書評の物置

■『なぜ日本の教育は変わらないのですか?』

 (グレゴリー・クラーク 東洋経済新報社 2003年9月発行 1700円)

総合評価:9
分析の説得力:9
具体的な提言:9
読みやすさ:7


既存の学校システムへの信頼度:D(大小の改革による全体的改善は可能と見る)

傾向:欧米の教育システムとの比較、大学教育の改革、語学教育の改革
   文科省官僚への批判


キーワード:「日本の教育官僚は脳死しているのか」
        「平等主義的アプローチの限界性」




 著者グレゴリー・クラーク氏は、多摩大学学長になった英語圏の外国人の方。私は新聞で昔「外国人学長の多摩大学が入試で英語のテストを全廃」というニュースを読んで、「へぇ〜、いいんじゃないか」と思ったりしたことがあったのですが、その時の学長さんでした。

 なぜ英語入試を全廃したのかというと、簡単に言えば「入試英語は役に立たないどころか害悪。我が大学入学後に役に立つ英語を学ばせる」という事で、語学教育に関する提言についてもこの本では多く触れられているのですが、それよりも。この本で非常に特徴的かつ、ためになったのは、著者が文科省の英語教育改善(やその他の教育改革)の委員に任じられて色々提言を行った時の話。

 一年間議論を続けたあげく、文科省の官僚たちは、私ほか委員の中で生粋のバイリンガルのメンバーの大半から出た意見を、ほとんど完全に無視したのだ。その代わりに、官僚たちがまとめ上げた報告書は、自分たちがやりたがっていることを提唱したもので、それは私が提唱していたこととは全く逆のことだった。(P296,7)

 官僚は自分たちがやりたい政策の正当化のために、専門家の意見を聞くために設けられているとされる審議会の議事を自分たちの都合のいいように操作しており、そもそも自分たちと意見の異なる専門家の意見を聞くつもりなどない、という事に関しては『お役所のご法度』(宮本政於 講談社)という本(のP241〜)に、これ以上ないくらい具体的に書かれているのですが、まさにそれを地でいってる(っていうか、操作どころか単なる無視ですが)のだな、と。

 この本にはこの部分以外にも、著者が教育改革に関する審議会なんかに出席を要請されて、「おおお、私が日本の教育改革に役に立てるなら」と喜んで行ってみると、その時ごとに文科省官僚の抵抗にあい、結局改革案が骨抜きにされてしまったり、ひどい場合には文科省官僚が予算と仕事が増えて喜ぶだけの案に結論をすり替えられてしまう……という様な話が出てきます。

 ……またもや、文部省がいちばんの妨害要因として立ちはだかってきた。日本の教育官僚は脳死しているのか。……彼らの主な目的と仕事は、時代遅れのシステムにがむしゃらにしがみつく以外にないように思える。日本の青少年にとって、彼らは、利益よりもずっと大きな害悪になっている。(P52)

 「脳死」とまで書いてしまっていいのか私はびびりましたが(^_^;

 ただ私は、文科官僚が脳死しているわけではなく(文科官僚の個人的資質の問題ではなく)、本書でも指摘されている日本の「グループ内平等主義」の強固さと、日本官僚の必然的性質である「前例踏襲主義」などによる様々な要因が、彼らをしてそうさしめているのだろう……と思います。

 しかし、「教育改革の障害としての文科官僚」という視点、およびその実態については、それまであまり触れられた本を見たことがなく、大変示唆的でした。ましてや著者は、別に官僚に偏見を抱いていたわけではなく、喜んで行ってみたら散々イライラさせられて、「そうか、ここが癌なのか」と発見したという感じなわけですから。

 実際、明言されていないものの、この本における「なぜ日本の教育は変わらないのですか?」の答えは、「文部科学省の官僚が改革に抵抗しているから」だ、ということになると思います(もっとも、「じゃあなぜ文科官僚は改革に抵抗するのか?」という事を究明しなければならない、とも思いますが、このことに関する答えは、小室直樹、宮台真司、橋爪大三郎などの社会学者や、日本官僚に関する研究者がある程度出しているとは思います)。



