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 アンティゴノス朝マケドニア 最後の王 ペルセウス
                    (在位179-168)213?-166?


 彼は一言で言って「非常に情けない王」であり、プルタルコスに言わせても、
「性格が低劣邪悪で、あらゆる(負の)種類の感情と病弊を具えていた中にも、
金銭を好む心が特に目立っていた。」とまで酷評された人物です。

 彼はアンティゴノス朝マケドニアの威信を回復させたフィリッポス5世の長男
として生まれましたが、次男の方は英明の誉れ高かったのに比べ、彼の方は評判
が良くなかったので、王位を弟に奪われる事を恐れ、父王に弟を讒言に及びます。
フィリッポス5世はそれを信じて次男を殺してしまうのですが、後でその罪無き
ことを知り、無念のあまり対ローマ用に用意した軍資金や軍隊をごっそり残した
まま死んでしまいます。父の優れた所は何一つ受け継がなかったペルセウスでし
たが、対ローマの方針だけは受け継ぎ、色々と画策を始めます。

 その一環の一つが、傭兵集めや同盟化工作でしたが、金は死ぬ程あったのに、
そのケチな、というか目先の金にとらわれる性格の為、色々馬鹿げたことを仕出
かしています。

 ドナウのケルト人の中に「バステルナイ」という勇猛を以て鳴る2万の傭兵部
隊があって、ペルセウスは彼らを雇う機会があり、わざわざマケドニア国境まで
やってきたこの部隊を見た彼は、その精強さに強い印象を受けたものの、傭兵隊
長の提示した金額を見て急に金を支払うのが惜しくなり、雇うのをむざむざやめ
てしまいました。

 また、イリュリア王ゲンティウスに対する彼の仕打ちは酷いものでした。ペル
セウスはイリュリアに、もしローマに敵対してくれれば300タラントの大金を
支払おうと申し出ます。それに心動かされたゲンティウスは承知の旨伝え、早速
ローマの使節を投獄してしまいます。それを聞いたペルセウスは、これでローマ
の敵が増えたワイとなんとその300タラントを全く送らずに済ませてしまいま
した(これはひょっとして非常に賢い策略なのでしょうか?)。勿論、後にイリュ
リアがローマの攻撃を受けた時も、全く援助しませんでした。

 さてそのペルセウスはいよいよ第3次マケドニア戦争でローマの攻撃を受ける
ことになりましたが、彼自身は出向いていって兵力が減ったらイヤなので、マケ
ドニアでじっとしてます。それに対して無能なローマの将軍達は、マケドニアま
で行く間に自滅したり、マケドニアに入った途端自滅したりしてたのでした(笑)。

 しかしアエミリウス・パウルスによって撃破された彼は、敗走の途中責任の押
しつけ合いから仲間割れしはじめたマケドニア軍を恐れて道を外れ、僅かな供の
者だけを率いて逃げましたが、ペルセウスが打ち続く不運に腹を立てて敗北の原
因を自分以外の全ての者になすりつけようとするので恐れて部下達は三々五々逃
げだし、諌言した部下はペルセウスが怒って殺してしまい、あとには王の財産目
当ての連中しか残りませんでした。かなり逃げてきた所で少し落ちついた彼は、
今ついて来ているクレタ人達にうっかり自分の財物のうちのアレクサンドロス大
王の遺品の黄金の器を分けてやったことに腹を立てて泣き言をいい、それを持っ
ているクレタ人達を呼んで涙を流しながら金銭に換えてくれと頼みました。王に
ついてきた人達の幾人かは、彼がクレタ風に振る舞う(人を欺く)ことに気づい
ていましたが、王の言う事を聞いて返した人達はそのまま取られてしまい、果た
して王は金を払わず、ペルセウスは30タラント分儲けたことになりましたが、
今そんなことしてる場合か?(笑)

 さて海伝いに逃げようとしたペルセウスに対し、ローマ軍の海軍提督であった
オクタウィウスは神々に対する敬意から身の安全は保障したものの、出航と逃走
はこれを阻止する様にしていました。ペルセウスは人目を盗んでオロアンデース
というクレタ人で小舟を持っている者をどうにか納得させて財物と共に乗せても
らう様にしたのですが、この男はクレタ風を発揮して、財物だけ乗せてペルセウ
スの家族を放ったまま出航してしまいました。
 ペルセウスは子供や妻を連れて夜中中海岸べりをさまよい歩きましたが、夜明
けに一人の人がオロアンデースの船が沖へ出たのを見かけたと告げた時には、こ
の上なく哀れな嘆き声を発しました。それでもうどうしようもなくなった彼は、
ローマ軍に投降し、アエミリウスの所へ連れて行ってくれと頼みました。


