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           大スキピオ 対 大カトー

                二本目


 前195年の話です。執政官となり、ヒスパニア・キテリオルを統治、というか鎮
圧することになった大カトーは、ここで幾つかの民族を屈伏させ、また言葉で味
方につけました。或る時強大な蛮族が攻めて来て、ローマ軍が不面目にもその州
から追い出されそうな危険な状態になったこともありましたが、大カトーはこれ
をピューレーナエイーの戦いで徹底的に打ち破りました。莫大な戦利品にしても、
大カトーは彼一流の清廉さを発揮して、何一つ私しませんでした。全体としても
大カトーの戦功は目覚ましいもので、その任期のうちに400以上の町を攻略してい
ます。自分がヒスパニアで過ごした日数よりも多い数の町を取った計算です。

 しかしこれを聞いて腹を立てたのが大スキピオでした。よっぽどシケリアでの
事を苦々しく思っていたのでしょう。大スキピオは、大カトーの成功を邪魔して、
あわよくば大カトーのヒスパニアに於ける功績を自分のものにしてしまおうと考
えました。大カトーの後任に就く為に、あらゆる方法を講じて執政官となり(194
年)、首尾よくヒスパニア州の後任に指名されると、出来るだけ急いで大カトー
の職を早く終わらせました。

 しかし一筋縄ではいかないのが大カトーの大カトーたる所以です(笑)。大カ
トーは既に権限が大スキピオに移っているのを承知の上で、重装兵2500と護送の
騎兵500を率いて、ラケーターニー族という民族を屈伏させ、引き渡させたローマ
軍の脱走兵を百人死刑にしてしまいました。

 これに大スキピオは烈火の如く怒りました。大スキピオとしてはその行為の正
当性の欠ける事を指摘して、大カトーを少しでもおとしめたいところだったでしょ
う。強大な権勢にものを言わせて、大カトーの取った処置を元老院に於いて強く
非難しました。

 ところが大カトーはこれに対して強烈なしっぺ返しをしました。いつもの様に
明快、単純、粗暴で豪快な弁舌によるのではなく、かえって下手に出て、
「名声のある偉大な人々が位のない者に武勲を譲らない様にした上で、自分の様
な民衆出の者が家柄も名声も優れている人々と勇気を競うようにすれば、ローマ
は最も偉大な国家になるでしょうね。」
と言ったのでした。・・・恐ろしい程の皮肉です。

 結局大スキピオの憤慨にもかかわらず、元老院は決議によって大カトーの取っ
た処置を少しも変更しない事にしたので、大スキピオのその任期中に於ける統治
は、大カトーの名声よりも寧ろ自分自身の名声を失ったまま無為と遊惰のうちに
何事もなく終わり、その間に大カトーは凱旋式を挙げました。

 大スキピオのけしかけた戦いは、大スキピオの惨敗によって終わりました。


                          大カトー お見事!


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