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           大スキピオ 対 大カトー

                三本目


 前191年4月24日、シリアのアンティオコス3世に対して、マーニウス・アキリ
ウス・グラブリオ率いるローマ軍は、テルモピュライの戦いに於いて大勝利を収
めました。護民官としてグラブリオの幕僚であった大カトーはこの戦勝の最大の
手柄を挙げています。

 前190年、アジアに退いたアンティオコス3世に追い打ちをかける為の執政官職
に、ルキウス・コルネリウス・スキピオ(大スキピオの弟)が立候補しました。
大スキピオは弟を全力をあげて応援し、弟が総司令官になったら自分が副官になっ
て全面的に補佐する、と元老院で明言します。ザマの英雄たる大スキピオが補佐
すると聞いて安心した人々は、一も二もなくルキウスを執政官とします。

 しかしルキウスは無能であり、大スキピオ自身も病身であった為、大した事は
出来ません。マグネシアの戦いでアンティオコス3世を破りはしたものの、その
実質的な功労者はアヘノバルブスという将軍でした。

 ローマに戻って来た大スキピオは、自派の勢力が減退していることに気付きま
す。大スキピオは自派の勢力の立て直しを図りますが、大カトーは容赦しません
でした。

 前187年大カトーは大スキピオの弟ルキウスに対し、アンティオコス3世から受
け取った賠償金の使途が不明であるとして、その明細を元老院に報告する様に要
求します。告発の対象はルキウスでしたが、事実上の対象は大スキピオであり、
大スキピオもその事をはじめから知っていました。

 証人喚問の当日、軍団の会計簿をめくりながら釈明しようとしたルキウスを遮っ
て、大スキピオは元老院議員達の面前で会計簿を引き裂き、弾劾者に向かって叫
びました。
「興味があるならこの紙切れをもう一度つなぎ合わせて調べてみるがよい。一体、
私が収賄したと称する僅かな金額を問題にする前に、誰がアンティオコス大王か
らローマ国民の為に巨額の賠償金を勝ち取ったのか、考えてみたまえ。誰のお蔭
で諸君がアジア、アフリカ、スペインの支配者になれたのか、とくと反省してみ
たまえ。私がいなかったならば、今ルキウスを告発し、私をも告発している者達
も、告発する自由どころか肉体そのものさえ存在しなかったかも知れないではな
いか!」

 しかし、証拠書類である会計簿を引き裂いた事は彼にとって決定的に不利にな
りました。今や、ザマの英雄も民会に喚問され、審理を受けなければなりません。
 彼は或る日、審理の最中に発言を求め、本日はザマの勝利の記念日だから全員
ユッピテル神殿に参拝するよう提案します。元老院議員全員が彼の後にぞろぞろ
従って祝賀式に参列しましたが、式が終わるとまた議場に戻り、再び彼を審問し
ました。

 大スキピオは政敵の執拗さに気を腐らせ、ついには出頭を拒否し、リテルノの
山荘に引きこもりました。他の追及者達はそれ以上大スキピオを苦しめようとは
しませんでしたが、大カトーだけは、ローマ史上初めて審理の公正が妨げられた
と、ぶつぶつ文句を言いました。

 大スキピオはその後一度もローマに足を踏み入れる事なく、4年後の前183年に、
「恩知らずの我が祖国よ、お前は我が骨を持つことはないであろう。」
という言葉を最後に52歳で死にました。

 一方の大カトーは日頃の質素が幸いしたのか84歳まで生き、前149年、第3次ポ
エニ戦争がはじまってすぐに死にました。しかし大カトーも、勝利した訳ではあ
りません。何故なら、彼の理想に反して、ローマは遊惰、贅沢、華美を追い求め、
寧ろ健全な精神を失ってゆくからです。

 大スキピオの養孫、大カトーの息子の義兄弟に当たるスキピオ・アエミリアヌ
ス(小スキピオ)の言葉が暗く響きます。
「アッシリア倒れ、ペルシャもマケドニアも滅び、今またカルタゴも焦土と化す。
ああ、次に滅ぶのは必ずやローマであろう。」

 しかし何はともあれ、


                          大カトー お見事!

 次は大カトーその人を扱います。


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