 アエミリウスの方では、神々の怒りを受けて不運にも失脚した偉い人に対する
様にして、涙を浮かべながらペルセウスに会いにきました。ところがペルセウス
は見苦しくも地面にひれ伏してアエミリウスの膝を抱き、身分を忘れた泣き声を
あげて懇願するのをアエミリウスは聞くに忍びず、痛々しく悲しい顔を彼に向け
て言いました。
「気の毒な人だ。どうして折角運命を非難する事が出来る筈なのにその肝心な点
を棄ててそんな態度を取り、貴方の不運が当然なもので、今の境遇よりも昔の境
遇の方が貴方には不当であったという事を示すのです。どうして私の勝利の価値
を低め私の成功を小さくして、貴方自身がローマ人の立派な相応しい敵であった
ことを示さないのです。勇気というものは不運な人々に対して敵の方からも多分
の尊敬を招きますが、卑怯はたとえうまく行ったところでローマ人から見ると全
く不名誉なものです。」
 そう言いながらもアエミリウスはペルセウスを起き上がらせ、握手してから、
後送担当の者に身柄を預けました。

 ペルセウスは家族や部下と共に凱旋式の行列に引き回されることになります。
凱旋式の三日目に、ペルセウス王家で使われていた黄金の食器などが乗せられた
車の後、ペルセウスの子供達が奴隷として引いて来られました。それと一緒に守
役と学校教師と家庭教師が涙を流している一群が通り、彼ら自身は見物人の方へ
手を差し延べながら、子供達には人々に哀願する事を教えていました。子供は男
の子が二人、女の子が一人でしたが、まだ全然小さい年頃で、教師らに言われて
哀願の身振りはするものの、一向に自分達の身に起こった不幸が理解出来ていな
い様子でした。その寧ろ理解出来ていない事が境遇の変転に対して一層哀れみを
覚えさせたので、見物人達は危うくペルセウス本人が歩いてくるのを見逃す程で
した(笑)。それ程ローマの人々は悲しみに打たれて幼い子供達を見やり、多く
の人々は思わず涙を流し、全ての人々はその子供達が通り過ぎてしまうまで悲し
みと喜びの混ざった心持ちで見物していました。

 ペルセウス自身は、この子供達とそれを取り巻く従者達の後から、黒ずんだ着
物をまといマケドニア風の靴を履いて進んで来ましたが、打ち続く不幸の大きさ
にすっかり取り乱して理性を全く失っている様に見えました。それに続いてペル
セウスの友人や仲間の一団が悲しみの為に顔を伏せ、絶えずペルセウスの方を見
ては涙を流している様子は、見物の人達に、これらの人々がペルセウスの運命ば
かり嘆いていて自分達の身に降りかかった事を少しも気にしていないという事を
悟らせました(と、プルタルコスは書いてますが、友人達は「ペルセウスの野郎、
てめえとかかわりあいにならなけりゃ・・・」とペルセウスの方を見ながら自分
を悔いていた、というのが正しいのでは?(笑))。

 ペルセウスは実は凱旋式が行われる前にアエミリウスの所へ人を遣って、凱旋
式の行列に加えられない様に頼み、凱旋式は御免被りたいと言わせたのです。し
かしそれに対してアエミリウスはこう返答しました。
「いや、その事ならば前にでも、又今でも王が欲すれば自分で出来る筈だ。」
つまり辱めを受ける前に死ぬという事を言ったのですが、ペルセウスにはその勇
気もなく、むざむざと戦利品として引き回され、しかも子供達や友人達の影に隠
れて目立つことも出来なかったのでした(笑)。

 アエミリウスはしかしそれでも、彼の運命の変転を哀れんで、彼の処遇を良く
してもらえる様色々手を尽くしたのですが、牢獄から出して少なくとも清潔な場
所に移すくらいのことしか出来ませんでした。多くの歴史家の伝えるところでは、
ペルセウスはその後断食して死んだ、という事です。


DSSSM:dsssm@cwa.bai.ne.jp