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大スキピオ     VS.      大カトー

           大スキピオ 対 大カトー

                一本目


 事の起こりは、大カトーがファビウス・マクシムス・クンクタトルに傾倒して
いたことにあります。ファビウスの下でタレントゥム奪回戦(209年)に参加して
いた大カトーは、ファビウスの人格に傾倒し、特にその人格と生活を模範として
いたのです。

 前205年、ハンニバルに対してイタリア半島に於ける優位をようやく得たローマ
では、若き大スキピオと老ファビウス(当時70歳)の意見が鋭く対立していまし
た。大スキピオは自ら執政官となって北アフリカに渡り、カルタゴを直接攻撃し
たいと申し出たのです。執政官になる為には40歳以上でなければなりませんでし
たが、この時大スキピオは30歳でした。またファビウスを第一人者とするローマ
元老院の大多数の意見は、イタリア半島にいるハンニバルを倒すのが先決という
ものだったのです。この対立は元老院ばかりでなくローマ全体をも二分する熾烈
なものでしたが、結局大スキピオは204年には独断専行の形でシケリアからリビア
に上陸することになります。

 大カトー(当時30歳)もまたこの遠征にクァエストル(会計監査官)として派
遣されましたが、熱心なファビウスの支持者として、大スキピオに対して仮借な
く反対の立場を取りました。

 まだ大スキピオがシケリアで戦備をしていた頃です。大スキピオがローマでし
ていた様な贅沢を戦場に来てまでほしいままにし、兵士達に惜しみなく金を撒く
のを見て、大カトーは言いました。
「金を使うのは別に大したことではない。しかし兵士の心を必要以上の贅沢と快
楽に向かわせて、父祖伝来の質素な習慣を破るのは甚だ面白くないことだ。」

 しかし大スキピオも負けじとやり返します。
「戦争に向かって帆に風をいっぱい受けた様に突進する人間は、無闇とやかまし
いクァエストルを必要としないのだ。私が国家に対して負うのは、行為(戦争)
に対する責任であって、金銭に対する責任ではない。」

 すると大カトーはシケリアからローマに戻り、この事をファビウスに注進に及
びました。まるで子供の喧嘩に親を連れてくる様なものです(笑)。しかしこの
事は元老院を動かしました。ファビウスが大カトーと共に、
「スキピオは言語に絶する程の金銭を浪費して、将軍というよりも祭礼の主催者
の様に競技場や劇場で子供らしい娯楽を行っている!」
と口を極めて弾劾したので、元老院は、果たしてその非難が当たっているかどう
かを明らかにする為に、護民官を派遣して、大スキピオをローマへ呼び戻そうと
したのです。

 ところが大スキピオは、
「勝利は戦備にあるのだし、兵士達に金を与えるのは戦備の為に必要なことだ。
また、暇な時には確かに友人達と娯楽を楽しんでいるが、人々を喜ばせる生活を
しているからといって、重大な事柄をなおざりにしている訳では決してない。」
と述べて、さっさと北アフリカに向けて出航してしまいました。


 前202年、大スキピオはザマの戦いでハンニバルを破り、第2次ポエニ戦争を
終結させます。大カトーは199年にアエディリス(造営官)、翌年法務官、195年
に執政官に選ばれ、ヒスパニア・キテリオル(スペインの東半分)を統治の州と
して受ける事になります。


 大スキピオと大カトーの最初の戦いは、やや大カトーに分があるものの、勝負
なしというところでしょうか。


                               引き分け

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