいろのところでよく使うし、本当に役に立ちます。
日本語はとても難しいです。なかなか上達しません。言葉があまり自分の口から言えないですが、聞く事は理解できます。こういう教室はいつまでも続けられるように私達はがんばります。
最後にボランティアの皆さんに一言、私達は心からありがとうございます。これからもよろしくおねがいします。

(中国)

送別会
二月十三日公民館で韓国の方とインドネシアの方の送別会をしました。
最初沖縄少林寺の方から空手の型を見せてもらいました。足で蹴ったり、手を振り下ろしたりするところが格好よかったです。皆もすばらしい武術に感銘を受けたことでしょう。でも、少林寺と言えばやはり中国のが有名です。
面白いフルーツバスケットというゲームを皆一緒にしました。一人に一枚づつフルーツの絵をかいたカードをもらって、そしてフルーツの名前を言われた人が座席を替わります。よくあるゲームだけど、皆一緒にするととても面白かったです。
最後にふたりがもうすぐ国へ帰るので皆一緒に「ふるさと」と「四季の歌」を歌いました。私と韓国の方は一緒に前に出て「四季の歌」を歌いました。「春を愛する人は心清き人」と歌う時、私は公民館の一年間の出来事を懐かしく思い出しました。ボランティアの方が家族みたいに私達を暖かく迎えてくれました。日本の言葉、文化、料理、習慣を教えてもらったり、困った時に相談にのってもらったりしました。国境や性別を越えて、心から暖かく私達を受け入れてくれました。そんないい人たちとの別れはとてもつらいだろうと思います。おふたりもきっとそう思ったことでしょう。

(中国)

日本での思い出
わたしは、中国の黒龍江省ハルビン市方正県から2年ほど前、ぼくの家族と一緒に日本へ来ました。はじめは、日本語がとても難しかったです。はなすのも、聞くのもわかりませんでした。だから友達と一緒に大庄公民館へ来ました。日本語の勉強は楽しいです。公民館の先生は親切です。本当にありがとうございます。今、少しだけ日本語がわかるようになりました。
時々、ふるさと方正県のことを思い出します。一番は、中国の正月です。冬はとても寒いです。雪がたくさん降ります。友達と一緒に遊びます。ぎょうざやたくさんのごちそうを作り、家族や友達と一緒に食べたり、飲んだりします。とっても楽しいです。
日本に来て嬉しかったことの一つは大庄公民館でみんなと楽しく勉強したり、遊んだりすることです。本当に感動しました。2年ほど前、神戸のハーブ園に行った時、ロープウェイに乗ったり、お昼に芝生の上でみんなと食事をしたりしてとても楽しかったです。去年、9月25日美玲が生まれました。それもとてもうれしいことでした。今後、日本語の勉強を一生懸命したいです。先生とみなさんありがとうございました。

(中国)

自己と会社紹介
私は今年38歳です。1991年に結婚して韓国には妻、6歳と8歳になる娘がいます。私の長所と言えば責任感が他の人より強いのです。なぜなら、5人兄弟の長男である私は小さいころから弟や妹達の面倒を見たり、家事をしてきたので何ごとにも責任感を持って処理する能力が養われたからです。また、数学よりも言語学や文学が好きなので、当然このふたつの分野への関心が高いです。普段から自分なりの言語の勉強と文学作品鑑賞に時間を費やしています。掲げた目標は必ずやり遂げる性格なので、どのようなちいさなことでも手抜きをしないです。しかし、少しは怠けている面もあって、最近その癖を直すために自身をコントロールする訓練をしています。子供の頃からいつも両親に「願う事を得るには、それを直接見て、頭の中に描いて想像しろ」と言われました。これは無から有を造り出す創造的な話でした。私は以前から日本に関する紀行文、または日本の有名な文学作品などを読みながら、少しづつ日本と日本人について知りたいという考えを持っていました。更に日本語を勉強しながら日本留学をしたいという夢も持っていました。そして、とうとうその望みを叶えることができました。過去の歴史も重要ですが、将来は更に重要だと思っています。隣の国である日本とは切っても切れない関係で、競争しながらも互いに協力しなければ発展できないと思います。
次に我が社を紹介します。私の勤務している会社は浦項綜合製鉄(株)です。私は1986年に入社しました。製銑、製鋼及び圧延材の生産と販売などを目的に1968年に設立されました。「我々は社会の基盤となる製品とサービスを提供して、顧客と人類社会に貢献する。このために、我々は最高を志向し、創意を尊重し、基本と原則を重視して尊敬される企業となる」これが我が社の経営理念です。年産総粗鋼能力は2800万トン、従業員は約2万人で国内最大総合製鉄会社です。人類が使用するほとんどの種類の鉄鋼製品を生産していますが、大別すると冷延鋼板、圧板、線材、電磁鋼板、ステンレス鋼板などに分けられます。私の職場は電気メッキ工場です。冷間圧延された鋼板に純粋亜鉛、亜鉛-ニッケルなどを電気メッキして、コンピュータ、自動車などに使われる電気メッキ製品を生産して、国内に供給したり日本をはじめ世界各国に輸出しています。

(韓国)

とけい
ぼくははじめてとけいを勉強をしたとき、「とけいはむずかしいなあ」と思っていました。でもいま三年生になったとき「とけいの勉強はかんたんだなあ」と思いました。
とけいとちきゅうはふしぎに思います。でもわたしたちはたのしく思います

(中国)


99年度文集はこちらをごらんください

2000年度文集はこちらをごらんください