小さな願い



 普段よりも少し早めに給食を食べ終えた刹那は、数人のクラスメイトと共に廊下へ出た。
 急ぎ足で目的地へと移動する。
 今週一杯、刹那の班は体育倉庫の掃除当番なのだ。
 この小学校では昼食休憩の時間が掃除に充てられており、毎週各クラス二つの班が教室と学校内の一区域の清掃を担当していた。
 刹那のクラスは体育倉庫が担当区域となっている。
 掃除は昼休みの休憩時間内に片付けられるよう考えられているが、早く済ませれば遊ぶ時間が増えるため、当番の生徒達は昼食を早めに済ませて掃除に取りかかるのである。
 刹那たちも例外ではなかった。
 建物の鍵を借りるため体育倉庫へ直行したクラスメイトと別行動していた刹那は、職員室で受け取った鍵を手に目的地へ急ぐ。
 ところが。
「や、刹那」
 挨拶と共に、すっかり馴染みになった少年が、校庭からひょっこりと姿を現した。
「ゼット?」
「こんにちは。こんな所で会うなんて珍しいね」
「ああ、今日は掃除当番なんだ」
 小さく手を振りながら近づいてくるゼットに応じつつも、刹那が少しばかり怪訝さを感じるのは仕方ない事だろう。
 普段、ゼットは刹那の教室を訪れる。そこで他愛のない話をして、授業やホームルームが始まる頃には姿を消すのだ。
 しかし、ゼットはこの小学校に通っているわけではない。完全な部外者である。
 そんなゼットが我が物顔で小学校に不法侵入している是非はともかく、彼が訪れる理由は片手の指で事足りた。
 そのうちの一つが刹那に会いに来るためなのだ。
 話し始めれば長くなるのはいつもの事。
 普段ならばゼットの相手も楽しいのだが、今は急ぐべき用事があった。
 内心で相手が出来ないことを告げる言葉を選んでいる刹那の心などつゆ知らず、一見やんちゃな雰囲気のゼットは人懐っこい笑みを浮かべると、口を開いた。
「あのさ、急なんだけどこの休み時間にちょっと付き合ってくれないかな?」
「無理だな」
 刹那は即答する。当然ながら、ゼットは不服の声を上げた。
「えー、なんで?」
「これから掃除。終わってからで良ければ付き合うよ」
「それだと時間が足りないなあ……」
 ゼットが空を見上げる。高い空を見ているというより、何かを思案している様子だった。
「放課後は?」
 刹那が妥協案を提示する。
 しかし、ゼットは眉を寄せた。
「うーん、ちょっと遅すぎるんだよね」
「じゃあ無理だな。悪い」
 言い置いて歩み去ろうとする刹那を、ゼットが少しばかり情けない声で呼び止める。
「えー、待ってよ、刹那あ」
 しかし、彼のこうした態度は往々にして相手の気を引く手段なのだ。
 時間のある時ならば構わないが、今は話が別である。
 ゼットとの付き合いにはそれなりの匙加減が必要だ。これは今までの経験で学んだ事だった。
「みんな待ってるんだ。この鍵を持っていかないと、休み時間がどんどん減ってくし」
「つれないじゃない。ね、刹那ってば。久しぶりに遊びに来た友達のたってのお願いだよ?」
「無理なものは無理だって。大体ここには頻繁に顔を出してるだろ」
「どうしたの?」
 押し問答の最中、第三者の声が割って入った。
 刹那とゼットの視線を受け止めたのは、刹那の異母妹、未来である。
 ゼットが瞳を輝かせた。
「未来! ナイスタイミング!! あのさ、ちょっと頼まれ事を聞いてくれないかな?」
 慌てたのは刹那である。
「待てよゼット。未来には関係ないだろ」
「けどさ、今の状況を鑑みるに、天の助けじゃない」
 都合の良い言い回しに刹那は呆れ顔を返す。
「悪魔がそれを言うのか?」
「堅い事言いっこなし」
 ゼットは爽やかな笑みを浮かべ、未来を振り返る。
「あのさ、未来。今時間ある?」
「ええ。給食を食べ終わったから、図書室に行く途中よ」
「実は刹那と掃除当番を替わって欲しいんだ」
「ゼット!」
 当人の意志そっちのけで進む会話に刹那が抗議の声を上げる。
「あら、お出かけ? ふふ、いいわよ、別に」
 二人の顔を見比べると、何事か思い当たる節があったのだろう、にっこり笑って未来は首肯する。
 慌てたのは刹那だった。
「ちょっと待った、用事があるんだろ?」
「本を借りるのは放課後でもいいもの。構わないわ」
「けど、悪いしさ……」
「じゃ、今度何かお願い聞いてくれる? それで貸し借りナシね」
 尚も言い澱む刹那に未来はさらりと交換条件を提示した。
 その方が刹那も納得すると直感したのだろう。内容も妥当な線である。
 刹那が検討するより先に応じたのはゼットだった。
「サンキュー、未来! 今キミに後光が射して見えるよ」
「大袈裟ねえ」
 喜色満面のゼットに未来が笑う。そして刹那に小首を傾げて見せた。
 刹那は嘆息すると、苦笑に似た笑みを返す。
「……わかったよ。じゃ、未来。頼む。これ、体育倉庫の鍵だから」
「OK。行ってらっしゃい」
 鍵を受け取りにこやかに手を振る未来に軽く手を挙げてみせ、刹那はゼットを見やる。
 ゼットはご満悦の表情を浮かべた。
「じゃ、行こっか、刹那」
「ああ。で、どこに行くんだ?」
「それは行ってのお楽しみ」
 思わせぶりな返事をしたゼットは、刹那の手首をつかむと、そのまま駆け出した。

