中学生だった私とコンピュータ

 自己紹介の代わりに、私が初めてコンピュータと出会った中学生時代の思い出話を書き連ねてみたいと思います。多分全体としては珍しい部類に入る体験をしていると思いますので…。

 時は1980年。インベーダーゲームが社会現象となり、YMOが空前のブームを巻き起こした頃。MZ-80KもPC-8001も発売されてパソコン時代に突入してはいましたが、身の回りにはまだまだコンピュータの姿が少ないままでした。
 特撮やら漫画やら新聞やらでコンピュータという単語は現れますが、漠然と「すごいものなんだろうなぁ」と思うばかりで、自分が触れるなんて想像もできなかった、そんな頃の話です。


科学部

 小学校の時には必修クラブ(それしかクラブはないので、普通にクラブとだけ言ってたと思う)があって、理科好きだったこともあって理科クラブに行きたかったのですけど、なかなか希望通りになりませんでした。というのも、クラブは学期ごとの入れ替え制で、人気のあるクラブに集中しないようある程度1学級から行ける人数が制限されていたりしたからです。近所に住む1年下の友達から「クラブで2極モーターの教材を組み立てた」と聞いたこともあって、是非とも理科クラブに行きたいと思ってました。
 その願いは6年生の3学期にようやく叶うのですが、活動期間が短いこともあって、理科室にただ集まって先生の話を聞くだけしかしませんでした。

 中学では、クラブ選択に制限はないし、3年間ずっと続けられます。クラブの中に科学部があるのを確認すると、脇目もふらず速攻で入部しました。
 ですが、入ってびっくり。3年生こそ10人くらいいるようですが受験勉強を優先するのか滅多に顔を出さないし、2年生はわずか2人、そして1年生で入部したのは私1人だけだったのです。普段の活動も、顧問の先生がやる気をなくしているのかまるで中身がなく、大体は2年生のT先輩とつるんで学校の内外で遊んでいました。
 このT先輩という人物は、あまり性格がよろしくなく…いたずら好きという意味ではかわいいのですが、つるむ相手を間違えると不良になりそうな要素はありました。簡単に嘘をつくし、一度団地の駐輪場にあるバイクを盗もうとしたことがありましたね。あの時は思いつきだったので成功しなかったし、私もいろいろ言ってあきらめさせたのですけど。

 さて、そんなことがいろいろあって、もうすぐ中学生活最初の夏休みを迎えようという頃。確かあれは私が家でお昼を食べていたぐらいの時間帯だったので、期末試験も終わり短縮授業で早く家に帰っていた、7月中旬のことだったと思います。
 チャイムが鳴ったので玄関先を覗いてみると、T先輩が来ているじゃないですか。なんの用かと聞いてみると、夏休みにコンピュータ教室というのが電気科学館であるから、一緒に申し込まないかとそのお知らせが書かれた新聞を見せて言うのです。ほぅ、それまでコンピュータとはどんなもんじゃろうとは思っていたものの、まさか子供に教えてくれるイベントがあるなんて思いもしませんでした。これは面白そうと、玄関先で申し込み先をメモして、数日内に往復はがきで申し込みをしたわけです。
 幸い、申し込みはT先輩共々受け付けられて、晴れてコンピュータなるものを触ることができることになったのです。


コンピュータ教室

 そして訪れた8月19日。当日、T先輩と連れ立って電気科学館へ向かったかは忘れてしまいました。電気科学館は2度目の訪問で、前は母にせがんで連れてきてもらったのでした。
 電気科学館の1階はホールのようになっていて、何年か前まで館内で稼働していたロボットと、観覧券売り場がありました。普通に入館するならそこで券を買って2階に上がるのですが、3日間毎日そんなことをしたらお金がかかってしかたありません。でもそこで案内してくれる人もいなさそうだったので、売り場の人に「コンピュータ教室に来たんですけど…」と聞いてみると、2階に学習室というのがあって、そこでやるのだと教えてくれました。券はいらないの?と聞けば、必要ないのでそのまま上がれとのこと。

 2階に上がると、左手にモーターの力で凹んだり出っ張ったりする鏡(マジックミラー)がありました。その先には電球の種類や直接・間接の照明の違いがわかる展示があり、さらにその先に半券をもぎる係の人がいて、展示フロアになります。学習室は、マジックミラーの正面ぐらいのところに入り口がありました。
 学習室に入ると、入り口すぐの机で受付をしていたので、申し込みハガキの返信を提示すると、名簿と見比べてチェックしてくれました。名簿を見ると、私とT先輩の名前が末尾に書かれてあったので、もしかしたら締切りを過ぎて受け付けられたのかもしれません。

 学習室は、その名のとおり学校の教室という雰囲気で、よくある150cm幅の長机が左右に2つ、前後に10数個並べてあって、それぞれに2人ずつ座るようになっていました。正面には黒板と教壇があり、その両脇には今入ったのとは違う出入口がありました。席は3分の2くらい埋まってましたかね?

