共和政ローマの政務官

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政務官(マギストラートゥス、magistratus)
一般に就いて


 全て栄誉職であり、俸給を受けない。

 政務官を補佐する国家の官僚機構といったものは存在せず、政務官は必要とする補助者を自ら調達した(多くは解放奴隷や奴隷から)。ただし、いくつかの特殊な業務に関しては職能団体として国家から俸給を支払われる補助吏(アパーリトル、apparitor)を使う事が出来た。例えば書記(スクリーバ、scriba:会計係や帳簿係も兼ねていた。最上級の補助吏。自由人がなり、騎士級の人さえ就任した(帝政に入ると、高位のapparitorは騎士階級と並ぶほどだった))、警士(リークトル、lictor)、送達人(ウィアートル、viator)、公布人(プラエコー、praeco)、ラッパ手(これらリークトル以下の補助吏は劣格であり、しばしば奴隷や解放奴隷がなった)などである。これらの補助吏は事実上終身その職にあったが、政治的な重みは全く持っていなかった(この役職は共和政の機構において、非元老院議員が就くことのできる最高位の地位だった。解放奴隷や非ローマ市民の社会的地位の上昇に伴い、この役職においても社会的階級がみられた。)。

 ローマの政務官の任期は普通一年である(一年任期制の原則)。ただし監察官の任期は1年半であり、独裁官の任期は半年を限度とした。

 共和政初期のうちには政務官就任の時期はしばしば変更されていたが、紀元前三世紀末からは3月15日が官職就任の日となり、紀元前153年からは1月1日となった。ただし、護民官は他の政務官より早く、12月10日に就任した。

 ローマの政務官は、一名または複数の同役を持つ(同役制の原則)。ただし独裁官と騎兵隊長は例外である。同役内で管轄分けをする事はなく、全員がその管轄事項全部に就いて権限を持つ。政務官は、同役のとる措置に異議を唱える事が出来、その措置を全く無効にする事が出来た。

(この件について『古代ローマ帝国の研究』(吉村忠典)P294〜6にはこうある。
  •  同僚どうしが話し合いによって物事を決めることはあるにしても、ローマの支配者は決して民主的な人たちではなく、一人一人がもっと権威主義的である。だから定員が四人なり六人なりの公職があっても合議制はとらないし、それぞれの「長」というものもない。
     したがって同僚中の一人が、他の同僚に諮ることなく、その人一人だけの独断で何かを行っても、ローマではこれはそのまま直ちに有効である。ただし、他の同僚の中の一人でも「拒否権」(正しくは「干渉権」)を発動したら、それで直ちに前の人の行動は無効になる。拒否に対する拒否は成り立たない。したがって、同僚制といっても一人一人が単独で自由かつ完全に行動することができるのであり、いわばその公職を独占していた。だから「拒否権」によって互いに掣肘しあったのである。同僚の意見など聞かなくてもまったく問題はない。しかし聞いておかないと、事柄によっては同僚の拒否に遭い、その意味では、やはり根回しが必要であった。
  •  古い時代ほど二人の統領が同じ所で任につくことが多く、そういうときにはその二人が、ローマ市では一ヶ月ごとに、戦地では一日ごとに輪番で命令権を行使し、したがって交替でファスケスを持つ警吏を先行させた。そういうときには籤引きで順番を決めるとか、話し合いで決めるとか、若いほうが年長者に先番を譲るとかいうことがなされた。しかし輪番であっても、休んでいるほう、つまり下番の者は、任務についている者、つまり上番の者に対して拒否権を行使することができた。ただ、戦場ではそれはできなかった。)



 ローマの政務官は、上級権限者の下級権限者に対する禁止権を持つ。独裁官と護民官は全ての政務官に対していかなる例外もなしに禁止権を持ち、執政官はそれ以外の政務官に対して禁止権を持ち、次の序列に法務官が、そして財務官はいかなる政務官に対しても禁止権を持たなかった。

 ローマの政務官職に於いては、一人の人物が同時に複数の政務官職に就くことは許されない(官職兼任の禁止)。

 初期にはなかった事であるが、時が経つにつれてその他の法原則として、或る政務官職の任期満了後直ちに別の政務官職に就任する事の禁止(接続就任の禁止)、連続して同一の政務官職に就く、或いは間隔を開けたとしても二度同一の政務官職に就く事の禁止(反復就任の禁止)、また比較的重要な政務官職に就ける最低年限に就いての規定などが設けられた。


 元老院と政務官との関係については色々な論があるが、たとえば『支配の天才ローマ人』P178には、民会が執政官を選ぶ選挙の時にも元老院の操作があり、またどの執政官をどの戦場に送るか、一人の将軍を何年間その任地にとどめておくか、などは元老院の判断によった、という。抽選で任地を決める原則があったが、それは原則にすぎず、将軍の使える予算は元老院が決めたし、将軍が使う軍隊の大きさも元老院が決めた……と。






