書評の物置

■『学校に行かなければ死なずにすんだ子ども』

(石坂啓 幻冬舎 2001年5月発行 1500円)

総合評価:7
分析の説得力:7
具体的な提言:8
読みやすさ:9(特に女性向き)


既存の学校システムへの信頼度:D
                 (適応できている人は別にいいが、できない人には全然行かなくてもいいんだ、と言う)


傾向:学校を絶対視することへの疑問

キーワード:「学校は、降りてもいい」




 著者の石坂啓という人は、マンガ家をやっている女性の方だそうです。私は結構マンガ(男女向け両方)を読む人間なのですが、この石坂啓という人は知りませんでした。私の守備範囲とは違うタイプのマンガ家の方なのかもしれません。

 私はこの本を古本屋で見つけまして、題名を見て「おお、これは、なんか分析っぽい本なのだろう」と思って買ったのですが、その印象は裏切られました(^_^;

 むしろ、「学校を絶対視し、そのやり方を押しつけること」に対して疑問を投げかける本だと言った方がよいようです。「学校に行かずにすめば、子どもは死なずにすんだのに……」と言いましょうか。

 私は社会学なんかのシステム論的な分析に興味がある人間なものですから、この本も分析を期待して買ったのですが、理論・検証というような意味での分析はこの本にはそれほどは期待できません。むしろ、基本的には直感的に結論を出すという手法によってこの本は書かれており、しかし結論としても私にとって納得がいく(いやむしろ、直感でここまで分かるんだからすごいんじゃないだろうかと思えるほどの)ものになっております。あ、ただし、分析もある程度はあります。が、色々な本や論者を参考にしたというよりは、著者の感覚で書かれているようです。

 ……思うに、最近は男女の脳の違いを扱った本がある程度ベストセラーになっていますけども、男はモノの差異を見抜くのが得意でなく、言語化して分析するが、女性はモノの差異を言語化せずに直感で見抜くので、論理的ではないけども結論としてはあっている、という事が多いのだとか。実際私は、有名な女性教育論者のモンテッソーリ夫人の『モンテッソーリ・メソッド』を読んでいて、「んんん〜? これって、結論はその通りであってるかもしれんが、その結論に至るまでの論理があんまり納得できないヨ」と思ったりしました。が、女性というのは「理由は良く分からないけど、とにかくこう思う」という事が当たっている(というより男性が、理由や論理を求めすぎるのかも)そうなので、結論さえ良ければ良いのかもしれません。って、もちろん間違った考え方を抱いている女性も数多いわけですが(もちろん男性も。というか、間違ってる男性の方が数が多い?)。

 そういう意味ではこの本は、うだうだ論理を振りかざす男性の書いた本よりも、女性の方が読んだ方が納得できるものになると思います。ただあれですね、「学校は絶対よ!」とか思っている女性の方が読んでも、ダメでしょう。「学校は絶対よ!」という人に対して「いや、そうじゃなくてね……」という書かれ方ではなく、いくらかでも「学校って不安じゃない?」と思う人に対して、「そうそう、学校を絶対だなんて思う必要はないのよ、むしろ学校はこんなにダメなのよ!」という書き方になっていると言えるでしょう(実際、著者自身「はじめに」の最初の部分で、「学校に不安がない人はこの本を閉じて下さい。学校に不安がある人に、読んでいただけたらと思います」と書いておられます)。そしてそのような方のためには、非常に良い本だと思います。

 しかしまぁ、その「学校は絶対よ!」という男女に対して「いや、そうじゃなくてね……」という事をホントに納得させられるような本が欲しいわけですが、これがなかなか難しいという事でしょうか。



▽現在の教育問題の原因をどこに求めているか

 さて、著者の石坂氏は、教育問題の原因をどこに求めているのか? なぜ『学校に行かなければ死なずにすんだ子ども』がいると考えるのか?