 講師は大阪市立此花工業高校の神屋敷統蔵先生。その傍らには2人の女性がアシスタントのように控えています。なんでも、このコンピュータ教室は富士通との共同開催によるもので、電気科学館にも富士通製のコンピュータが置いてあるとのことでした。アシスタントらしき女性は富士通の社員で、普段は東京タワーにあるショウルームの担当なのだそうです。

 受講生は、それぞれにテキストとコーディングシートとマークカードの束をもらいました。それを使いながら、まずは座学で初歩の初歩を教わります。
コーディングシートとはこんな感じのもので、FORTRANのプログラムの下書きに使います。今ならテキストエディタで書くところですが、あとで紹介するマークカードは一覧性が劣りますし、当時のコンピュータは一人で端末を占有することが難しかったので、こういうものがあるのです。何年か後で、BASICのコーディングシートを見かけたことがありましたけど、廃れちゃいましたね。

 汚い字で書いてありますが…左端に'C'とあればコメント行、2から5桁目までは行番号で、FORTRANの場合参照先を指定するときのみ記述します。WRITEやFORMAT命令の後17桁目まで空白なのは、このように書けとの指導があってのことです。マークカードの仕様を踏まえてのことだったと思います。
 コーディングシートにプログラムを書くにあたって、コンピュータ特有の文字の書き方もここで教えてもらいました。ゼロとオーの書き分け、掛け算記号にアスタリスクを使う意味、などなど。

 さて、プログラムが書けたらマークカードに転記します。この時使ったマークカードはこんなのでした。

コーディングシートの1行が、カードの1枚に相当します。上の端にプログラムの1行を書いて、その下にえんぴつでマークしていくわけです。左端には例が書いてあります。これを拡大してみると…。

1桁目のは、普通に数字を入れる場合。
2~4桁目はアルファベット。上の方にY,X,0とあるのはそれぞれYポジション・Xポジション・0ポジションと言って、シフトのような役割をします。例えば、上のXと7にマークしたらPを書いたことになるのです。
5桁目・6桁目は記号で、それぞれYとX、Yと0のそれぞれのポジションをマークした上で書きたい記号をマークします。
7桁目のあたりには、FORTRANの命令がマークひとつで書けるようになっているエリアです。'('がついている命令では、その開きカッコまで書けるわけです。でもFORTRANの命令ってこれだけじゃないと思うんだけどな…。

 プログラムだけでなく、純粋にデータだけを記述したい時もあるわけで、その時にはこちらのカードを使います。

 きっと正しいだろうと思うプログラムがマークカードに書けたら、その束を持ってコンピュータのコーナーへ向かいます。コンピュータのコーナーは4階のフロアにあって、いつもは東海道五十三次スゴロクゲームをやっています。もちろんコンピュータ教室の期間中は展示としてはお休みです。

 4階へは、教壇の右側の扉を抜けたらある階段で向かいます。ちょっと薄暗く、使われていないパネルや展示物の物置にもなっていました。4階の扉を開けると展示フロアで、特に扉番をしている人もおらず、そのままコンピュータのコーナーへ。

 コンピュータはパーティションに区切られた中に置いてあって、壁際の人ひとり分の幅しかない通路を通り抜けてそのパーティションの中に入ります。中はオレンジのカーペット敷きになっていて、ここだけ別の空調が完備してありました。

 置いてあったコンピュータは、富士通のFACOM mateというミニコンです。ミニコンとしてはかなり安い部類に入るようです。ミニコンのシステムは箱になっているので、どれが本体でどれが記憶装置かよくわかりませんが、傍らにはプリンターとマークカードリーダーがあって、アシスタントのお姉さんがそれらを操作していました。

 そこでお姉さんに書いてきたマークカードを渡すと、プログラムを読み込んで実行させるジョブ・コントロール・ランゲージ(JCL)が書かれたカードで私のカードをはさみ込み、まとめてカードリーダーに通します。
 すると直ちにプリンターが動き出し、読み込んだリストと結果を印字します。プリンターの印字ヘッドはボール型で、目にも止まらぬ勢いで回り打ち付ける様子をじっと眺めていたものです。打ち出し終わるとお姉さんが必要分だけ引き出して破りとり、渡してくれます。プログラムが問題なく動作するなんてことは滅多になく、エラーメッセージがあったらお姉さんは赤鉛筆で印を入れてくれるのですけど、不慣れな私達はそれを見て即座にバグを発見できるわけもなく、首をかしげながら学習室に戻ってまたプログラムと格闘するわけです。

 そんな状態なので、コンピュータのコーナーの入り口にはいつも行列ができていました。ある時、その行列を見た一般の来場者であるおばちゃんが寄ってきて「これはなにをしてるの?」と聞いてきたのですが、「これはコンピュータ教室というのがあって…」と言いかけるのをたまたま側にいたT先輩が遮って「1階の受付に行ったらもらえますよ」と言ってしまい、おばちゃんは喜んで受付に行ってしまいました。「なんでそんなこと言うの…」と私が言うと、T先輩曰く「そのほうが面白いやん」と…。

 2日目も座学+実習で、4階と往復。新しい命令を教えてもらってできる幅は広がりましたが、なかなかすんなりプログラムは完成しないものです。
 コンピュータ教室にはわりと女の子の姿があって、その後マイコンが「男の子の根暗な趣味」と言われるようになるとは想像できない光景がありました。学校のカリキュラムとかお稽古ごとではなく、本人の自発的意志でなければ参加することはないであろう講習会ですので、女の子達も明るくて元気。私達の後ろに座った2人組ともすぐ仲良くなって、お昼のお弁当もわいわい言いながら食べていたものでした。まぁ、住所を交換したりとか全然しませんでしたけどね…。