個々の政務官職に就いて

●執政官(コーンスル、consul)

 「統領」とも訳される。1年任期で2人の複数官。通常時の最高権限保持官職。

 ローマに於ける国政を指揮し、特に元老院及び民会との折衝を行い、財政、裁判などをも司った。しかし執政官の主要な任務は、軍事行動の指揮にあった。執政官は最高指揮権(インペリウム、imperium)を持ち、殆ど何の制約もない強大な権限を持っていた。

 正執政官が病気・戦死その他で欠けた場合には補欠執政官(コーンスル・スフェクトゥス、consul suffectus)が選ばれ任期の残りを努める。戦争などに於ける非常事態に於いて、執政官の一名によって独裁官を任命出来た。官職最低年限は43歳。

 初期は貴族のみが就任出来たが、前444〜367年の執政官権限軍事護民官がしばしば任命された時期(その場合執政官は任命されない)を経て、前367年には平民も就任可能となり、前366年に初めて平民出身の執政官が任命された。(以下、『共和政ローマの寡頭政治体制』P218による)両執政官が平民によって占められるのは前172年が最初である。だが前215年戦死したパトリキー・コンスルの後任にいったん平民が選ばれるという出来事が起きている(Liv.31.12-4)ことから、その可能性はすでに前3世紀末の時点で開かれていたとも考えられる。当該の補充選挙は結局凶兆を理由に無効と宣せられた。その背後には、両執政官とも平民となる事態を避ける意図があったかもしれないが、真相は定かでない。

 ローマの勢力範囲拡大に伴い任務が1年を越える場合には、指揮権が延長されて前執政官(プローコーンスル、proconsul)となり、続けて職務を遂行した(ただし共和政後期になると、執政官にまだなった事がない者にもこのプローコーンスル職が与えられる例が多く出てくる。そのため、「前執政官」というよりは「執政官代行」と言った方がよいかもしれない)。また、執政官以外の者が執政官と同格の軍隊指揮権を与えられる場合があり、執政官格(コーンスラーリ、consulari)と呼ばれた。







●執政官権限軍事護民官
 (トリブーヌス・ミーリトゥム・コーンスラーリ・ポテスターテ、
  tribunus militum consulari potestate)


 前446年に制定された政務官職で、前367年までしばしば執政官の代わりに任命された。定員は3名、4名或いは6名で、平民も就任し得たが凱旋式の権限を持たない。

 執政官権限軍事護民官が任命されたのは、前444年、前438年、前433-2年、前426-4年、前420-14年、前408-394年、前391-76年、前370-67年であった。このうち平民が就任したのは、前400(6人中4人)、399(6人中5人)、396(6人中5人)、383(6人中1人)、379(ディオドロスによれば8人中5人、リーウィウスによれば6人中3人)年であるが、前3者は「平民が軍事トリブヌス職に到達した数少ない例で」あるにも関わらず平民の数が多いために「不自然」ともされる(『共和政ローマの寡頭政治体制』P51による)。




●法務官(プラエトル、praetor)

 執政官のすぐ下に位置する高級政務官職。由来としては、元々執政官の3人目 の同格者として設定され、ローマに残って国政を指揮する役割を担っていたと考えられる。

 前367年に首都法務官(プラエトル・ウルバーヌス、praetor urbanus)が創設され、ローマ市民間の事件に就いて裁判権を行使した。これは執政官の次席同僚官という役づけであった。

 前337年に法務官職は平民へ解放される。前247 年には外国掛法務官(プラエトル・ペレグリーヌス、praetor peregrinus)が置かれ、ローマ人と外人との間の事件に就いての裁判権を行使した。

 この2名の法務官の他に、プラエトルの同役組織に属する者としては、更に外地にある直接支配領域(属州)の総督もあった。しかしこの属州長官(プラエトル・プローウィンキアエ、praetor priovinciae)は上記2名の法務官とは全く別種の任務を持っており、常に遠方の任地に居たので、実際に法務官のメンバーとして活動したわけではなかった。総督の職務に就いては守備範囲がはっきり決まっていた為同役制の原則が崩れており、法務官による異議権の行使がなかったばかりでなく、総督達の間の同役制も全く建前上のものに過ぎなかった。

 前227年、法務官の定員が2名から4名に増員された結果、執政官職より先に法務官職に就くのが有利とされた。以後執政官職の前に法務官職に就任するのが通例になり、政務官職就任の階梯としての法務官職の地位が定まった(『古代ローマのイタリア支配』P313による)。

 最初の総督(属州長官)職は、第一次ポエニ戦争に於いてカルターゴーから奪取したシキリア島と、第一と第二のポエニ戦争の間に併合したサルディニア・コルシカ(両島で一属州)の為につくられ(紀元前227年)、紀元前197年には、勝ち取ったばかりのヒスパーニア両属州(上ヒスパーニアと下ヒスパーニア)の為に、更に2つの正規の総督職が設けられた。

