NAS芹沢の1995年1月17日の日記
(当時某同人ディスクマガジンに記載した内容をHTML化しました)



午前5時46分。
自分の記憶としては、揺れが来る前に目がさめていたように思う。
ぼーっとしていた。今から考えると、初めの方の揺れで起きたのかもしれない。
すると、突然ドーンという音。
ベッドの中からまったく動けない状態で左右に、上下に巨大な力で動かされる。
それが40~50秒くらい続いたような気がする。
ただ頭に手をやってじっと耐えていた。揺れがおさまった後、ゆっくり起き上がる。

別の部屋の家族と声をかけあう。無事のようだ。
あたりはいろいろなものが散乱しているようにみえるが、眼鏡をかけていなかったのでわからない。
必死に眼鏡を探すが、いろいろなものがあってどこにいったかわからない。
非常にあせる。10分ほど探しただろうか。

私の部屋は2階なので、とりあえず懐中電灯を手に、服を着替え、部屋を出ようとして驚いた。道がない。
ふすまの向こうに見えたものは、倒れた冷蔵庫、タンス、その他いろいろ。
少しずつ道を作る作業をする。まだ暗いのでなかなかはかどらない。
自分の部屋をあらためて見てみると、ディスクはもちろん、本やCD、ありとあらゆるものが散乱していた。
なんとか道を作って隣の部屋へ移動。両親も別の部屋から道を作って出ていた。
両親の部屋はタンスがふとんの上に倒れていた。間一髪だったらしい。

1階に降りてみてさらに驚く。棚という棚はほぼ全部倒れている。
食器が散乱し、本が散乱している。下にいた者もなんとか無事だった。
しばらくは道を作る作業を進める。携帯ラジオを聞く。
とりあえず日の出(7時過ぎ)まではじっとすることになった。

玄関から外に出るとさらに驚いた。家の外は路地だが、細い道が瓦の破片で埋めつくされている。
やっと目が覚めてきて、事の重大さを感じる。近所同士無事を確認する。7時になって明るくなってきた。
その間も余震があるので恐かった。午前中は結局割れた食器、ガラスの処理で終わる。
幸い窓は大丈夫だったが、家の中の棚などのガラスは全滅に近かった。
食器は9割が割れていたり、欠けていたりだった。
うちは水は濁っているがなんとか出ている。
ガスも大丈夫らしいがしばらく使わないことにする。
電気は来ていない。この記事はバッテリー駆動のEPSONノートで書いているところである。
このノート自体もまったく無事だったわけではない。
見事に落下していてハードディスクの調子が悪い。
一方、その他の2台のマシンは無事であった。
X68やTOWNSのディスプレイが数十センチ動いていたが、テーブルの端ぎりぎりの落ちる一歩手前のところで止まっていた。
これは驚きとともに少し安心した。

午後からは、2階のベランダに積み上がった瓦の破片、土のかたまりを1階に下ろす作業をする。
なんと、ベランダから外の景色が見えないくらいに積もっていたのである。これにはさすがに驚いた。
そのため、ベランダのところの窓が閉まらなくなっており、瓦などをどけなければ寒くて寝むれない。
暗くなるまで瓦の破片運びは続いた。破片といっても、ほぼ完全な形で残っているものも多く、かなり重かった。
その間、各地から心配しているというお電話をいただいた。
しかし、何回やってもこちらからは電話がかからない。

6時ごろ、暗くなったので懐中電灯、ろうそくでじっとしていたら、親戚の人がバイクで食料、水などを持ってきてくれた。
バイクのライトが、これほど明るいものだったとは思わなかった(笑)。
親戚の人が帰ってからすぐに電気が回復した。
しかし、この間もかなり大きい余震が続いている。結局、気になって睡眠不足になる。



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