 端的に言えば、多分ココ。

 学校は行かなくてはいけないところという大人の側の思いこみを、まずは捨てるべきなのだと思います。
 塾で子どもが死んだという例を、私はまだ知りません。塾は、降りることができるからです。(降りることのできないシステムになっている塾があるとしたら、そこは子どもにとって、どんなにきつい場所になることか、今度は学校の比ではなくなるかもしれませんが)(P17)

 逆に言えば、「降りられない、と思うからこそ、学校は子どもを殺す」というわけです。しかしそこで反対論者は思うことでしょう。「学校はそもそも、降りられないものであるべきだ。そこから降りようとするのは甘えだ」と。

 これに対する反論としては、論壇?でもいくつかのものが提出されていますが、この本では「昔は子どもの『逃げ場』があったが、それがなくなってしまっている」と言います。

 『逃げ場』とは何か? 具体的に言えば、
  空間的な逃げ場:空き地や野山、路地などの遊び場
  時間的な逃げ場:大人は子どもをわりと放っておいた
  関係的な逃げ場:教師や親以外の色んな人
  精神的な逃げ場:勉強だけが大事なのではない、という空気

 ところが現在は、遊び場所がなくなり、大人は子どもに対して昔よりもはるかに目を配り、親や教師だけで囲い込み、勉強することがとにかく大事なのだ、という事を言う。

 すると、ストレスからの逃げ場はない。しかも、学校的価値観はおかしなことを強制してくる。これでは子どもが参ってしまっても当然だ、と。

 ですからこの本の根幹部分は、現在の学校のストレス度の高さと、単一的価値観の強制が子どもを死に追いやっている、ということにあると思われます。

 で、続けて学校や大人の考え方のおかしさ(統制的態度への批判、多様性を認めることの奨めなど)などを列挙していくわけですが、その具体例については、私は「うむうむ、その通り」と思うことが多いです。

 たとえば、「みんなと違うことはやらないようにと言われ、感じる心や正直な欲求を抑え込むように過ごして、それでいて「創造的なことをやりなさい」と当然のように言われたりする。(P27)」だとか、スイミングスクールやスポーツクラブなどの「できるようになってもらう」という姿勢ではなく、「教えてやる」という姿勢である(というか、「なぜできないのか、バカか?」という姿勢、と言った方が近いと私には思われる)こと。勉強の場が神聖であるという思いこみが、かえって勉強の場をややこしくしているのではないか……という疑問など。


 だがしかし、この本には「なぜ学校は単一的価値観を強制してくるのか?」とか「『逃げ場』がなくなってしまったのはなぜか?」というような考察はありません(たぶん)。まぁそういう考察はそれこそ学者(とくに社会学者)の仕事であって、実際宮台真司などの社会学者がかなりそういう事は考察してますから、別にいいと言えるでしょう。しかしそれ故に、先ほどの「学校はそもそも、降りられないものであるべきだ。そこから降りようとするのは甘えだ」という考え方に対する反論は、どうやってやればいいのか、という点については弱いものがある、と言えます。


 話の中で私が面白かったのは、例えば学校教材で最近よく使われるようになったマンガやイラストについて。大人側はマンガやイラストを使えば、子どもが興味を持つだろうと思って使うのだろうが、この出来がおしなべてよくない、と著者は言います。まったくその通りで、私も「アホか」「勘違いしてるやろ」と思うようなものが氾濫しまくってます。

 それから、小学校受験の話で、勉強をさせられさせられした子どもがめでたく目標の小学校に受かって、「やったあ、これでボクもう、勉強しなくていいんだよね!」と言った、という話など。勉強のストレスでチック症が出ると塾の先生が「おめでとうございます」と言うという話なども、正常な思考能力を失っているような気がします。


 で、これらの話の後、本の最後には著者自身のの子どもに関する様々なエピソードが時系列に沿って述べられていくんですが、私はそういう話にはあまり興味がないのでパス(^_^; 一応少し読んでみましたが、私が得たいと思う分析とはあまり関係がなさそうなので途中でやめました。しかしもちろん、具体的な話ですので、そういうのを読んで共感したり、へぇ〜と思って参考にしたりとか、そういう意味ではいいと思います。




▽教育問題への提言の内容:

 この本の帯から抜き出せば、

 ・学校は、降りてもいい(何が何でも学校に合わせる必要はない)
 ・学校に、権威はいらない(技術、サービスで勝負してみてほしい)
 ・親たちがみんな「仲よし」である必要はない
   (「子どもを通じて知り合った、大人どうしの関係」でいい)
 ・大人は、どう生きているのか(千の言葉より、ひとつの生きざま)

 ということになります(この帯いいなぁ(^^))。市井レベルで言えば、まことに地に着いた良い、提言の内容と言えると思います。




▽総評:

 この本は、「学校ってどうなの?」と否定的疑問を持った人で、共感を求めるタイプの人には良いと思います。特に女性向け。

 逆に言えば、現在の学校の是非について中立〜肯定的な人が読んでも、あまり良くないでしょう。