 属州の数はその後更に増加したが、総督の数はスラの時代まで増やされなかった(すなわち属州長官4名)。総督は、所轄の属州に於いて軍事と裁判に関する最高の権限を持っていた。

 プラエトル官職は、独裁官スラによって、恐らく紀元前81年に次の様に変更された。即ちプラエトルの数は従来6名(2名の法務官と4名の属州長官)だったものが8名に増やされ、その全員に裁判の仕事が委ねられた。市民間の民事裁判ないし市民と外人の間の民事裁判は従来通り首都法務官ないし外人掛法務官によって担当されたが、その他6名のプラエトルは、6つの常設刑事法廷(その一部はスラ以前に、残りはスラによって設置されたもの)をそれぞれ一つずつ管掌する事になった。つまり、属州長官職は廃止され、プラエトル全員が首都ローマで活動する法務官となったのであった。彼らは法務官の任期を終えた後に法務官代行(プロプラエトル、propraetor)として(執政官の任期満了後の執政官代行(プロコーンスル、proconsul)と同様に)属州総督の職に就いた。



●按察官(アエディーリス、aedilis)

 造営官とも訳される。中級の政務官。本来は神殿に就いての監督、とりわけ当該の神の保護の下に営まれる商取引の監督を行ったが、やがて後者即ちローマの市場の監視と公道や広場の整備が主たる任務となった。これに加えて按察官は、次第に神々の為の大祝祭の設営(その付き物である娯楽や宴会やその他のお祭り騒ぎ)を担当する様になった。

 これらの祝祭を主催する按察官は費用の大部分を負担しなければならなかったが、高級政務官になる為の人気取りとなるので、 この官職を望む者は多かった。

 紀元前493年に創設された按察官は平民が就任するものであり、その頃は神殿監督を担当していた。元来は平民の神ケレースの祭司職で、ケレース神域が平民の根拠地なので、按察官も護民官と同様、平民のための公職者とされ、祭の催し物の監督を主要任務とするようになった。前367/6年にはその上位に位置づけられる上級按察官(アエディーリス・クルーリス、aedilis crulis)が創設され、貴族が就任した。

 (以下、『プルターク英雄伝六』P60より)公共建築物、土木事業、市場の管理、風紀の取締を司る四人の役人。クルーリス即ち貴族から選ばれるものと、プレベーイウス即ち平民から選ばれるものとあった。アエディーリスには二級あって、一方の名(クルーリス)は事務を執る時に腰を掛ける脚の曲がった椅子(背も腕もない象牙の畳椅子、セ^ラ・クルーリスという。クルーリスはク^ルス即ち軍から来ている。プラエトルもコーンスルもこの椅子を用いた)から出たもので、もう一つの下級の方はプレベーイウス(民衆の)と呼ぶ。上級のアエディーリスを選ぶ度に、人々はもう一方のアエディーリスの投票もする。




●財務官(クァエストル、quaestor)

 共和政下の最下級の政務官で、元老院議員となるのに最低必要な資格であった。

 紀元前447年創設、か或いは、今まで執政官が任命していたものを、民会にて選出する様になった。

 財務官の定員は20名(共和政末期)。そのうち幾人かは、元老院ないし高級政務官の委任によって、首都の中央経理(国庫:サートゥルヌス神殿にあった)を管理する。残りは高級政務官の個別経理を管掌する財政担当官であり、原則として戦場にある執政官に1名ずつ随行し、必要な場合には執政官の指揮の下で軍事的任務をも果たした。通常は属州長官もまた1名(シチリアの属州長官は2名。カエサルが前54年に2名を持っていたのは異例)の財務官を持っていたが、これは純粋の財務担当官であった。彼らは税収入や会計を担当し、戦争時には兵士の賄いや給料の支給、戦利品の売却などの財政を預かり、時には軍団も指揮する。

 紀元前267年以降は4名の艦隊財務官(クァエストル・クラッシクス、quaestor classicus)が置かれ、ローマの4つの艦隊基地(オスティア、カンパーニアのカレース、ラウェンナ、もう一つは不詳)で軍の経理を担当した。

 財務官達は、財政の運営に関して元老院ないし 高級政務官の指示に拘束されていた。艦隊財務官は違っていたかもしれないが、 一般の財務官は独立して職務を行っていたわけではなかった。