 その後、ゼットは刹那を魔界のとある場所へと案内してくれたのだ。
 これまで訪れたことのない土地である。
 尤も、刹那が旅した魔界はその一部でしかないのだから、初めて足を踏み入れる場所といってもおかしくはない。
 ──不思議な所だった。
 標高が高く、見たことのない花々が群生している点では、刹那の世界でも見かけられる風景である。
 しかし、空の色が違った。
 夜空にせよ青空にせよ、本来一色で占められる筈の空に、色彩が溢れている。
 文字通り、虹色のグラデーションが空一面に広がっていたのだ。
「これ、何だ?」
「原理はよく解らないけど、この時期の今の時間にだけ、ここでしか見られない空なんだよ」
 不思議だと思わない?とゼットに尋ねられても、刹那は生返事を返すのみである。
 それほどに、圧倒されていたのだ。
 隣で満足げに笑っているゼットの姿にも気づく事なく、刹那はその景色に見入っていた。
 やがて、不意に、空が姿を変えた。
 視界に満ちていた色彩が一瞬で消え失せ、本来の空色を取り戻したのである。
「あ、終わっちゃったか」
 その声に我に返った刹那は、隣に立つ少年を振り向いた。
「どうだった?……って訊くまでもないか」
「何か……すごかったって言うか……言葉が見つからない」
 半ば呆然とした様子の刹那を見返し、ゼットは嬉しそうな笑顔を浮かべた。
 刹那は再び空を仰いだが、先程の景色は欠片も見られない。
 名残惜しさを感じつつも瞼を閉じ、大きく息を吐く。
 改めて、刹那はゼットに向き直った。
「ありがとう、ゼット。まさかこんな景色が見られるなんて思わなかった」
「どういたしまして。楽しんで貰えて良かったよ」
「なあ、なんで未来を連れて来なかったんだ?」
 現実に返った途端に後ろめたさを覚えた刹那へ、ゼットは悪戯っぽい表情で応じた。
「昨日見せたからね。僕だってレディファーストって言葉くらい知ってるよ」
 これには刹那も苦笑を返すしかなかったのである。

