一筆啓上前書が見えた

今回のタイトルはあの名作「業苦」のパロディのつもりで…って言われなきゃわかんないよ。 さて今回は、いわゆる前期必殺と後期必殺について論じてみたい。

ファンにとってはおなじみの言葉だけど、知らない人のために説明しよう。 必殺は全30作を数えるシリーズだが、その前期と後期では作品カラーが異なっている。 そのターニングポイントになっているのは、まあ色々意見はあるだろうが、第15作の「必殺仕事人」だと思う。 人によっては第17作の「新必殺仕事人」を挙げるかもしれない。 まあ大体そこら辺だということだ。 一般に知られている必殺と言えば「仕事人」であり、主に後期シリーズを指しているわけ。

ところで必殺ファンの人の一般的傾向として、必殺の名を世間に知らしめた後期シリーズを良く思っていないことが多いというのが挙げられる。 何故? 必殺の名を皆が知ってくれるならうれしいはずなのに。 ところが、後期必殺は我々の望む必殺ではない、というのがファンの意見。 では前期と後期の違いは何なのか? そこでまずは一般におなじみの後期必殺の特徴から挙げていって、そして前期を振り返ってみたい。

でも結局どっかで聞いたようなことしか書いてないかもしんない。 独自の視点で書こうと努力はしたのだが、なんかのパクリと思うことがあったら多分その元ネタに影響を受けているせいだと思う。 パクったつもりはないので許してね。

一筆啓上軽薄が見えた

後期シリーズの特徴は、とにかく軽いということだ。 その傾向が最高潮に達するのは、シリーズの人気が最高潮に達した「仕事人III」「仕事人IV」あたり。 毎回お約束となっている妙なコメディシーンが幅をきかせ、そのためにドラマが薄っぺらくなる。 ストーリーは単純な勧善懲悪ものになり、パターン化された悪党と善人が以前に見たような話をまたやっている。 とまあ、全体的にはそんな印象を受ける。

そりゃあ、いいドラマを見せてくれる作品もある。しかし、シリーズ全体としてそういった話を支えてくれることは無かったのだ。 話がドラマになっていない。これでは藤田まことが中村主水を演じるのをいやになるのも無理はない。

これはスタッフが悪かったのか? いや、そうとも言い切れない。 例えば「仕事人V激闘編」ではハードな雰囲気を取り戻そうとしたのだが、途中で元の路線に戻ってしまった。 これは視聴者がそれを受け入れなかったせいだろう。 一般視聴者は単純に、ヒーローとしての仕事人を求めていたのだから。

じゃあ、前期のファンはこういう軽さに耐えられなかったのか? それもあるんだけど、それだけじゃない。 それだけとすれば、例えばシリーズ最高傑作とまで言われている「新必殺仕置人」はどうだ? この作品もお遊び満載だ。時代を無視したセリフやら、屋根の上の男なるわけのわからん人物の登場とか。 こんな作品がなぜ最高傑作などと呼ばれるのか分からないじゃないか。

実際は、先に述べた軽さなんてものは表面的なものに過ぎない。 そして表面的な特徴としてもうひとつ、後期では殉職者が出なくなったということも挙げられる。 「必殺仕事人」以降、ほとんど死んだ殺し屋がいないのだ。映画の中では死ぬんだけど。 じゃあ死ねばいいのかというと、そんなことはない。 なぜ死ぬのかが重要なのだ。

これらのことは、もっと根源的な、必殺のテーマそのものの扱いに問題があるのだ。 「新仕置人」はそれをちゃんと描き切ったからこそ名作扱いされている。 後期シリーズはそれを忘れ去ったためにファンは難色を示しているのだと思う。 そのテーマとは?

逆にそのテーマを失った必殺がどうなったかというと、仕事人のヒーロー化、単純な勧善懲悪の構図への移行などが起こった。 というと分かるだろう。彼らは本来ヒーローではなく、正義の味方ではなかったということが。 では次に前期シリーズの特徴を挙げて、必殺シリーズそのもののテーマについて掘り下げてみたい。

一筆啓上因業が見えた

「必殺仕置人」で初登場した中村主水は、自分をワルだと言っている。これがそもそもの基本となっている。 元々シリーズ第1作「必殺仕掛人」は、従来の勧善懲悪の時代劇のアンチテーゼとして生まれたものだった。 ということはこのシリーズの主人公たちは悪を懲らしめる正義の味方ではないということなのだ。

彼らは人様のたった一つの命を奪う悪党だ。 たとえ主人公であろうとも、悪党にはその報いが必要だ。 だから彼らは最終回で、命を落としたりするのである。

シリーズ最初の犠牲者は「助け人走る」の情報屋の為吉。続いて仮面ライダーV3…じゃなくて助け人の島帰りの龍。 いずれも公儀の手にかかり、仲間を救うために死んでいった。裏稼業に手を染めたが故の非業の死だ。

続いて「暗闇仕留人」で、主水の仲間が初めてこの世を去る。 主水の義理の弟、糸井貢だ。 貢は裏稼業そのものの意義について悩み、人を殺すことに迷いを持ったが故に死んでいった。 彼は人を殺すことを単なる稼業として割り切ることができなかったのだ。 彼は問う。人を殺すことで世の中が良くなったのか? そんな彼の存在は以降のシリーズに大きく影響を与えることになる。

さてこれ以降「必殺仕事人」の前の「翔べ!必殺うらごろし」に至るまで、ほぼ全作品で殺し屋チームの内で誰かが死んでいる。 いずれも人殺しであるが故の非業の死だ。因果なものだ。 ところが、後期シリーズにはこうした殺し屋の末路といったものが描かれない。

一筆啓上正義が見えた

後期シリーズの最終回は、例えば大物を相手にしたので足がつかないように解散するといった感じのものが多い。 彼ら自身の中で、裏稼業に対するけじめがついていないのだ。 何か機会があれば、彼らは簡単に再び裏稼業に手を染めるだろう。 そんなことでいいのか? 殺し屋を正当化するのがこのシリーズのテーマなのか?

