Reason...?


 ある日の午後のこと。
 宿の廊下を歩いていたメリルは、何気なく開け放たれたドアの中を覗き込み、慌てて首を引っ込めた。
 ──気づかれたかしら?
 彼女は突然のことに困惑しつつも、ドアの向こうの様子を窺った。
 どうやら、中の人間はメリルのことには気づかなかったらしい。
 声に出さず、メリルは深い溜息をついた。
 中を覗き込んだ瞬間から大きな鼓動を打ち始めた心臓をなだめるべく、続けて何度か深呼吸する。だが、こちらはあまり効果がない。
 けれど、そんなメリルの耳にまで、中の人影の嗚咽がかすかに届いてきたのだ。
 ……一体、どうしたんですの?
 心の内でメリルは問いかけた。
 部屋の中では、椅子に腰掛けたヴァッシュが1人で泣いていたのだ。
 彼は青碧の瞳を閉じたまま、ひどく悲しげな表情を浮かべ、ただ涙していた。

 今までにも、冗談半分の泣き顔は何度か見ている。
 …本気の泣き顔も、幾度か見た。
 大の男がだらしない、と思うのに、彼の涙を見ると放っておけないのだ。そんな感覚にとらわれることが何度もあった。
 そして、今も。
 何事かにとらわれて悲しんでいるヴァッシュを、励ましたい、と思う。
 だがその為には彼の前に姿を見せなくてはならない。
 泣いている時、ひとはその様子を見られたいだろうか?
 ──メリルの答えは否である。
 自分はひとに決して弱みを見せたくない。誰かに泣き顔を見られるなどもってのほかだ。
 だが…彼は。
 人前でも平気で泣いてしまう彼ならば。泣き顔を見られても、誰かに側にいて欲しいと思うのだろうか?
 話を聞いて欲しいと。励まして欲しいと思うだろうか。
 おこがましい考えかもしれない。…でも…。

 ドアから少し離れた廊下で、壁を背にメリルは逡巡する。
 その間、ヴァッシュの鳴咽がおさまる気配はなかった。
 何度も迷いそうになりながら、メリルはようやく決意する。
 わざと足音を立ててドアに近づくと、泣いているヴァッシュの部屋の戸口から、彼の名を呼んだ。
「ヴァッシュさん…あの、いかがなさいましたの?」
 俯いていた彼は、メリルの声に顔を上げた。
 彼女を見つめる涙に潤んだ瞳は、吸い込まれそうなほど綺麗だった。この星では滅多に見られない、植物のような色。珍しくて優しい色。印象的な…。
「…保険屋さん…」
「な、何かありまして?」
 ヴァッシュに話しかけられ、メリルは我に返った。……自分は今何を考えていたのだろうか。そんな場合ではないというのに。
 動揺を表に出さないように、彼女はゆっくりとヴァッシュに近づいた。
「…あのさ…」
 ヴァッシュが悲しげな表情を浮かべたまま、瞳を伏せる。
 そして。
「黒猫様に…」
「え?」
「黒猫様にね、最後のドーナツをあげたんだ」
「…?」
 一瞬、ヴァッシュの言葉の意味をはかりかねたが、メリルは目線で続きを促した。
「欲しいな、って目で僕を見てたんだよ。だから、ドーナツをあげたんだけど…一口食べたら、後は見向きもせずに窓から出ていっちゃったんだ。どうしてかな…」
「………」
 見ると、確かにヴァッシュの足元には、食べ残しのドーナツがのせられた小さな皿が置いてあった。だが、彼の様子がただ事ではなかったため、メリルはそこまで気が回らなかったのだ。
 室内に黒いネコの姿はない。
 ゆらり、と周囲の景色が歪んだように、メリルは感じた。
 無論、気のせいである。メリルから立ち上った怒りのオーラで景色まで歪んで見えるはずがない。
 ヴァッシュが右手で口元を覆う。溢れる涙もそのままに、彼は憂いに満ちた表情でメリルを見つめた。
「ねぇ、保険屋さん。黒猫様ってドーナツ嫌いだったのかな?サーモンサンドの方が良かったのかな…こんなにおいしいのに……」
 ぴしっ、と亀裂が入った音を、彼女は聞いた気がした。
「そんなことで、イチイチこの世の終わりのような顔をしないでいただけますっ!?」

 それからきっかり3日間、ヴァッシュはメリルに口を利いてもらえなかったとか…。

──fin?

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<あとがき>
 ヴァメリファンの皆様、期待させてすみません(苦笑)。
 いやもう難しかったですよ〜。ギャグはオチが命!ですが、もともとシリアス小説しか書かないもので、どうオチを作ればいいか悩みました。(小説内でギャグシーンを入れるのは別なんですけど) ギャグネタはこういった機会がなければ書かないと思いますので、ある意味珍しい、10000HITにふさわしいお話かもしれませんね(笑)。