▽現在の教育問題の原因をどこに求めているか:

 さて、グレゴリー・クラーク氏見るところの、現在の日本の教育問題の原因ですが、以下の様なものが挙げられます。

 まず、他の教育改革論者も良く指摘している、昔の日本ではうまく機能していたやり方が、今やうまく機能しなくなってきている、という事を言います。

 昔うまく機能していたやり方についてクラーク氏はいくつか挙げていますが、そのうちの一つが、「平等主義的アプローチ」です。日本では同じ学校に所属する学生を全員平等に扱い、劣等感を感じさせないようにし、やむを得ない理由がなければ落第や退学などをさせないようにしようとします。
 これが欧米では、過度に競争的で常に弱肉強食(……肉食文化だからだろうか?)が適用される学校・社会システムであり、敗者はダメだと宣告されまくり、結果としての経済格差も大きい。クラーク氏自身「日本の平等主義的アプローチは心休まる」、「日本のやり方は欧米のやり方に対して劣っているとは言えず、むしろ優れている」と書いています。

 しかし。だが教育に関しては、日本のやり方がうまくいってないことは明らかだ。(P18)」そして、教育に関して欧米で用いられている個人主義的なアプローチを一部、日本に向くものにしつつ取り入れることが必要ではないのか、と説きます(ついでに書いておけば、クラーク氏は「本当は、日本に欧米のやり方を見習うべきだ、などと言うことは私は気が進まないのだが」とも書いています。くぅ〜(>_<)ヽ ナケルゼェ)。

 ここで、欧米の学校システムと、日本の学校システムの比較をしてみましょう。

 欧米の学校システム:
   入学のチャンスはたくさんあり、やさしい。
   学校内での能力別クラス編成は当たり前。
   落第、自主中退もたくさんある。卒業には努力が必要。

 日本の学校システム:
   入学のチャンスは1回きりで、厳しい。
   学校内では能力による編成分けはない。
   落第、退学は基本的にない。卒業は楽にできる。


 基本的には、欧米のシステムは「入るのは楽だが、脱落もある」、日本のシステムは「入るのは難しいが、脱落はない」と言えるでしょう。クラーク氏は、「生徒全員に卒業を保証する日本のシステムが、勉強へのインセンティブを殺している」と指摘し、また、ご自身で多摩大学で実際に出来そうな改革案として、「暫定入学」というシステムを提案しています。詳しくは本書を参照して欲しいと思いますが、簡単に言えば定員よりも多く合格させて、成績がある一定基準に満たない者の入学を取り消す、というコトですね。

 ところがこの「暫定入学」の案は、文科省に許可を貰わなければならなかったのですが、文科官僚から言下に不許可とされてしまう。文科省官僚曰く、「文科省が定めた定員以上の数の合格者を出すことは認められない」「一年生を競争によって定員枠まで減らすことを目的にした制度は、法律に触れる」「日本の教育制度は、大学に入ることをいったん許された者は、大学教育に全くふさわしくないと明らかになった者以外は退学させられないシステムになっている」。

 この対応に対してクラーク氏はこのように怒ります。「日本に長く住んでいる間に、日本の硬直した官僚制度の弊害や、不合理性をたくさん見てきた。だが、これほどひどいものは初めてだった。(P106)」 さらに書いておけば、各種委員会で文科官僚なども皆、「もっと大学に競争原理を導入すべきである」と言い、報告書にもその文言が出てきていたのに、クラーク氏の「暫定入学」の案には「断固ノー」と言い、しかるに一方他に競争原理を導入するような案は皆無。「日本に長年暮らした中で、これほどひどいタテマエとホンネの二重構造は見たことがない。(P108)」とも。