 (以下、『古代ローマ帝国の研究』P297〜より)クァエストルは、王政時代から殺人事件の調査をやらされたので「取り調べる者」という意味でクァエストルと呼ばれるようになったという説があるが、そうだとしても彼にはもう一つ大きな仕事として国庫の管理という任務があり、前5世紀後半に貨幣に相当するものが現れたのちにはこのほうが重要になる。つまり、彼は国庫の鍵を握ったのである。ただし統領または元老院の命令するままに支出した。また国庫は金銭ばかりでなく公文書も保管する。元老院決議や民会に出された提案などがきちんと製本されてクァエストルによって保管され、求められればいつでも古い文書が出せるようにしてあった。また戦陣においては、彼は出納・兵站を扱ったばかりでなく、直接に軍隊の指揮をとることもあった(例えばカエサルの「財務官」としてガリアで転戦した小クラッスス(『ガリア戦記』岩波文庫P162、P177以下)、シチリア総督の「財務官」でローマ艦隊を率いて海賊船を拿捕した「財務官」(吉村忠典『古代ローマ帝国』岩波新書P167)等)。
 ……
 ローマ市で任務につくクァエストルは2名で、「首都クァエストル」と呼ばれたが、プロウィンキアの統領(ないしそれに相当する者)の下で働くクァエストルは、統領の名をつけて、例えば「ポンペイウスのクァエストル」「カエサルのクァエストル」などと呼ばれた。ここでは統領と補佐役との関係は、他の公職の間では例を見ないほど親密で、親子の関係に譬えられた。任期が終わった後にも、この二人の間の親密な関係は後々まで維持されるのが普通で、例えば統領だった人が後に裁判にかけられたとき、その補佐役として彼に仕えたことのある者は、その訴追者ないし訴追者側の証人として法廷に立つことは道義に反すると考えられた。上記のようにその任命には統領の意向が強く反映されたし、共和政の最初、統領は自分の好む人をその補佐役に指名したということもあるし、元来、統領とその補佐役との関係は決していわゆる「官僚的」なものではなく、もっと血の通ったものであったようである。



→古い時代のクァエストルについて(Liv.3.24.3.注から)
 王政期に由来する quaestor parricidii(殺害糾問のクァェストル)であろう。ローマ初期にはたいていの問題を民事裁判で処理し、刑事事件に扱うことが少ないがそのうち共同体への反逆行為を二人委員 duoviri perduellionis が、殺人、傷害などを右のクァェストルが担当したと思われる。なお、この頃のクァェストルはコーンスル職経験者で(次注クィントゥス・セルウィーリウス 468,466執政官、マルクス・ウァレリウス 456執政官など)、公職序列の最下位に立つ後世の財務担当官クァェストルとは明らかに異なる。




●護民官(トリブーヌス・プレービス、tribunus plebis)

 護民官はローマの政務官制度の中で特別の地位を占める。

 紀元前495年の聖山事件によって、護民官職は平民を守る為の官職として貴族からの譲歩によって認められる事となった。最初期の護民官は2名で、その任務は執政官の横暴から平民を守り市民に対する刑罰或いは逮捕への異議申し立て権、戦時を除き政務官の職 務行為や元老院の決議に対する拒否権を持つ。また、その身体は神聖不可侵とされた。しかし、その職権はどちらかと言えば拒否権的なもので、自ら運営・統治 を行う性格は有していなかった。また護民官の権限はローマ市域に限られ、市域外では(ローマ領域であっても)権限を行使できなかった。

 平民が身分闘争に勝利を収め、平民の上澄みが国家指導者層に組み入れられてからは、護民官は本来の任務を失う。しかし、護民官職は存続し、護民官が率いた平民集会も紀元前287年に民会として承認され、護民官は正規の政務官職として認められる事となった。

 こうして護民官は、最高級の政務官に対してさえその行為を禁止する権利(優越権限による異議権)、全国民を拘束する法律を平民集会に於いて制定させる権利(平民との交渉権)、元老院を召集する権利(元老院召集権)を持つことになった。しかし護民官に貴族が就任する事も多くなっており、護民官は貴族にとっての秩序の監視人としての役割を担う様になる。だが、改革の時代には再び護民官職権は急進的改革派のよりどころとなり、貴族に対抗するものとなった。

 (以下、Liv.3.64.6.注より)他の公職者は一人掛けの椅子(sella)を専用し、護民官は数人掛けの長椅子(subsellia)に座した。市民達は民会、裁判などの開催中、起立し通しで、これが公職者への表敬の態度であった。

 (以下、『古代ローマ帝国の研究』P304より)反統領(護民官のこと)は「命令権」も「鳥占権」ももたないので、警吏をもたないし、あの折り畳み椅子も持たない。他方、彼はいつ助けを求められても応じ得るように、自宅の扉を夜中でも閉じてはならなかったし、一日以上ローマ市を留守にしてはならなかった。



●監察官(ケーンソル、censor)

 臨時の政務官で、通常5年毎に選ばれたが、間隔が短くなったり長くなったりする事もあった。共和政末期にはもっと長い間隔で選出されている。任期は1年半。紀元前443年創設で定員は2名。