 FORTRANそのものは、だいたいわかるのですけど、何か決まりがあって書かれているみたいなんですけどそれがよくわからないような、そんな感覚。それでもまぁ、2日目を終えて家で復習・予習したりとか、学校の勉強より面白いと思いながら取り組んでいました。

 3日目も、テキストにはまだ教えてもらってないことが残ってましたので、それからスタートだろうな…と思いながら朝学習室に到着すると、昨日と少し様子が違うのです。なんでも、始まりの時間が待てずにもうコンピュータコーナーに行ってる人がいるんですと!なんてこったい、すっかり出遅れた…。
 結局その日はまる一日実習で、座学はなし。テキストはまだ残ってるんだけどな…。

 そして夕方、全ての日程を終えたのでまとめとなりました。この講習会の修了者は自動的に富士通が運営する「コンピュータ・ジュニア・クラブ(CJC)」の会員となること、会員資格は中学生までで卒業で自動退会、年に数回「CJCだより」という会報が発行され、そして会員は東京タワーのショールーム「数のひろば」にあるミニコンを操作できる特典があることを告げられました(電気科学館のミニコンは触れない)。また富士通の発行する小冊子やプリンターで打ち出したキャラクターの絵(昔は今のようなインタラクティブなゲームとかありませんので、こんなのしか一般受けするネタはなかったのですよ)、会報のバックナンバーをもらって解散となりました。

 正直なところ、私は講習を受けてもいまひとつ理解し使いこなすところまで到達しませんでした。参加者の中には夏休みの宿題をコンピュータにやらせたヤツとか、相当の強者がいたようです。そういうのに比べると、私はまだまだ…。
 でも、これくらいわからないと「もういいや」とか言いそうなものなんですけど、なぜか興味が持続したのは今でも不思議です。そしてこれが、単なるきっかけに過ぎなくなるくらいに、いろいろ起こるコンピュータライフの事始めとなったわけです。

 CJCは、忘れた頃に新しい会報が届いたりとかありましたが、特にこれで活動するようなことはありませんでした。2年後東京タワーの「数のひろば」にも行きましたがすっかりパソコン少年であった私がミニコン用の準備をするはずもなく…。
 中学を卒業して「ああ、これでCJCともお別れか」と思ったのですが、なぜかその後も何度か会報が届き、最後はFM-NEW7を懸賞とする感想文コンクールを開催しその作品を掲載した何周年かの記念誌を発行して、CJC自体が解散となりました。終盤は、ミニコンではなくパソコンでコンピュータ教室を開催していたようです。子供がミニコンを触るなんて後にも先にもありえないですし、時代の要請とはいえ、体験の貴重さを考えればミニコンで講習を受けられて良かったなぁと思います。


MZ-80K

 あれは最初の文化祭が終わった後だったと思うので、11月下旬の頃になります。校内にて技術科のK先生と立ち話をしていたら、どんな流れからそういう話題が出たのかも忘れましたが、「僕マイコン持ってんで」と教えてくれました。
 コンピュータなんてそうそう触れる機会などないと思ってましたので、まさかの情報にびっくり。「触らしたげるよ。ウチ来る?」と仰ってくれるので、是非にとお願いしてT先輩と共に訪問するということになりました。

 確か1回目の訪問は私に用事があったのでT先輩だけお邪魔して、2回目の時にT先輩に連れてきてもらうような感じで伺いました。
 K先生の下宿はとあるアパートの一室で、台所の奥に6畳、その奥に四畳半というような間取り。その6畳の和室に、折りたたみの小さなテーブルに載せてそれはありました。それこそがシャープのMZ-80Kであり、以後私がシャープファンを貫く原点だったのです。
 とは言うものの、実は最初に「マイコンを持っている」と聞いたとき想像したのはTK-80のようなワンボードマイコンでした。電気科学館でのコンピュータ教室でもらった小冊子にLkit-16のことを書いたものがあって、ずっと「欲しいなぁ」と何度も読み返していたからです。「パソコン」と言われれば勘違いしなかったかもしれませんが、残念ながら当時はまだその言葉が一般的ではありませんでしたしね。
 小冊子を読んでいたと言っても、例えばメモリの種類の説明でRAMは電源を切ると内容が消える・ROMは消えないというのを読んだだけで「いちいち忘れちゃうRAMなんかやめて全部ROMにすればいいじゃないか、自分が買うときにはそうしよう」とか考えていたくらいですから、全くたいした知識ではなかったのですけどね。

 まずシステムの立ち上げ方を教えてもらい、さて何しようかというところで、T先輩は1冊の本を取り出しました。工学社の「マイコン・ゲームの本2」と言って、月刊I/O誌に過去に掲載された読者投稿プログラムのうち秀作ゲームを選んでまとめなおされたものです。これに載ってるゲームを打ち込もうというわけです。
 本にはいろいろ面白そうなゲームが掲載されていましたが、MZ用と書かれたものでないと動かせないとのことで(当時人気があったので掲載本数も多かったですが)、どれにしようかと迷った挙句選んだのは「倒せ!ヤマト!反射衛星砲ゲーム」という作品でした。