実のところ、後期シリーズではそうせざるをえない事情があった。 なぜなら、後期シリーズでは彼らは「正義の味方」だったのだから。 また、キャラクターの人気のために殺すことが出来ないという事情もあった。 飾り職人の秀なんかは「新必殺仕事人」で死ぬ予定だったのにファンの嘆願書で生き延びたというのは有名な話。

だがこれまた表面的な現象に過ぎない。 これは、やはり一般の人が彼らを「正義の味方」として捉えたからなのだ。 正義の味方が無様に殺されるなんてことはあってはならない。 百歩譲って死ぬとしても、強大な敵と壮絶に相討ち、といったところだろう。 だがキャラクターに人気があってはそれもままならない。

結局彼らは生き続ける。「正義の味方」は生き続けなければならないのだ。

一筆啓上英雄が見えた

じゃあなぜ「正義の味方」じゃいかんのだ? 主人公を悪党扱いして、無惨に死んでいく方が面白いのか? 後期シリーズのファンならこう考えるかもしれない。 だが、前期シリーズのファンなら知っている。 先に述べた通り、必殺は元々かつての時代劇の、ひいては勧善懲悪もの全般に対するアンチテーゼだったことを。 それが、必殺自体がメジャーな時代劇になってしまって勧善懲悪ものの仲間入りをしてしまった。 それを前期シリーズのファンは苦々しく思うわけだ。

じゃあアンチテーゼってどういうことなのか? 悪党を主役にしたことか? いや、それは結果に過ぎない。これは勧善懲悪もの全般に対する挑戦なのだ。 必殺は時代劇のみならず、特撮ヒーローなどをも揺るがすテーマを投げかけているのだ。 それはずばり
「悪を倒すことは正義なのか?」
ということだ。

相手が善人を殺す悪党でも、自分がその悪党を殺すのなら同じ穴のムジナだ。 だから中村主水は自分を、ワルの上をいくワルだと言った。 そう彼らは、例え悪党でも人を殺すのは悪いことだと知っているのだ。 だから彼らは悪党として描かれ、悲惨な末路を遂げる。当たり前といえば当たり前過ぎるこのこと。 だが、この当たり前のことを無視している作品がどれだけ多いことか。

特撮ヒーローに例をとってみよう。 大人気となった「仮面ライダー」なんかは、ショッカーの改造人間を殺してしまう。 元人間であったものを、仮面ライダーの独断で殺しているのだ。自分だって同じ改造人間のくせに。まさしく同胞殺し。

もっと凄いのに「快傑ズバット」なんてのもある。 ズバットは親友を殺した犯人を探して犯罪組織を潰しまくり、何人もの犯罪者を殺している。 一人の親友を殺した相手を探すために、だ。ズバットの方が極悪殺人犯人ではないか。

だが特撮ヒーローものを見慣れた者には「正義は悪を滅ぼすべきなのだ」ということが当たり前のようにインプリンティングされているため、別にズバットの方が悪だとは感じないんじゃなかろうか。 少なくとも私はズバットを悪党だとは思っていない。我ながら、こんな自分の感性が恐ろしい。

時代劇だって相当なものだ。 例えばかの徳川吉宗将軍が活躍する「暴れん坊将軍」。 吉宗自身はみね打ちなんだけど、配下のお庭番がバッタバッタと人を斬り殺している。 殺されているのは悪党の配下の侍たち。主の悪行など全く知らず忠義を尽くしただけなのに死んだ者も沢山いただろう。 そして吉宗自身も怒りのあまり刃を向けて人を斬りまくったことがある。 いくら将軍様とはいえ、主に忠義を尽くしているだけの者達を殺していいのか?

時代劇や特撮ヒーローはこういったものがほとんどだ。 だがそこへ必殺は疑問を投げかけた。
「悪党を殺すのもやっぱり悪党じゃないか」

一筆啓上極悪が見えた

必殺の殺し屋たちは人殺しは悪いことだと知っているので、たとえ悪を憎む心を持っていても自分勝手な判断で動こうとはしない。 自分の感情だけで人を殺してしまうと歯止めが効かなくなることが判っているのだ。 そんなことをしたら仮面ライダーや暴れん坊将軍と同じく、正義の名の下に大量殺戮を行なう私刑執行人になってしまう。 だから彼らはどんなに相手を憎んでも、頼み人から頼み料を受け取るまでは動こうとしない。稼業としての筋を通すのだ。

結局のところ、本来必殺の殺し屋は人殺しを悪だと考えており自分たちに正義はないと考えていた、まともな思想の持ち主たちだったのだ。 それを見ていたファンもまた、それを承知していたまともな人たちだ。 だから主人公である殺し屋たちが死んでも、人殺しなるが故の報いなればそれを絶賛して受け入れたのだ。 これこそが前期必殺の真髄なのだ。

とすると、後期必殺や他の時代劇・特撮ヒーローなんかを好む人は危険思想の持ち主なのか? ありゃりゃ、私だって後期必殺は嫌いじゃないし、他の時代劇も特撮ヒーローも大好きだ。危険思想の持ち主なのかなあ。 でもこういった作品が非常に多いこと、必殺がメジャーになったら同様な作品になってしまったことを考えると、人はやはりこういった作品を好むのだろう。 するとこういう作品を好む多くの人こそが極悪なのかもしれない。 あなたもわたしも極悪非道。いずれは等しく地獄道。あらあらかしこ。


必殺のメインページに戻る