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 マルクス・クラウディウス・マルケルルス
             (222,215,214,210,208執政官)270-208


 マルケルルス(ホントは4番目のルは小さいルなんですが・・・カミ「ル」ル
スとかピュ「ル」ロスとかも同じ)という副名は、この人の時にこの家系に初め
て得られたもので、マルス(軍神)という意味です。この人は落ちついた性格で、
親切心に富み、学問に対する尊敬の念は高かったものの、自分ではそれをするこ
とはせず、寧ろ身体頑強にして勇猛果敢であったといいます。大スキピオなどと
違い、単純な感じのいわゆる「勇将」「猛将」であり、一騎討ちにも秀でていま
した。古代ヨーロッパ史では「一騎討ち」なんてあまり聞きませんが(私が知ら
ないだけ?)彼は一騎討ちでガリア人の王を倒し、非常な名誉を受けています。

 彼は当時としてはもはや古風な将軍であり(大スキピオやファビウスは伝統的
なローマの将軍とはちょっと毛色が違っています)、その強健にして素朴で飾ら
ないカリスマ的性格が、ローマの民衆に多くの支持者を生み出したのでした。そ
して彼のその攻撃的な戦略は、ファビウスの「ローマの盾」という呼称と対にし
て「ローマの剣」として称賛されることになります。


 彼は前222年の最初の執政官の時にガリア王を一騎討ちで倒すことによってガリ
ア・キサルピナで勝利し、凱旋式を挙げ、軍事的名声を確立します。
 カンナエの戦いの時に彼は艦隊を率いてシケリアに派遣されていましたが、極
度の危機的状況に陥ったローマはマルケルルスを呼び戻し、対ハンニバル戦の切
り札として、ファビウスと共に多く連続して執政官に、また執政官格指揮官(プ
ロコンスル)に任命していくことになります。ハンニバルは、
「私がファビウスを先生として恐れ、マルケルルスを敵手として恐れるのは、一
方の為に害を加えることを妨げられ、一方の為に害を受けるからだ。」
と言ったといいます。

 彼は先ずナポリ方面に派遣され、ハンニバル軍に損害を与えつつ、動揺するロ
ーマ同盟市を励まして離反を防ぎます。動揺の大きかったナポリの東北東12キ
ロのノーラという町には、家柄も一流で勇気の優れたバンディウスという人物が
いたのですが、この人はローマ同盟軍の一員としてカンナエで際立った働きを示
し、カルタゴ兵を沢山殺したものの、自分も満身に多くの矢を受けたまま死体の
間に見つかり、それをハンニバルは感服して身代金なしに釈放したばかりでなく
贈り物まで与えて友人及び賓客としていました。そこで彼はこの恩顧に報いる為
にハンニバルに味方していたのですが、マルケルルスはこれ程ローマの為に働い
た優れた人物を殺すのは正しくないと考え、また天性親切であったので、彼を説
得に行き、寧ろマルケルルスの最も忠実な味方となしました。
 またこの時期に彼は一枚岩であったハンニバル軍から三百騎のヌミディア騎兵
を迎え入れ、ハンニバルにショックを与えています。

 彼は次にシケリアに派遣され、シラクサ攻略に取りかかりましたが、あの有名
なアルキメデスの繰り出す投石機や反射鏡(?)の為に艦隊は次々と沈められ、
ばったばったと兵士が倒されていくので、ローマ軍は神と戦っている様な気分に
なり、マルケルルスもこれはどうしようもないとして、シラクサは包囲するにと
どめ、その間にシケリア島をほぼ制圧します。時が経ち、或る機会があって偶然
シラクサの一つの塔に目をつけたマルケルルスは、そこからシラクサ軍の反撃を
受けずに兵士を市内に侵入させ、シラクサの攻略に成功します。しかし城壁の上
に立ったマルケルルスはこれほど美しい町が略奪にまかされることになるのを悲
しみ、嫌々ながら或る程度の略奪を認めたものの、大きくそれを制限しました。
しかしマルケルルスを最も悲しませたのはアルキメデスの死でした。アルキメデ
スはローマ軍侵入の際自宅前に図を描きながら問題を研究しており、ローマ兵が
マルケルルスの元に連れていこうとしたところ、証明が終わるまではどこにもい
かないと言ったので、激昂したローマ兵が殺してしまったのでした(図の上に足
を乗せたローマ兵に対してアルキメデスが「私の図を踏むな!」と言ったので怒っ
たローマ兵が殺した、という説もあります。こっちの方が「らしい」様な気はし
ます)。