 「倒せ!ヤマト!反射衛星砲ゲーム」は、宇宙戦艦ヤマトブーム冷めやらぬ当時、「ヤマトのゲームはガミラスが敵のものばかりだ、ひとつくらい逆のものがあってもいいじゃないか」という作者の思いから生まれた作品です。最初のテレビシリーズの序盤、冥王星に降り立ったヤマトが、基地から発射されたビームをミラー装備の衛星で反射させて遠距離の目標に当てるというシステムの攻撃に苦しめられるものの、組織した突入隊が基地を破壊して難を逃れるというエピソードをモチーフにしています。
 画面には冥王星を表す半円が描かれ、その赤道の左端に基地が、右端にヤマトがあります。衛星は3機で、それぞれの反射角度を設定して発射するとビームの光跡が描かれます。時間内にうまく反射させてヤマトに当てられれば勝ち、できなければ突入部隊に基地を破壊されてゲームオーバーです。衛星の出現位置はある程度の範囲をもってランダムとなっていたため、一度成功しても同じ角度では二度とうまくいかないようになっていました。

 で、このBASICリストを入力し始めたのですが…まずキー配列がわからないので、1行入力するのも一苦労。一人がリストを読み、もう一人がキーを叩くという分担をしても、キーを探している時間が長く、結局二人がかりで探したりするなどなかなかピッチが上がりません。
 時々モチベーション維持を兼ねて動かしてみるんですが、例えば画面がクリアされずに冥王星の半円が描かれても、どうすれば直るのかもわかりません。もちろんリストのどこかを間違えて打ち込んでいるんですけど、見比べてもわからない時があるわけです。まぁ、初心者なんてそんなもんですよね。

 K先生宅訪問はその後数度続きましたが、私が塾など用事があるタイミングと重なることが多くなり、次第に足が遠のいてしまいました。残りのリストはT先輩がぼちぼち入力していたようでしたが…。


2年生

 学年が改まって新入生を迎え、わが科学部にも新入部員が現れました。それも十数人。いったい去年はなんだったんだという感じです。
 この事態にたいそう喜んだのか、昨年は指導らしきことをほとんどしてくれなかった顧問のY先生が、「部員の手先の器用さを見る」とか言って、プラモデルを買うお金をくれました。去年はそんなことしてくれなかったのに…。

 そのお金でめいめい好きなプラモを買ってきて、家だったり、活動場所の第2理科室だったりで組み立てて、一週間後だったかの部活動でお披露目となりました。この時私は何を組み立てたんだっけ…?

 その後、Y先生は「頭を鍛える」とかなんとか言って、碁石と碁盤を持ち込んで部員に囲碁を教え始めました。私は将棋は弱いけど以前からやってましたが、囲碁は初めて。なんで将棋じゃなくて囲碁なんだと聞いたら、「将棋は取った相手の捕虜(駒)を自分の軍に加える汚いゲームだ」ですと…。
 他の囲碁好きの先生も加わって、言われるがままに囲碁をやっていたのですが…今思えば、これは多分校内で囲碁を大手を振って楽しみたい、Y先生の公私混同だったのでしょうね。やりたければ有志の生徒を募って囲碁部を作るべきところだと思うのですが…おかげで友人からは囲碁将棋部かと揶揄されておりました。

 K先生宅へは行かなくなったものの、私のコンピュータ熱は冷めることなく続いていて、いくつかショップを巡るなどして触れるチャンスを確保しようとしていました。
 2号線沿いにあったMTK電子は、前の年にT先輩と訪れて発見したお店。この時は、そのあたりにお店があるらしいから行ってみようということになって、バス停で待ち合せたのですがなかなか現れない。30分ぐらいしてふと後ろを見るとにやにやしながらそこにいたんですが、聞くと時間どおりに来たけど後ろに立ってもなかなか気づかないのでそのまま様子を見ていたと言うのです…何を考えているのやら。おかげで30分が無為に過ぎてしまいましたがな。
 で、MTK電子は当時シャープの専門店で、MZ-80Cとかのパソコンだけでなくもっと前のMZ-40Kまで置いてありました。2階はApple][などシャープ以外のパソコンと、MZ-80Cだったかが数台並んだ教室がありました。
 またある時は、西宮北口のミドリ電化にパソコンが置いてあると聞いて自転車で30分くらいかけて遠征しました。ここはある一角がそのコーナーになっていて、MZ-80K2やPC-8001、あるいはPASOPIAやVIC-1001などがありました。またショーケースにはポケコンが並んでいました。ここは数年後駐車場を兼ねた別館を建設し、そこにフロアまるまるパソコンコーナーという店舗とするなどなかなか力の入った営業をしていました。
 自分と似た年代の連中が何人も来ていて、人気のあるパソコンにはいつも誰かが陣取っているもので、チャンスがあるまで何時間も粘ることはざらでした。他の店を知らないので、そこでなんとかするしかないんですね。ある時は傘を持たずに行ったら、帰りが土砂降りになってずぶ濡れで帰るはめになったこともありました…。