 クラーク氏の怒りももっともだと思いますが、しかし一方で私は(以下、この本の書評というより私の考えです。注意)、これは「欧米システム」か「日本システム」か、という選択の争いがここで行われているのであって、クラーク氏としてはこの会議の場で「日本システムが限界に達しているので、欧米システムを一部導入してはどうか……」という事を少しでも言えば、問題点がより明らかになったのでは……? と思ったりしましたが、幻想に過ぎないでしょうか。そうか、官僚の前で理念の話したってしょうがないか。トホホ(別に、官僚に理念が理解できない、という意味ではなく、官僚の仕事は理念をどうこう言うことではない、という意味です)。

 前述の、欧米のシステムが「入るのは楽だが、脱落もある」、日本のシステムが「入るのは難しいが、脱落はない」というのは、別に恣意的に選択できるものとしてそうしているというよりは、欧米人の社会が全体にそういう社会であり、日本人の社会が全体にそういう社会である、という事の反映だと捉えた方がいいと思います。だから、(特に日本人自身が)恣意的に選択・変更しようとしても、そもそも出来ないのだ、と。だとすれば、官僚に怒るのも、気持ちは分かるのですが、官僚自身それに気づいてないでしょうし、なかなか難しい問題だということになる。

 多くの日本人論、なかんずく名著『タテ社会の人間関係』(中根千枝 講談社現代新書)などの中で特に述べられているように、欧米人の場合は各個人が自分の基本原則を持って動いている。ゆえに共同体(学校など)はそれぞれの人が自己目的を果たすための場に過ぎないし、学校を利用しようとする人は割と簡単に入ってきて良いが、ちゃんと利用できない人は辞めていってね、という風になることに抵抗感がない(図書館みたいなものか?)。

 ところが日本人の場合は、各個人の基本原則というものはない。……というか、属した共同体(村とか学校とか会社とか)のやり方に従う、というのが基本原則である。学校も、「各個人が自分の目的を果たす場」とかではなく「生活全体を支配する場」。つまり、学校は「家族」なのです(割と誰でも利用してよい図書館などではなく)。だから、そこに入れるかどうか、という試験は厳しくやるし、機会も少ない。しかし、いったん入ってしまえば皆「家族」なのだから、脱落は忍びがたい。皆を平等に扱い、劣等感を感じさせないようにするのが良いのだ……ということになる。


 「護送船団方式」と呼ばれていた手法もこれにあたります。この方式は、「脱落者」を出さない、という事と共に、「新規参入者を厳しく制限する」という特徴があって、出版業界なんかでも新しく出版社を作ろうとしてもコネなしなんかではほとんど不可能なのだとか。つまり、日本のやり方は、あらかじめパイを確保してしまい、それを構成者で分け合う。脱落者も出さないようにするが、新規参入もほとんど認めない。そういうやり方である。

 このように、文化的要請によって学校に与えられている機能がそもそも欧米と日本では違ったものになってしまっている。そこに問題があるのだと思います。

 「欧米の学校は図書館だが、日本の学校は家族である。日本の学校を図書館のようにすべきだ」というと分かりやすいでしょうか? クラーク氏の提言も、それらを実行していけば上のようになるだろうと思います。

 ただ、前出の『タテ社会の人間関係』という本にしても古い本で、初版は1967年(私の持っている2001年発行のは第105刷!)ですので、書かれていることが「ああ〜、そうだよなぁ……」と思う反面、「いや、ここんところは今はだいぶそうでもなくなりつつあるよな」という点もたくさんあります。確実に日本は変化しつつある。まぁ、相当「やむにやまれず」の変化で、特に古い人たちにとっては「したくない変化」なわけですが。その「したくない変化」に抵抗している最強集団が、官僚だと言うことができるでしょう(もっとも、日本国民自身も相当抵抗してますが)。


