関西学院大学体育会相撲部のあゆみ

草創期

  関西学院相撲部の歴史は、その開校(1889年)の2年後、すでに創設されていたことが報道されている。関西学院の開校40年史によると、その第3章第1節の各種運動部の勃興の欄に「高等学部(四年制専門学部)の開校(明治27年7月)は必然的に種々の運動に優れたる者を学院に招致するに至れば、これに刺激されて衛藤 術は学生中の有志者を集めて弓道部を創設し云々」とあり、相撲部にも学生有志による部員が1891年にはすでに存在していたという可能性は否定できない事実である。即ち、同40年史第3章第6節学生諸団体の活躍の欄には「高等学部の運動団体の行動も暫く活発ならんとせし事に就いては、既に本章第1節においてもその一、二、の例を挙げたり、今は其の他に就いて更に述ぶる処あるべし、大正2年11月30日神戸写真日報社第一回学生角力大会に商科学生竹野宗治は個人優勝して先ず万丈の気を吐きたりしたが、此の当時は普通学部(中学部)の角力部はまた堀部伊一郎、竹村 晋等を擁して属々優勝し両部共に斯界の覇者たりき。其の後普通部即ち後の中学部の角力部は概して甚だ振るはざりしも高等部の角力部は終始目覚しき奮闘を続け、以て今日に及べり。学院角力部の歴史を語るものは、富沢亀吉氏を遺する能はず、氏が単に学院のみならず広く神戸市附近の角力道に如何に大きな貢献をなせしかは、他に之を論ずる人もあるべし。初期の学院角力部の選手等は富沢邸の土俵において同邸出入の力士等の稽古を受けしものなりき。加之氏は十四余円を学院相撲部に寄付せられ、学院は之に依りて立派なる土俵を設け大正4年11月27日盛大なる土俵開きを行ふことを得たりき、氏の令息堀部伊一郎、富沢林太郎の両名が学院中学部の角力選手として近畿角力界の明星たりし事は人の熟知する所なり。初代部長商科教授松村吉則は角力部の未だ完全なる組織を見ざりし頃より之に関係し大正6年5月完全に一部をなしし後もなほ暫く其の任にありて此部の今日あるに対して斯からざる貢献をなしき」とあり、運動部に加入し完全なクラブとして活動を始めた大正6年以前、少なくとも大正2年の神戸写真日報社第一回学生角力大会以前に有志学生により相撲部の前身たる活動がなされていたことは確実である。 

大正8年より開催された大毎(大阪毎日新聞社)主催の第1回全国学生相撲大会に出場、以後平成12年の第78回大会まで連続出場を続けている。そして、大正14年の第1回関西学生相撲大会(現、西日本学生相撲選手権大会)において、大守 謙、川西、岡添実之を擁す関西学院相撲部は団体優勝を成し遂げまた、個人戦においても1位大守、2位川西、3位岡添と関西学院が独占した。

昭和2年、第3回関西学生相撲大会において、松浦政次を擁する関西学院は団体優勝をなしとげた。また同年11月開催の第9回全国学生相撲大会において第3位となった。

昭和6年は、関西学院相撲部にとって、記念すべき年となった。即ち、森永、川上、木村、森田、久寿の5選手の活躍により、出場13回目にして初の全国制覇の偉業を遂げたのである。木村は同年の第7回関西学生相撲大会個人優勝、翌年の第14回全国大会においても個人戦で2位となるなど昭和初期の黄金時代の幕開けとなったといえよう。以来、関西学生相撲大会では昭和8年の第9回大会から第17回大会まで団体戦9連覇、個人戦においては昭和25年の第24回大会まで(昭和18年〜20年中断、21年は春、秋2回開催)の実に15大会に渡り優勝者(田中安次、木村正春、山下亮一、池 龍起、井口義明、村上幸弘、中村富次、中津嘉和、有光 一、杉本 章、木村 孝)を輩出した。

昭和9年の第16回全国大会より、関西学院相撲部は3年連続して、決勝戦に進んだがいずれも拓殖大学にやぶれ、準優勝に終わっている。

(以降、作成中)

 

                       

 

 

 

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