 ひとつひどい目にあった店もありました。零細のショップなのですが、これも何かで聞きつけて探し当てたんです。西宮北口より近くていいや、とか思いつつ。
そこは会員制のクラブがあって、2階には専用の部屋があって、自由に触れるようになっていました。会費は有料だけど、試しに触っていいよ、ということだったのでお願いしました。
 そこはPC-8001ばかりで、ツクモのジョイスティックを取り付けたものとか、遊ぶには絶好の環境でした。しばらく遊んでいると、店員が「延長するか?」と聞いてきたので、順番待ちの調整の都合なのだろうと思って延長すると答えました。
 次の用事の時間が迫ってきたので帰ると告げると、400円ぐらいだったかを要求されました。なんのことか分からず、「そんなお金持ってない」というと店員は困惑顔…。
 そう、どうやら有料なのは会費だけじゃなく、ちょっと来て使うだけでもそうだったのです。ショップはパソコン本体やソフトを売ってナンボですし、選ばせるためには気軽に触れないと効果がない。電器店で陳列されているテレビを観るのにお金を取る店なんてないですよね?まさかそんな常識外れなことがあるとは思ってもみなかったので、使用料を取ると言われても何かの聞き違いだろうと思ったわけです(後に星電舎もお金を取ることを知りましたが)。
 もちろんこれは勘違いした私の方が悪いのですけど、思い込んでしまっている以上騙されたという気持ちが強くなり…。
 その店には、その時のお金を払いに行った以外は二度と行きませんでした。その後、そのお店は市販ソフトのバックアップツールを制作して有名になりました。

 相変わらずまともな活動をしていない科学部ですが、その後輩に有望な人材が2人いました。一人はF君といって、ほとんど初対面だったはず。小柄ですが、ちょっと日本人ばなれした顔つきのハンサムボーイ。もう一人はM君といって、近所で大規模な鬼ごっこが発生した時など何度か顔を合わせたことがあって、時事ネタに敏く、いつも何か面白い事を言って周囲を笑わせているような人物です。
 そんな彼らから教えてもらったのが、日興電気商会。街の電器屋さん(日立チェーンストール)なのですがなぜかパソコンのショールームを作っちゃったというお店です。初めて行った時はPC-8001にベーシックマスターレベル2、PC-3100、そして売り物ではないらしいベーシックマスターレベル3(専用システムデスクにプリンターと8インチFDD・ライトペンのついたフルセット)がありましたが、後にPC-6001、ベーシックマスターJr.、MZ-80B、PC-8801、PC-8201、PC-2001なんかも陳列されました。ほとんどオプションがついてない、どノーマル仕様でしたがそれでも学校から程近いこのショップはとても便利で、寄り道したり休日はほぼ半日居ついたりと活用させてもらいました。もちろん使用料を取るなんてしませんでしたしね。

 夏休みには、運動部はまるまる活動しますけど、文化部も初めの10日と最後の10日に活動期間を設定できます。せめて科学部らしいことをしようと、夏休みに校内の植生を調査することを考え、活動日を設定して集合するように言いました。学校で唯一理科を扱うクラブなのだから、どこに何が植わっているかくらい知らなきゃな、という思いがありました。
 当日、登校して集合場所の藤棚に行ってみたのですが、ほとんど誰も来ない…ただ一人、紅一点であるYさんだけは来てくれたのですが、他は全滅。Yさんはとてもまじめで、過ぎるくらいにまじめな人物ゆえ来てくれたのでしょうが…たった2人でこんなのできるか、ということでその場は解散、結局夏休みの活動はしませんでした。

 2学期になると、Y先生は秋の研究発表会に向けてグループを作って活動するように指示を出しました。去年はそんなのがあるとも教えてくれなかったのに…。1年生はいくつかグループを作りましたが、私はどこにも入らず、一人でやることにしました。
 テーマをどうするか悩んだ末、電磁石についていろいろ実験してみることにしました。と言っても明確な目算があったわけでなく、身近な金属製品を片っ端から電線でぐるぐる巻にして電磁石にしてしまおうとか考えていたぐらいです。
 で、とりとめもなくやっていたわけですが…どういうわけか、実験用の電源が次々と動かなくなってしまうのです。3台くらい壊して、ついにY先生に怒られてしまいました。芯にしていた大きいナットからエナメル線を取ってみると、ところどころ被覆がはがれているではありませんか…。
 もう発表会まで一週間くらいしかなく、代わりのテーマを見つけたところで時間もありませんので、私の発表はナシということになってしまいました。すでに事務局には登録していたので、当日はかっこ悪いこと…。


3年生

 いろいろあってもパソコンへの興味は相変わらず旺盛で、たまに雑誌を買ったり、参考書を買ったりしつつ、「ああ、こんな機能があるならこんなことができそうだな」とか考えたりして勉強していました。パソコン本体は高くて買えないので、もっぱらショップでいじるだけなのですが。
 科学部後輩のF君やM君とも気が合うので日興電気などにもよく一緒に出かけていました。
 ある時は、ベーシックマスターJr.拡販のために開催されたパソコン教室に3人して参加したものの、「あんたらどうせ全部知ってるんだから一番後ろで好きにしてて」と言われて勝手に遊んでたりしました。あの時もらったテキストに、ちょっと参考になる技術情報があったんですが、わりと簡単に紛失してしまい、残念な思いをしたものです。

 冬休みだったか春休みだったか、はたまた別の何かは忘れてしまったのですが、K先生にMZ-80Kを学校に持ってきてもらえれば学校で触れるじゃないか…ということに気づき、交渉したところあっさりOKが出て、以後は学校のあちこち(といっても保管場所が教職員の更衣室なので、その周辺がほとんど)で触ることが多くなりました。F君なぞは、PC派だったのでショップではPC-8001や8801を触るのですけど、学校ではせっかくということもありMZも触っていました。この点は私も同じで、ショップに88とかしかなくても腐らずMZ以外を触ったりしてました。こういうのが後にCP/MやS-OSをすんなり受け入れる素地になっていたのでしょう。