 ……と、だいぶ、自分の言いたいことを書きすぎました。他にこの本で述べられていることで「うむうむ」と思うこととしては、道徳教育に関することがあります。日本では子どもを学校や家庭に閉じこめておくことによって道徳教育の効果を上げようとしていますが、それは効果がないだろう、とクラーク氏は言います。むしろ道徳を改善するためには、学校や家庭という箱から子どもを出し、様々な人と出会って社会でルールを守る必要があるという事を実感させることだ、と。

 それから、チクリと利いているのが、教育基本法改正などに関する意見。「教育基本法の改正が教育問題の解決に役立つとは考えにくい」と書いておられますが、まったくそうだと思います。前記の道徳教育にしても教育基本法改正にしても、「子どもに自己目的を持たせ、その達成のためには法を守らねばならず、能力がなければならないということを気づかせる」というよりは「自己目的など持つな。お前達は大人の言う事を聞け」という昔の日本のやり方そのままだということが出来るでしょうね。



▽教育問題への提言の内容:

 あまり具体的な提言がない本がわりと多い印象がある教育問題を扱った本の中にあって、この本はかなり具体的提言に充ち満ちていると言えるのではないかと思います。著者の受けた欧米的教育の賜物でしょうか? ちなみに実際クラーク氏は「日本では、スローガンは多く言われるが、具体的実行に移されることがほとんどない。スローガンだけ言っていれば問題が解決されると考えているかのようだ」とも書いておられますが、まさしくその通りだと言えるでしょう(×_×) 私も職場で、反省会はやるけど、反省事項を実行するための仕組みは何も用意しようとしないという辺りに呆れました。

 具体的提言に関して一応羅列しますと、以下のようになります。

・欧米の個人主義的なインセンティブを導入すること(ただし日本に合うように調整して)
・暫定入学制度
・飛び入学
・ダブル専攻生
・学年度の九月開始
・日本への外国人留学生を増やす
・大学生を正しく評価し、勉強しない学生を退学させる為の方策を導入する
・入学を多発勝負にする
・勉強することが自分の利益になるのだということを充分に悟らせるシステムをつくる
・企業が採用の時に大学で何を勉強したかを見ること
・道徳を改善するためには、学校や塾という箱から子どもを出し、様々な人と出会って社会でルールを守る必要があるという事を実感させること


 私自身は、「飛び入学」に関しては良く分かってない感じです。飛び入学を禁止するのもナンセンスだと思いますが、飛び入学をそれほど勧めなければならないインセンティブが感じられない……。実体験で「もったいない〜」と思うような事例に出会ってないからでしょうか。「もったいない〜」と思うような事例に出会っていれば、勧めたくなるんでしょうね。

 日本への外国人留学生を増やす、という件については、外国人留学生の犯罪も多発しているので感情的な反発も生じるような気がしますが、クラーク氏の本意は、日本の大学が「University」であるためには日本人だけを受け入れているだけではダメだ、という事にあるのでしょう。同様な事は橋爪大三郎氏なども仰っています。まぁ詳しくは本書に譲りますが、日本の大学は、世界的な意味での大学ではないのです。っていうか、ひどく言えば日本の大学は「小学校+++」という感じか? 内実がないという意味ではもっとひどい。大学の改革は、本当は日本の教育問題における急務なんでしょうけどね……。



▽総評:

 総じて言えば、この本は「非常に良い」と思います。読みやすさの評価が若干低いのは、話がちょっとあっち行ったりこっち行ったりする感があるからで、文章などは非常に読みやすい。分析、提言も納得のものです。

 官僚は、前例踏襲主義ではあるが「内心変えなければならないよな」と思っている時には、外圧を利用して変えていくという手法を採る(ことによって、前任者などから怨まれないようにする)という事なので、著者グレゴリー・クラーク氏が諦めずに外圧をかけてくれることを望みたいと思います。外圧に頼らなければならない、というのは情けないことではありますが、橋爪大三郎氏などが指摘されているように、日本人の行動原理上ある程度しょうがない所があるんですよね……。まぁ、教育改革によって、自分で改革できる日本人を育てていくことが必要なわけですが。