 監察官は、本来は市民の財産の見積もりを任務とした。財産の見積もりは極めて信頼できる人にだけ任せる事の出来る仕事であるから、監察官は政務官の序列の中で最も高貴な官職と見なされた。監察官の職に就いたのは、まず例外なしに執政官経験者であった。監察官は、本来の職務の性質からして、特に高潔な人物にしか任せられないその他の任務をも担当するのに相応しい官職であった。そこで、ローマの支配権が益々多くの利益や権力をもたらすようになり、その為に指導層が分裂していく最初の兆候が見られるようになると、監察官は、伝来の行動様式に対する違反行為を摘示し、社会に向かってそのような人物を排斥するように呼びかける機関となり、品位を落とした元老院議員から場合によってはその資格を剥奪することによって、元老院議員の懲罰機関となった。また、監察官は、時代を降ると共に財政一般に就いての最も重要な政務官となり、国有財産を管理すると共に、とりわけ国有財産使用料の取り立てを担当した。

 (以下、『プルターク英雄伝十』P181より)不品行のため元老院にふさわしくないと認められた議員は資格者名簿から除名されるが、この不名誉は永続的ではなくて、元老院に入る権利を伴っている官職に再び選ばれるか、除名を決定したケーンソルの後任者から復権を認められれば、元の地位を得ることができた。





●独裁官(ディクタートル、dictator)

 独裁官は非常事態に任命される政務官であって、元老院の意向を受けて執政官が(選挙を経ずに)指名、任命した(ただし前217年のトラシメヌス湖畔の戦いの直後、ローマに執政官が一人もいなかった為、民会によってファビウス・マークシムスが独裁官に指名された例がある(Liv.22.8.5-6;Polyb.3.87.6注)。単独官の官職であり、同役制の制限を受けない。執政官ならば多くの場合、企図を実行するために元老院の証人を必要とするが、独裁官は全権を託された司令官であり、非常事態を克服する為に、国制を変更する以外の事は何でも成しえ、全執行権限を一手に握った。

 最初は独裁官が任命されると他の全ての政務官は職を退いたが、後に正規の政務官は職にとどまり、ただし独裁官に服すべきものとされた。独裁官の任期は6ヶ月以内であり、その任期中に非常事態が克服されなかった場合には必要に応じて翌年(春)もう一度独裁官が任命された。独裁官は補助官として自ら1名の騎兵隊長(マギステル・エクイトゥム、magister equitum)を指名、任命した(ただし前217年の例については、民会がこれも指名している)

 Liv.3.27.1.注他によると、騎兵隊長の指名が独裁官の最初の仕事であった。なお、考古学的研究に依れば、馬は初めは車をひかせ、後に騎乗するようになった。凱旋者や独裁官の兵車搭乗は先史以来の遺風であり(独裁官は騎乗しない定めであった)、また、貴族ないし富裕市民が騎兵勤務を果たすのに、それを率いる騎兵隊長が公職序列で独裁官の下位に立つ所以もそこにあるという。

 独裁官は選挙や祭典の監督のために任命されることもあり、その数も多くを占める。

 独裁官は当初外部的非常事態、即ち外敵の脅威に対する為のものであった。したがって独裁官は「戦争の為の独裁官」とも呼ばれたが、ローマが拡大し、イタリアが外敵によって危機に陥る事が事実上なくなると、独裁官は任命されなくなっていく。しかし、ローマの国内で内乱が生じた時、スラ及びカエサルは、独裁官権限を「国家再建の為の独裁官」と自称する事によって利用しようとした。




○政務官予定者

 民会で選出され、新年度の就任を待つ政務官職予定者。

 Liv.3.33.4.注では「指定コーンスル(デーシーグナーティ・コーンスレス?、designati consules)」という名で、「民会で選出され、新年度の就任を待つコーンスル予定者。」とある。しかし他に、大カトーの長男のカトー・リキニアーヌスが前152年に「選定法務官(praetor designatus)であった時に死んだ。」(『ラエリウス』注9.12)、『年代記(上)』P189に「予定執政官ドゥルスス……」とあり、この「指定、選定、予定、予定者」は執政官職に限らず他の政務官職にもあったのであろう。

 訳語として定まったものがあるかどうか不明であるが、私としては、「予定者」が最も直感的に分かりやすいことから、「〜予定者」の訳を採用することにした。





○政務官代行(promagistrates)

 「代行」は『ローマの共和政』(J・ブライケン)の用語。「Promagistrates」は、『共和政ローマの政務官達』の用語。『支配の天才ローマ人』(吉村忠典氏)では「代理官」。
 具体的には、「proconsul(執政官代行、前執政官)」及び「propraetor(法務官代行、前法務官)」、「proquaestor(財務官代行、前財務官)」を指す。『古代ローマ人名事典』では「前執政官」「前法務官」であり、代行、代理官などとは訳していない。

 それぞれ執政官、法務官の項目の最後にあった様に、任期延長に伴って前任者が代行的にその役割を持つ場合には「前〜」という名前がふさわしかったろうが、共和政後期になってくると、執政官にまだなっていないのに前執政官として任地に赴く場合が増えてくる。そのため、吉村忠典氏の様に「代理官」という言い方をした方がよいのかもしれない。ただ、そうすると「執政官代理官」「法務官代理官」と「官」が2回来るので、あるいはJ・ブライケンの様に「執政官代行」「法務官代行」と言った方がよいのかもしれない(私は最初、「前執政官」等の用語をとっていたが、前年に執政官になっていない例が多く出てくることを鑑みて「執政官代行」等の用語を採用することにした)。