 戻って放課後。
 刹那が改めて未来に礼を言うと、逆に感想を尋ねられ、一緒に帰る事にした二人はひとしきりその話題で盛り上がった。
 未来はあの景色に魅了されたらしく、いつか自分でああいった風景を探したいと力説するほどで。
 ──ひょっとすると、将来本当に魔界で冒険家になるのではないか、と思えてならなかった。
 かく言う刹那もまた、あの景色に魅了された一人なのだが。
「お礼は今度ね。また連絡するから」
 会話に夢中になっていた刹那は、この言葉でようやく自宅マンションに辿り着いたことに気づいたのである。


 未来の言葉が現実になったのは、それから三日後だった。
 放課後、刹那は人気のなくなった教室へと呼び出されたのだ。
 手持ち無沙汰で一人待つ彼の視界に、一人の少女が姿を現す。
 周囲を見回し、人影がないことを確認するその様子からは普段の溌剌さは身を潜めていた。どこかおずおずした雰囲気は未来らしくないと思ってしまうほどだ。
 刹那の姿を認め、少女の瞳が安堵に和らぐ。
「来てくれてありがと、刹那」
「どういたしまして。で、お願いって何?」
「えっとね……」
 未来はどこか困った様子で視線を床に落とし、返事を躊躇う。
 どうもその『お願い』とやらは、口に出しづらいらしい。
「未来?」
「うん。あの、実は……肩車、してほしいの」
「肩車?」
 刹那は思わずその単語を反芻する。
 正直、意外な言葉だった。
 もっと予想外な話を持ち出されると思っていたせいかもしれない。
 ……つまり、普段より高い目線であちこちを見てみたいのだろうか。
 肩車をすれば視線が高くなる。
 だが、同い歳の子どもよりも父親であるルシファーへ頼む方が『肩車』の面目躍如だろう。
 我が子に甘い魔王は、愛娘の頼みならば丸一日でも肩車をしてくれそうだ。
「構わないけど、あんまり視線は高くならないぞ?」
 言外に父さんの方がいいんじゃないか、と含ませた意味を汲み取ったのだろう。未来は小さく首を横に振った。
「パパじゃ駄目なの。刹那に肩車してほしいから」
「ふーん」
 理由は解らないが、未来が望むなら、と刹那はその場でしゃがみ込む。
 きょとんとする未来へ、刹那は言葉で促した。
「ほら、乗って」
「う、うん」
 どこか躊躇いがちに一歩を踏み出し、未来は恐る恐るといった態で刹那に近づいた。
 未来が刹那の肩に足をかけ、座る形になる。
 体勢が安定した事を確かめ、刹那はゆっくり立ち上がった。
 肩に乗る未来を気遣ってだが、当の本人は別方向に気を回したらしい。
「あ、お、重い? ごめんね」
「大丈夫大丈夫。組体操で一回やってるし、平気だって」
 立ち上がる瞬間こそ少しばかり不安定だったが、一度立ってしまえば安定する。
 二人でバランスを取れたなら、しめたものだ。
 重ささえ平気ならば、さほど困難ではない。
「わあ……!」
 未来が感嘆の声を上げた。
 刹那の頭を軽く手が抑える感触。
「あんまり高くないだろ」
「ううん、充分よ。すごい、いつもと全然違う!」
 はしゃぐ声を頭上に聞きつつ、刹那は一歩踏み出した。
 途端に未来の身体に緊張が走る。
「わ」
「出来るだけ背筋は伸ばしたまま、両手でしっかり頭をおさえてくれよ。フラつくと危ないからな」
「うん」
 土台の刹那を気遣うものの、特に不安がる様子もなく、応じる未来の声はむしろ楽しそうだった。
 身体を預けられる事に、全面的な信頼を感じる。
 校内探検の名目で教室を出ると、未来を肩車した刹那はあちこちを見て回る事にした。
 そのたびに未来は歓声を上げる。
 少しだけ高くなった視点。二人っきりの放課後の学校。