 3年生になると、もう自動的に科学部の部長をやることになりました。結局途中入部する同学年の者はおらず、3年生は私一人のままでしたから。2年の3学期からは生徒会役員もやるようになってまして、相当充実した青春を過ごしていたことになりますね。

 そしてついには、科学部の夏休みの活動としてパソコンで遊ぶことを画策し、それで計画書を提出してしまいました。科学部の日頃の活動は相変わらず謎で、プラモデルを作ったり、囲碁をやったりしていたわけです。大学生じゃないんですから、年間を通じて取り組むテーマの提示という顧問の指導があってしかるべきかと思うのですが…。

 そうそう、プラモデル制作ですが、私は水上機母艦「千歳」を選びました。完成披露の場は理由は忘れましたけど父兄参観だったので、教壇に立って面白可笑しく説明したところ受けました。

 夏休みの計画は、特定の人間が学校で遊ぶ目的であることが最初からバレバレでしたけど、特に文句も言われず許可されました。今考えると、我々が活動しないと言えばY先生の仕事が減ったのかもしれませんが、案外活動期間が夏休みの最初と最後の10日間ずつというのがミソで、この期間はほとんど先生が出勤しているから自動的に顧問の仕事もできるという理屈なんでしょうね。
 それとこれは部活動としてパソコンをやるということなのですが、もちろんこじつけているのですけど、他にこういうことをやるクラブなんてありませんし、理系的な新しいことをやるのは科学部だという自負もありました。それに「コンピュータサイエンス」なんて言いますしね。ってこれは今思いつきましたが。

 待望の夏休みになって、私とF君とM君の3人は毎日パソコンをいじりに学校に通いました。ショップと違って他人に気を使うことなく、システムやゲームをロードし放題、しかもずっと座ってできるのですから、MZ-80Kが多少最新機器と見劣りするといっても十分魅力的でした。

 部屋はやはり第二理科室は使わずに、職員室の並びの教室か、生徒指導室を借りました。生徒指導室はうなぎ床のような細長い部屋で、個別指導が必要な生徒を呼び出して説教するための部屋です。もっとも、ここに呼ばれたという人物を見たり噂を聞いたりしたことはありませんでしたが…。
 生徒指導室の入り口は普通の教室と同じ引き戸になっていて、そこを入ると左の壁に黒板が、右の壁には本棚のキャビネットがありました。キャビネットにある本は道徳みたいなのがほとんどで、図書室のように1冊ずつ保管されているのもあれば生徒に配った余りのように束になったものもありました。
 生徒指導室の真ん中には大きなテーブル(図書室の開架スペースにありそうなやつ)が2つ縦長に並んでいて、部屋の左右を隔てていました。奥にはソファがあり、触る順番を譲ったらそこでくつろいだりしていました。

 先に学校に来た者が部屋の鍵を借りたりして準備します。後から到着した時は、廊下を静かに歩いているとなんとなくブラウン管の発するピーンという高周波音が聞こえてくるので、それでどこでやってるのか探し当てたりしてました。

 まあ科学部の活動名目といっても、やることは巷のマイコン少年と変わらないわけで、雑誌を持ってきて気に入ったプログラムを入力するか、MZと一緒に借りたテープに入っているゲームなんかで遊ぶか、BASICの命令を試してプログラミングの研究をしてみたり…など。
 タイトルは忘れましたが、競馬のゲームはよくできていましたね。馬券を買ったら買ったなりのオッズ変動が発生するし、場面構成も結構本格的だったと思います。ただ、これはMZのシステムの問題なのですが、名前を入力するのにカナモードにして、英数モードに戻さないまま入力を完了すると、数字を一文字入力する場面に出会った時カナモードのままなので入力不可能になってしまうんです。これで何度ゲームがやり直しになったことか…。

 またある時は、ラベルにプログラム名が書かれていないテープの中身をチェックしていたのですが、何本目かのテープからロードされたタイトルはなんと…「倒せ!ヤマト!反射衛星砲ゲーム」…!
 ざっとリストを見ると全部入力されているみたいですし、デバッグもされているみたい。そうか、T先輩はあれからちゃんと最後まで入力してたんですね。ならばやってみようと、2人に説明しながらゲーム開始。
 何度かタイムオーバーで失敗したものの、めげずに続けてついに命中!…と思いきや"SYNTAX ERROR"(笑)。なるほど、さすがのT先輩も命中させられなかったということなんでしょうね。

 また別の日のこと。いつものように学校に行って生徒指導室の前まで来て、ブラウン管の高周波音も聞こえるし早速やってんな…と扉を開けたら、なんとMZの前には理科担当で卓球部顧問のM先生が陣取って、F君とM君はその横で手持ち無沙汰にその様子を見ているではないですか。
 M先生はTシャツに短パン姿で、どうもさっきまで卓球部の練習につきあっていた様子。それが終わってからここにやって来たみたいです。ひとしきりプログラムを修正とかした後、去っていきました。
 F君とM君の話では、ここ数日私が来るまでにいろいろいじっていたそうで、今日はたまたまM先生の退場が遅かったか私の来るのが早かったのでしょう。
 その後も何度かM先生はMZをいじりに来てましたが、夏休みが終わった直後のある朝、校門の前でばったり会ったら「これ買ったぞ」とMZ-80Bのパンフを見せつけて言い放ちました。プリンターとセットで買ったようで、何年か後には日本語表示が美しいエプソンのQC-10に乗り換え、そして教育委員会付属(?)の電算機センターに転属してしまいました。本人の希望かどうかはよくわからなかったのですけど、1台のパソコンがM先生の人生を変えたのは間違いなさそうです。