 この代理官は、他の政務官職のように民会が選んだりやめさせたりするのではなく、すべて元老院が決定した。代理官の行動は全面的かつ直接的に元老院の掌握下にあって、民会を介さないものであった。





○元老院主席(プリーンケプス・セナートゥス、princeps senatus)

 元老院議員の第一人者で、普通は最長老の監察官経験者がなり、すべての元老院の審議において最初に発言する権利を有し、その権威ゆえに絶大な影響力を持った。

 (以下、『支配の天才ローマ人』P27より)市民監査の際に指名される「元老院首席」は普通貴族の「大氏族」に属する最古参の監察官格の議員が選ばれた。






○リークトル(lictor)

 王の先に立って進む警吏。斧の柄に棒をたばねたファスケース(fasces)を捧げ持ち、懲戒(棒)と生殺与奪(斧)の大権を示した。エトルーリア起源で、共和政に引き継がれた。

 (以下、『The Oxford Classical Dictionary』より)リクトルはエトルリアに起源があり、彼らは最高指揮権を持つ政務官のためにファスケスを運んでいた。彼らはローマ内でもローマ外でも常に政務官に同行し、一列縦隊で政務官の前を進み、各人が左肩にファスケスの束を持っていた。彼らの役割は、政務官が近づいて来たことを知らせることであり、その道からウェスタの巫女と既婚女性以外のすべての者を立ちのかせ、政務官の逮捕、召喚、初期には刑の執行の権限を履行することであった。
 リクトルの伝統的な衣裳は、ローマ内ではトーガであり、ローマ外および凱旋式の行進においては赤いマントで、葬式においては黒い喪服であった。
 2人の執政官の間の優先権の交替が、ファスケスの保有の交替で示された。政務官のファスケスの数は、その位階によって決まった。執政官(及び共和政期の執政官代行)は12、独裁官は恐らく24、法務官と騎兵隊長は6であった。

 (以下、Liv.3.36.3.注より)リクトルの捧げるファスケースは強大な公職者権限への畏怖と共に、かつての王政への恐怖や嫌悪をかき立てたらしい。
 (以下、Liv.3.36.4.注より)リクトルは、市内ではファスケースから斧を除き、民会ではファスケースを肩から下ろした。

 (以下、『古代ローマ帝国の研究』P295より)のちのちまで命令権保持者は特別の「標章(インシグニア)」を持ったが、統領の「標章」の一つに、彼に随行する12人の警吏がおり、ファスケスという、斧といっしょに棒の束を革紐で縛ったものを左の肩に担いで、統領の露払いをする(ただしローマ市内では斧は外す)。警吏はつねに統領についてまわり、統領が市民に演説をするときにはいっしょに演壇に登る。そればかりでなく、統領が用もなく散歩をするときにも一緒にいる。統領が人を訪問するときにも、ついていって訪問先の戸を叩く。統領が公共浴場に行くときにもくっついていく。こういうときにも、突然誰かの奴隷を解放する、というような「公務」を頼まれることがあったからである。また、統領が自宅にいるときには警吏はその邸の玄関の間に控えている。統領がまったくの私用をしているときも、この警吏が傍らにいなければそれは習慣に反することとされた。だがむしろそこでは公務か私用か、という明確な区別はない。「勤務時間中」などという観念はない。こうやって、いつどこででも統領としての努めを果たすことがあったので、統領は「車で運ぶ椅子」を用いた。これは簡単な象牙製の折り畳み椅子であるが、統領は奴隷解放や裁判や徴兵などもこの椅子に座って行わなければならなかった。ローマでは民会などでも、公職者は座り一般市民は立っている、というのが大原則である。だからこの椅子も統領の「標識」の一つとされる。



○中間王(インテルレークス、interrex)

 両コーンスルが欠けた場合、補充のために元老院は議員の一人を中間王に指名した。中間王は5日以内に任を果たせない際、次の中間王を指名するが、その範囲は貴族系議員に限られたので、彼らの利害をコーンスル補充に反映し得た(Liv.1.17.参照)。なお、最初の中間王はコーンスル候補者を指名しないのが通例だったらしく、何人かの中間王を経て就任の三日目に指名するのが慣行だったかとも思われる。

 臨時の王として命令権を帯びる。中間王制は共和政期にも存続したので、通説では王政期からの継続と見る。一説には、父達の批准(patrum auctoritas)を王政廃止後の措置と見るが、決定的ではない。いずれにせよ、人民の決議(populi iussus)が不可欠であったのは確実と見てよい。



○十人委員(Decemviri Consulari Imperio Legibus Scribundis)