 普段と異なるシチュエーションを心から楽しんでいるのが見て取れた。
 つられて刹那も笑みを浮かべてしまう。
 同じフロアの教室を三つ回ったところで、刹那は未来の名を呼んだ。
「なあ、未来」
「なあに?」
「妙な遠慮とかするなよな」
「……え?」
 それまでの楽しげだった声が、ふと我に返ったようだった。
 刹那は顔を上げる。
 下を向いている未来を逆から見上げる形だ。
 少し戸惑いを見せる少女に小さく笑いかけ、刹那は続けた。
「一年離れてないけど、俺は兄貴なんだからさ。せっかく隣に住んでるんだし、頼ってくれよな」
 未来は軽く目を見開いた。そうして、照れたように頬を染めると、視線を逸らして口ごもる。
「べ、別に遠慮なんてしてないわよ。確かに刹那とは兄妹だけど、刹那には永久君がいるじゃない。あたしが甘えるわけには……」
「永久だって、未来なら大歓迎だって」
 ゼットは無理だけどな、と呟くと、未来は小さく吹き出した。
「そうね。永久君はゼットが嫌いだろうなあ。ゼットも人が悪いもの。わざと永久君に刹那との仲を見せつけたりして、子どもっぽいんだから」
 こういう受け答えの時の未来はどこか大人びた表情を見せる。
 客観的にものを見ている証拠なのかもしれない。
 けれど、こと自分自身に関しては、そうもいかないようだった。
「ゼットはともかく、俺たちまだガキなんだからさ、甘えたい時に甘えたって罰は当たらないんじゃないかな」
「…………」
 未来は沈黙で応える。
 どうやら言葉を選んでいるらしいと気づいた刹那は、無言で答えを待つことにした。
 と、刹那の頭をおさえる未来の手に力が入る。
「ホントはね、羨ましかったの。家の窓から刹那が永久君を肩車してるのが見えて、とっても仲良さそうだったのが、羨ましくて」
 ただ高い場所を求めるならば、父親であるルシファーに頼めば良い話である。
 しかし、未来は刹那に頼んできた。
 それは、つまり。
「だったら、素直に言えばいいって。わざわざ掃除当番替わったりしなくてもさ」
 一瞬、未来が頬を染めた。図星だったらしい。
 脳裏に悪戯っぽく笑うゼットの表情が浮かぶ。
 大方、未来の小さな願望を知ったゼットが勝手に企画立案したのだろう。
 とはいえ、未来の気持ちを知るきっかけとなったのだ。
 一応はゼットに感謝すべきかもしれない。
 視線を彷徨わせていた未来だったが、物言わぬ刹那の瞳に、諦めたような苦笑を返す。
「その、いきなり頼むのは恥ずかしいっていうか……理由が必要な気がして、それで」
「じゃ、次からはそういうのナシって事で、な?」
 刹那としては未来に甘えて欲しいのだ。
 こういった時、少しだけ、父親たるルシファーの気持ちがわかる気がする。
「……うん。ありがとね、刹那」
 未来の笑顔が刹那の視界に映る。
 笑顔とお礼。それだけで、充分だった。
「ああ。じゃ、行くぞ」
「うん!」
 刹那は未来の足をしっかりつかみ、改めて校内探検を再開した。


──fin


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<あとがき>
 キリ番リクエストSSです。
 具体的なシチュエーションでのリクエストをいただいたので、そこから少し膨らませてSSにさせていただきました。
 未来は刹那と兄妹ではありますが、刹那には永久がいますし、彼女の性格上ストレートに甘えるのは恥ずかしいかもしれないな、と。
 対して刹那はむしろ甘えて欲しいと思っている気がします。
 刹那が身内に甘いところは父親似でしょう(笑)。

 改めて、リクエストありがとうございました。