 一方科学部の顧問のY先生はというと、1度だけ我々の様子を見に来たことがありました。生徒指導室に入って奥のソファーを確認すると、通路を通って奥に行こうとするのです。
 机が大きいので黒板側もキャビネット側も狭いのですけど、黒板の下にはコンセントがあって、MZはそこから電気をもらっており、電源コードは黒板側の通路を横切っていたので、引っ掛けられては大変と我々が3人並んで座っているキャビネット側を通ってもらうよう促しました。
 しかしY先生は「そっちは狭い」と言って黒板側を通ろうとするのです。そしてコンセントのところまで来ると、それこそ扇風機のような気軽さで、電源コードを引き抜き、自分が通り抜けた後でまた差し込んだのです。
 当然MZはリセット。プログラムを入力していたとか、保存してないデータがあったわけではなかったので被害は最小限で済んだものの、今やってたことがパーになったことには違いありません。Y先生には厳重に抗議したのですが、我関せずというか電化製品ならその程度問題なくて当然だと言うのです。
 Y先生はソファーでしばらくくつろいだあと、我々のやってることに特に関心を示さないまま退室したのですが…同じ理科の教師でもM先生とはこうも違うものかと呆れてしまいます。理系の先生なら、世の中の新しいモノについて敏感でなければならないと思うのですが、Y先生の無関心ぶりは徹底していましたね。

 夏休みの中間には、念願の東京タワー・富士通のショールームへ訪問することができました。これは、旺文社がやってたLL教室の東京研修で上京できたからです。
 LL教室では毎年1回一斉テストを実施して、成績優秀者は無料でハワイ研修に招待していました。私の成績ではとても無理だったのですが(実費を出せば成績に関係なく参加は可能)、次点の優秀者は代々木の青少年センターでの東京研修に招待されたのです。塾の対象者という意味で私はこの年が最後でしたし、小学校の頃から通ってた「長さ」もあって、成績はともかく記念に選んでくれたのかもしれません。
 2泊3日の研修の後、数日従姉妹宅にお邪魔して、東京観光の続きをしました。「どこへ行きたい?」と聞かれて東京タワーをリクエストし、ショールームへの訪問が実現したのです。
 とはいえ何か用意していたわけでなく、ショールームのミニコンは触らず終い。C.J.C.会員であることを告げて、小冊子を何冊かもらって科学部で部員に配りました。


もう一度、研究発表会

 2学期を控えて、私にはある思いがずっとくすぶっていました。前年に大失敗した研究発表会、今年こそはしっかり準備してリベンジしてやる…と。そう思ってそのネタを探し続けてきたのですが、ついに見つけたのです。パソコンで発表してやろうじゃないか、と!
 前の年くらいから私は気象に興味を持ちまして、まぁ授業での学習は散々だったのですが、新聞の朝夕刊の天気図を数年分切り抜きしていたんです。これが使えそうだと。
 高気圧・低気圧の動きを入力すれば、季節の巡りそれぞれでの特徴がわかるんじゃないかと考えたのですけど、データ量が大変なことになりそうなことはすぐ想像できました。じゃあどうしよう…台風だけならたいしたことなさそうだし、動きは派手だから見栄えもしそうです。日本地図に台風の軌跡を描くプログラムを作って、それで発表までやっちゃおう!

 というわけでプログラミング開始。
 まずは方眼紙を用意して、MZのセミグラフィック表示である80×50の枠を決め、天気図にありがちな日本列島と近隣の地形を手描き。海岸線のあるマスを塗りつぶして、表示する地図の原形を作成します。
 次にMZにて、BASICのDATA文にそれぞれの点の座標を並べていって、それを読み出してグラフィック表示させるプログラムを作成します。これは発表用の台風コース表示プログラムのベースですが、同時に各台風のデータを作成するプログラムのベースでもあります。テープに記録したデータを読みだして画面表示させるのですけど、やったことないのとデータがなければデバッグもできないので、データ作成プログラムを先に作ります。

 テープへの記録なんかのやり方はマニュアルを見様見真似で。あとはキーを押せばドットの列が伸びていくような、インタラクティブなプログラムにしました。地図と同様、方眼紙に描くという方法もあったのでしょうけど、たくさんデータを作らなければいけないこともあって、全然そんなことを考えませんでしたね。
 テスト用に作成したデータを、今度は表示プログラムで確認。読み出しながらドットを打つようにしたのでだんだん線が伸びていく画面を想像していたのですけど、ちょっと伸びては止まり、また伸びては止まるという脈打つような表示になってしまいました。当時は理由がわからず、プログラムもこれ以上ないくらいにシンプルだったのでそのままにせざるを得ませんでした。ちなみに、この現象はテープに決まった大きさのブロック単位で記録しているためで、テープからデータを読み込んでいる時は他の動きが止まり、読み込まれたデータが全て使われればまたテープから読み込む、という動作になっています。