 (以下、Liv.3.35.11.注)第二次十人委員の実在を疑う説がある。第一次委員は全員が貴族で、元コーンスルであるのに、第二次委員の貴族は5名、元コーンスルは三名(クラウディウス、ミヌキウス、ファビウス)にすぎない。残る平民5名の氏族を検討すると、ラブレイユスは詳細不明、ドゥィリウスは早く滅び、オッピウス、ポェテリウス、アントーニウス三氏族は前2世紀に有力になった。恐らく第二次十人委員の表は前3世紀後半、family tradition に拠って作られたと見る。しかし再度の十人委員選出と委員の名(の大部分)とは諸伝に一致し、これは右の懐疑説も説得的否定に至っていない。第二次委員は平民5名を擁しながら著しく反平民的である(3.36.以下)など俄には解き難い問題を残すが、存在自体は認めねばなるまい。




○レーガートゥス(legatus;Legates Lieutenants)

 「副官」の呼称を私としては採用することにする。

 軍団の将校。(以下、Liv.3.29.2.注)軍団指揮者の補佐役(同時に目付役)で、場合によっては指揮者を代行した。

 (以下、『古代ローマ人名事典』より)
 副官 legatus
  特別任務を担当し、使節として元老院により任命されるものと、使節または副官として政務官により任命されるものがある。共和政後期には、元老院議員が属州総督のスタッフとして随行したり、また特にカエサルにより個々の軍団や分隊の指揮官として用いられた。



○トリブーヌス・ミーリートゥム(tribunus militum)

 「軍団将校」の呼称を私としては採用することにする。

 軍団指揮者たる執政官を補佐する幹部将校。『共和政ローマの寡頭政治体制』P188によると訳は「軍団将校」。(以下、Liv.3.28.1.注)民会で選出された。かなり早く定員6名とされ、2名ずつ二ヶ月交替で軍団の統轄的任務を担当した。あとの4名は軍団指揮者に直属するが、cohors, manipulus の実戦指揮には携わらなかった。
 (以下、Liv.3.51.2.注より)後世の兵士トリブーヌスは民会で選挙され、一軍団に6名ずつ配属された。本来は軍団指揮者の幕僚で、大隊、百人隊などの実戦指揮者ではない。
 (『大カトー』注P99には、「一軍団指揮官(tribunus militum)に四千の歩兵と三百の騎兵を与えてその牧人に従わしめ……」、またP100には「軍団指揮官(tribunus militum)として……」という記述がある。)

 
(以下、『共和制ローマの軍隊』P13〜より)軍団にはそれぞれ、6人のトリブヌスがついた(ポリュビオス、6.19.8-9)。トリブヌスとしての軍務は大変な名誉を伴い、前執政官でさえもトリブヌスとして軍務に就いた(スオラーティ;ケッピー、39)。通常は、6人のトリブヌスは3組に分かれ、それぞれの組が2ヶ月交替で軍団を指揮した(ポリュビオス、6.34.3)(これらの組は、隔日で交替して軍団を指揮したかもしれない(ウォールバンク、II 583-4)。



○大使(Legates, Ambassadors)
○使節(Legates, Envoys)

 『共和政ローマの政務官達』では峻別されている。




○プローウィンキア(Provincia)

 (以下、『古代ローマ帝国の研究』P296〜より)ローマが大きくなった後、わずかな人間に、一人一人がローマ市と、スペインと、アフリカでの裁判の責任を持て、敵が攻めてきたら防衛の責任を持て、と言われても、当時としてはそれは不可能であり、そのときにはそれぞれの人の「管轄」が決められる。これを「プロウィンキア」という。英語の「プロヴィンス」の語源である。しかし、スペインをプロウィンキアとする統領は、たまたま別の人のプロウィンキアであるアフリカにやってきても統領としての権威を失わない。
 ……
 外地というのは特別なところで、一人の統領ないしそれに相当する権能をもった者が一つのプロウィンキアに派遣されるので、同僚制という制約がなく、また、遠い所で毎年任務交代していると大変なので、何年にもわたる任期の延長が行われ、その意味で権力が制約のない形で行使されるという状態に近づくことになる。

 (以下、『支配の天才ローマ人』P242より)日本人はこのような、いわば永久管轄の地域を「属州」と呼びならわしている。しかしそれは、その地方がローマの「領土」になったということではない。自由国であることとローマ人の管轄区の中にあることとは矛盾しない。それは、強国であるローマが一方的に将軍を送り込んでローマの利益を守らせているのであって、現地人がそれに同意したか否かとは必ずしも関係がない。その意味ではプロヴィンキアとは、力関係を表す言葉だとも言いうる。





○クーリオ長(curio maximus)

 旧い三部族 tribus の下部単位 curia の長をクーリオと呼び、クーリオ30名の統括者をクーリオ長と称した。curia に基づくクーリオ民会はケントゥリア民会の創設後(Liv.1.42〜43)、政治的意義を減じたが、新選出公職者への命令権賦与、市民の養子縁組の承認など宗教的な機能を保ったので、その長は伝統的敬意を集めたと思われる。



