代々山田家は公儀御様御用という将軍差料(刀)の切味を試すことを家業とすると同時に、死刑人(下手人、死罪、獄門などに処せられた罪人)の斬首も請け負いました。西洋色を意識する明治政府の方針にともない明治3年4月15日に死罪人の遺体試し斬りが禁止となり、さらに明治14年7月24日、強盗殺人犯・巌尾竹次郎と川口国蔵を斬ったのを最後に、山田家は7代目で廃役、斬首刑も廃止されたのです。 山田浅右衛門というのは世襲名で、実子でも腕のない者は退け、養子を立てました。但し、6代吉昌や8代吉亮は幕府の認知がなかった為代わりに「朝右衛門」と称しています。 安政の大獄のおり、橋本左内や吉田松陰を斬ったことから「首斬り浅右衛門」と呼ばれました。 首斬り役人と言われてはいますが、身分は浪人で、幕府の行刑制度のなかの斬刑執行の公的な地位についていたわけではありません。(老中−若年寄−腰物奉行−腰物同心−首斬り役人)しかし役人は直接斬刑を執行することを嫌い、一方山田家の方も死体が必要だったので、この職を請け負うことになったのです。その腕前は鮮やかなもので、首を刎ねるときに首の皮一枚を残すという離れ業をもっていました。雨降りのときなど左手に傘を持ち、右手一本でその技も見せたといいます。斬刑一回につき二分の手当を受けていましたが、これは正式な役人の方に渡していました。そればかりか、賄賂を渡したりと、この職を維持する為に色々な気遣いをしていました。それは処刑後の死体で依頼を受けた刀の試し斬りをする事が本職だったからです。 初代が徳川家御腰物御様御用というプロの試刀家である山野加右衛門に弟子入りし、弐代吉時からこの職を独占しています。有名な大名・旗本からの有償の仕事で、試斬代価は一振りにつき現在の3〜40万円です。首斬り手当の10倍以上となります。その上死体から生肝を取り出す権利も得ていて、秘伝の技法で薬を製造・販売していました。「浅右衛門丸」の名で、特に労咳に薬効があったといいます。その為山田家は非常に裕福で、実質的な財力は3〜4万石に匹敵したそうです。 明治6年、山田家から宮内庁省に献上された太刀に「小竜景光」がありました。景光は鎌倉時代末期、正安(1299〜1301)頃の備前長船の刀工で、この太刀は現在国宝に指定され、東京国立博物館に保管されています。これはかつて楠正成が所持したといわれる天下の名刀で、当時の時価で五万両といわれ、山田家の裕福さが窺えます。 刀の茎(なかご)に「二ツ胴切落」「三ツ胴截断」などと金象嵌してあるものがありますが、これは試斬の結果得た評価です。五代の吉睦は『懐宝剣尺』(かいほうけんじゃく)なる刀剣書を著し、幕末の最も売れた本の一つに数えられています。これは刀の切れ味のランキング表といったもので、主に慶長以降の新刀を扱っていますが、古刀期の刀も相当ふくまれています。 ランクは「最上大業物」「大業物」「良業物」「業物」の4種類で、最もよく斬れる「最上業物」は、古刀では長船秀光、初代兼元、二代兼元、三原正家、長船元重。新刀は長曾禰虎徹、多々良長幸、陸奥守忠吉、初代津田助広、初代仙台国包、初代肥前忠吉、長曾禰興正、初代長道となっています。 次が大業物。堀川国広ら約100工。三番目が良業物で、野田繁慶ら約250工。四番目が業物でする。時代により若干変動があり、和泉守兼定(通称ノ定)は、はじめは大業物でしたが後で最上大業物にランクアップしています。もっとも全部の刀を試したわけではありません。寛文から天保にかけて出版された為、それ以降の刀は当然対象外で、平安や鎌倉頃の刀ももったいなくて試さなかったようです。 また、この吉睦の著といわれるものに『古今鍛冶備考』があります。これは刀剣の百科事典というべきものです。この二著は柘植平助方理という人が実際の著者と目されていますが、刊行に際し資料、資金の提供は吉睦でした。 勝海舟の父、小吉はこの吉睦の次代吉昌と親交があり、浅右衛門の弟子になって土壇切りをして遊んだとその自伝にあります。海舟自身も浅右衛門家との親交を父から受け継ぎました。 |