 プログラムができたのでこのあとはデータをガンガン入れていくだけなのですけど、それだと私ばっかりMZを触ってあとの2人に順番が回りません。それにデータ入力には協力者がいればはかどります。そんなわけで、F君とM君にはプログラム作成開始当初から計画を説明し、研究発表のグループを組まないかと誘いました。まだ発表会の開催自体がよくわからなかった時期ですが、2人は快く加わってくれました。

 2学期が始まり、予想通り研究発表会について予告があったので、私は予定通り3人でエントリーしました。データも順調に入力できて、前年の1年間ぐらいの日本近海に到達した台風をカバーしました。
 教科書にも載っていたりしますが、季節によってわりとわかりやすい傾向の違いがありまして、初夏までは東シナ海より北上して沖縄から九州へ、8月くらいはもっと東寄りから真っすぐ北上して近畿・中部を縦断、秋は東寄りから一旦沖縄近海を回って偏西風に乗り東へ抜ける、という感じになります(例外は多数あります)。秋の台風が警戒されるのは偏西風でスピードが上がると勢力が衰退する前に上陸するからでしょうね。というわけで、季節の傾向の例として典型的な2つと、太平洋上に抜けて温帯低気圧になった後再び台風に発達した珍しい例を発表に使うことにしました。
 F君とM君には、ただつっ立っているだけではかっこ悪いので、感想を述べてもらうことにしました。また、MZが壇上にあるだけというのも寂しいので台風の発生などの絵や文章を模造紙に書いてくれました(発表には使わないのですが)。

 その発表会を目前に控えて、リハーサルが行われることになりました。我々は窓際のコンセントの側で、リハーサルのリハーサルをやって最終確認していました。ただ、リハーサルは教壇でやるのでMZを移動せねばならず、再起動に時間を要することから他のグループに最後にしてくれるようお願いし、了解を得ました。
 しかし、時間間際に現れたY先生は「部長なんだからお前が最初にやれ」とか言い出すのです。準備に時間がかかるから、と訴えても聞く耳持たず。
 やむなくMZを壇上に移動させて再起動させるのですが…BASICと表示プログラムのロードに3分ほど、これを待っているとまたY先生が「さっさと始めんか!」と怒るのです。「だから時間がかかると言ったでしょう!」と反論するとY先生はふてくされモードに。
 準備ができたので気を取り直して発表。これは示し合わせた通りにうまくできたのですが、あまりまともに聞く気がない態度のY先生にイラッときて思わず「おそまつさまでした」と言ったら「そんなこと言わんでよろしい」と明後日の方向を向いて言うので睨み付けてしまいました。
 Y先生はその後何やら指導っぽいことを言ってたような気がしますが、生徒相手とはいえ話を聞く態度がなってない人から何を言われてもケチをつけられているようにしか聞こえないわけで、ここは適当に返事をしてスルー。

 とは言え、当日準備に手間取っているようではリハーサルの二の舞なので、対策は必要。壇上に上がってから準備することも可能性として考えたことはあったのですが、やっぱりダメだとわかりましたしね。

 というわけで発表会当日。
 会場は公民館の一室で、学校からは数百メートルしか離れていません。台車のような気のきいたものはないですし、すぐそこなのでMZを抱えて行くことに…重かったけど。でも発表の大事なアイテムですし、K先生からの借り物ですので落とすわけにはいきません。必死の思いで会場に到着しました。

 重いので順番の時に運ぶ距離を縮めるため、一番前の席を確保。そして準備にあたっている人に延長コードをお願いし、ドラムを借りることができました。
 そして順番が来るまでは、音をたてないようにそっと操作してシステム立ち上げと表示プログラムをロード。順番になったら、コード抜けで消えてしまわないように慎重にMZを壇上に移動。画面が小さいのは承知のうえなので「ちょっと見にくいかもしれませんが…」と断って発表しました。首尾は上々、トラブルなく発表を終えました。

 コンテストではないので順位はないのですが、十いくつあった発表のなかで3つか4つくらいしか取り上げなかった最後の講評に私の発表が入り、「コンピュータを使って発表するなんて想像もつかなかった。将来はみんなこんなふうに発表が行われるのかもしれない」などと言って褒められました。それもあってか帰り道のY先生は上機嫌。
 なお帰り道はMZをF君とM君に持ってもらいました。私は一応の責任を果たしたということで…。

 というわけで、これで私の中学時代のコンピュータ事始めのお話しはおしまいです。当時はパソコンが売られていてもコンピュータに関わる仕事は限られていた印象があり、具体的なイメージを描けていなかったものの、将来はコンピュータに関わる仕事をしようと心に決めるきっかけになりました。

 それと、発表会やプレゼンテーションの場にパソコンを持ち込んで、説明内容を表示させるというのは、さすがに日本初とまでは言いませんが、かなり最初に近い例ではないかと思います。講評の先生が予想した通り、発表スライドをパソコンで作成してそのままプロジェクターで表示させる、この発表スタイルはどこでも当たり前のものとなりました。多分学校で児童・生徒がグループ発表する時でもそうだと思います。1982年秋にその先駆者となったことは、私の密かな誇りでもあるのです。