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 マルクス・アティリウス・レグルス(267,256執政官)?-249?


 レグルスは第1次ポエニ戦争の英雄であり、またローマとカルタゴの対立を容
赦のない、決定的なものにした人物です。

 前264年にシキリアの戦争に巻き込まれる形で始まったローマとカルタゴの最初
の対立(この戦争の原因を、当時力を持ち出したローマの商工業者がシキリアを
望んだ為とする説もあるようです)は、陸のローマ、海のカルタゴの面目躍如と
いうべきか、陸戦ではローマが圧倒的優勢、海ではカルタゴが圧倒的優勢のまま、
4年を経過します。しかしローマは海戦を陸戦にすべく、コルヴスという新兵器
(?)を発明。これは吊り橋の先に鉤を付けたものを敵の船にがっちりと食い込
ませ、兵士がそれを渡って敵船を陸の戦場にしてしまおうというものでした。こ
の戦術によって260年ミュラエの海戦に勝利。そしてこのレグルスと、その同僚執
政官マンリウス・ヴルソの指揮によって256年、エクノムスの海戦にも勝利します。

 レグルスとヴルソは艦隊に乗っている陸兵4万を率いてすぐさまアフリカに上
陸しました。ローマ軍はアフリカの諸都市を次々に陥落させ、ヴルソは莫大な戦
利品を持ってローマに凱旋します。レグルスは残り二万弱の兵力を以てカルタゴ
の大軍を破り、和を請うてきたカルタゴに対して「シキリア、サルディニアを放
棄し、カルタゴの全艦隊を引き渡すよう」要求します。これは通商国家カルタゴ
にとって、死を意味する条件でした。カルタゴは徹底抗戦を決意し、ありったけ
の金を出してスパルタの傭兵隊長クサンティッポスを招きます。クサンティッポ
スとレグルスは255年チュニスで激突しましたが、名将クサンティッポスの指揮の
もと、戦象とヌミディア騎兵の機動力によりローマ軍は完敗、レグルスは捕虜と
なってしまいます。

 その後戦況は一進一退の攻防が続きますが、5年目にカルタゴはローマに講和
を持ちかけることにし、その使節団にレグルスを同行させました。「ローマに帰
り、和を勧める様に。講和が成ったならば、そのままローマに帰れば良いが、も
し講和が成らなければ帰ってきて再度獄に繋ぐことになるぞ。」と脅しをかけて
……。

 ローマでももう戦争を続けることはないという意見が大勢を占めていたのです
が、発言を求められたレグルスは、
「もはやローマとカルタゴは並び立ち得ない。それにカルタゴは今や疲弊し、士
気も大きく低下している……」
と情勢を述べ、
「今こそカルタゴを征服し、地中海に覇を唱える好機である。断固戦争を続行せ
よ!」
と説きました。

 元老院は戦争継続を決定。和平会談は決裂し、帰国するカルタゴ使節団ととも
に再び敵地に戻ろうとするレグルスに、家族、友人達はローマにとどまる様、涙
と共に懇願しました。しかし彼は、
「もしローマにとどまれば、史上長くローマをして不信の国たらしめることにな
る。私は、自分の命よりもローマの名を惜しむ。」
と、一同の嘆きをよそにローマをあとにしました。

 カルタゴ人は帰って来たレグルスを一睡もさせず死に至らしめました。レグル
スの息子達は身分の高いカルタゴ人の捕虜二人の身柄を貰い受け、同じ拷問を加
えて殺したということです。

 その8年後の前241年、第1次ポエニ戦争はローマの勝利を以て終結。そしてこ
のことが、後のハンニバル戦争を生むことになります。


 さて、いよいよ次回から第2次ポエニ戦争ですが、ハンニバルはおいといて、
ハンニバルと最初に戦った(218年ティキヌス河の戦い)大スキピオの親父さんは
とばして(笑)、2番目のセンプロニウス・ロングス(トレビア会戦)もどうで
もいいのでほっといて、ハンニバルと三番目に戦った民衆派のフラミニウスから
扱うことにします。

DSSSM:dsssm@cwa.bai.ne.jp