 前210年にはマルケルルスはイタリア本土に於いてハンニバルを相手に戦うこと
になります。彼は他の指揮官が全てファビウスの戦略を守ってハンニバル自身と
の戦いを避ける様にしているのとは逆に、ハンニバル自身と戦おうとしました。
マルケルルスはハンニバル自身が率いない軍との小競り合いを多数起こしてそれ
に全て勝利し、ハンニバル自身が率いる軍との最初の戦闘でも決着はつかなかっ
たものの、次の日に退却を始めたハンニバルを追って、ハンニバルの置いておい
た伏兵を打ち破って進みました。

 その後ファビウス軍がタレントゥム奪回の為に軍を動かしているのを迎撃しよ
うとしたハンニバル軍に対して激しく戦いを挑み、ハンニバルが陣営を方々に移
してマルケルルス軍との戦を避けようとする先々に現れ、ハンニバルを散々悩ま
せました。ハンニバルはカルタゴ軍を呼び集め、頼みました。
「我々はマルケルルス軍と戦うことにするが、この戦いを今までのあらゆる戦い
よりも激しくやって貰いたい。諸君も見る様に、あの男を追い払ってしまわない
うちは、あれ程勝利を得た後も息をつくことが出来ないし、我々が優勢であって
も暇を持つ訳にはいかない。」

 そして両軍は矛を交えたのですが、ローマ軍が敗北し、兵士達はマルケルルス
に許しを乞いました。それに対してマルケルルスは言いました。
「負けた者には許しは与えない。これから勝つつもりならば与えよう。明日再び
戦争をするから、ローマの市民が敗北の報知よりも先に勝利の報知を得る様にさ
せたい。」

 夜が明けると共に紅色の上衣が慣例に従ってこれから始まる戦争のしるしとし
て持ち出されると、前に敗北を蒙った部隊は自ら進んで第一線に就くことを要求
し、他の部隊は隊長達が率いて進発しました。ハンニバルはそれを聞いて言いま
した。
「なんということだ……。この人は勝っても休息を与えず、負けても休息を取ら
ない。成功すれば元気を出し、失敗すれば恥辱を感じて武勇を奮う口実となるこ
の人に対して、我々はいつまでも戦っていかなければならないのか!」
 そして再度交えた戦いによってハンニバル軍は大損害を受け、大きく退却を行
います。マルケルルス軍は勝ったものの、負傷者が多かった為追撃することが出
来ず、カンパニアに退いて回復を図りました。

 その後また期間をおいて執政官に選ばれ(前208年)、ハンニバルを悩ませ、小
競り合いを繰り返すことになります。

 両軍の間に堅固な丘があったのを、ハンニバルはかつてミヌキウスを罠にかけ
た様に、伏兵を置いてわざと占領しないでおきました。マルケルルスの陣営では
この丘を占領すべきだという意見が起こり、マルケルルスは少数の騎兵を伴って
この丘を検分に出掛けました。その時伏兵が襲いかかり、マルケルルスの脇腹に
投げ槍が突き刺さりました。護衛の騎兵は執政官を守ろうとしたものの、果たせ
ず多くが戦死し、捕虜になりました。

 ハンニバルはこの伏兵によってマルケルルスを倒そうなどと考えていたのでは
なく、マルケルルスが倒れたと聞くと驚いて駆けつけました。ハンニバルは遺体
の傍に立って暫くの間体を見守り、勝ち誇った声も出さず、厄介な手ごわい敵を
殺した人の様に喜んだ目つきもせず、思いもかけない最期に驚嘆し、遺体に立派
な着物を着せ、手厚く飾って火葬にし、遺骨を集めて銀の壺に収め、黄金の冠を
載せてマルケルルスの息子の許に送りました。ところがカルタゴ軍のヌミディア
人の幾人かがそれを運んで行く人々を襲って奪い取ろうとしたので、それに抵抗
する人々と入り乱れて戦ううちに遺骨が散乱しました。ハンニバルはそれを聞く
と、居合わせた人々に「神の意に背いては何事も行う訳にはいかない」と言って、
ヌミディア人は罰しましたが、遺骨を集めたり送ったりすることは思い止まり、
マルケルルスの最期も葬式が出来ないことも不思議ではあるが、何か神の思し召
しによるものだろうとした、ということです。

 次は閑話休題。マルケルルスの同名の息子に就いてです。


DSSSM:dsssm@cwa.bai.ne.jp