 司祭職(フラーメン:Flamen 司祭、神官)について……

 ローマの聖職にあった司祭達は、多くの儀式上の制約に従わねばならなかった。殊にユピテルの司祭は、特別の許しがないかぎり、一晩でも市を離れることはできなかった(Liv.5.52.13.『人生の短さについて』P192より)



○神祇官(ポーンティフェクス、pontifex)

 「祇」の字は、古代ローマ関係の本では本来「示氏」と印刷されていることが多いが、パソコン上では表示できないよう(「祗」は別の字である)なので、やむなく使用している。

 最高神祇官(ポーンティフェクス・マークシムス、pontifex maximus)は、『古代ローマ人名事典』では「大神祇官」と訳されている。




○鳥占官(アウグル、augur)

 (以下、『ラエリウス』注1.1)単に鳥の鳴き声やその飛翔の仕方のみならず、獣の臓腑、雷、稲妻などによって、主として公事に関する吉凶を卜する官職である。ローマ人は重大な国事を決するに当たっては必ず卜占を行ったから、鳥占官の役目は、政治的にも非常に重要であった。鳥占官の数も時代によって異なり、紀元前81年までは4名であったが、その後15名になり、カエサルの時以来16名に増加した。

 (以下、Liv.1.18.6.注より)アウグルは、実行を決定したことに対して神兆を求め、これを解釈するだけで、占い者といっても未来は予言しない。神意のしるしは天空、飛鳥、鶏(餌の啄み方)、四足獣、異形で、神兆を待って行う占い augurium ablatum には右の何れかを見、人間の側から神兆を求める占い augurium impetratum には天空、飛鳥を監察する。これらの総称が auspicium で、その場所が templum。アウスピキウムに際し、アウグルは地上と天空に方形のテンプルムを設定した。

 (以下、Liv.1.18.6.より)そこで彼(ヌマ・ポンピリウス)は鳥占い役(アウグル)に導かれ−この後、アウグルは名誉のため、公的永続的祭司職とされた−砦(アルクス)におもむき、南面して石に腰をおろした。アウグルは頭を包み隠し、リトゥスと呼ぶ杖、節のない、曲がった杖を右手に持ち、ヌマの左方に座を占めた。次いで町と野を見はるかすと、神に祈りをささげ、東から西まで〔天界の〕方位をさだめ、南の方に右の方域、北の方に左の方域があると唱えた。対応して〔地上にも〕、視界の届く限り遠くまで、〔方位の〕しるしを心で区切った。それからリトゥスを左手に持ち替え、右手をヌマの頭に置き、こう祈った。「父、ユーピテルよ。これなるヌマ・ポンピリウス、いま、私が頭をおさえているこの者が、ローマで王となるも正浄(ファース)なりとせば、なにとぞ我らに確かなしるしを、私の作ったかの方位の間に顕示(あらわ)し給え。」 次に、〔神から〕送ってもらいたいと思う兆しを〔定めの〕言葉で述べた。そして、それが送られると、ヌマは王の宣告を受け、占いの場(テンプルム)から降りた。

 (以下、Liv.3.31.5.注より)鳥占い役は終身制で、古くは先任者が推薦して欠員を補い、前103年からトリブス民会で選挙した。



○ウェスタの巫女(ウェスターリス、vestalis;virgo vestalis)

 4人ないし6人からなり、30年の任期中は純潔を保ち、それを破れば生き埋めにされた。貴族の家庭から選ばれ、ウェスタの聖火を守ることのほか、祭典の菓子を作り、祭器を管理した。
 その長は、Vestalis Maximaと呼ばれた。
 『古代ローマ人名事典』には「ウェスタ聖女」とあるが、一般には「ウェスタの巫女」と呼ばれることが多く、また日本語の「聖女」は「非の打ち所のない女性」という様な意味合いが強くて「神に仕える女性」という意味はほとんどないであろうことから、私は「ウェスタの巫女」という呼び方を採用したい。また、「Vestalis Maxima」は、「巫女長」と訳した。



○??(Decemviri Sacris Faciundis)
 「Ciceroノ「法律論」ヲ読ム」によれば、「神啓書ノ解釈ヲ職務ト為ス」。
 「Wikipedia」によれば、シビュラの書を守り、そうするように元老院によって要求されたときこの教典を調べ、解釈するための委員?


○クィリーヌス神の神官(フラーメン・クィリーナーリス、Flamen Quirinalis)
 ローマ初期の軍神クィリーヌスの神官。

○マールス神の神官(フラーメン・マールティアーリス、Flamen Martialis)
 軍神マールスの神官。

○貨幣鋳造委員(モネタリス、monetalis)

○植民市三人委員?(Triumviri coloniis deducendis / Triumviri coloniae deducendae)後者は女性形の植民市の場合の呼称か?



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