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(山口二郎編著 岩波新書 2001年6月発行 700円)
著者の山口二郎という人は、北海道大学法学部の教授なんですが、この人を知ったのは「ウェイクアップ!」という土曜朝8時から読売系列でやっているニュース番組を見ていた時でした。 何に感銘を受けたのかはさっぱり忘れましたが、この山口二郎という人の言っていることは「なるほど!」と思うことばかりだったので、早速インターネットで山口二郎氏の本を検索し、本屋に買いにいったことを覚えています。 で、だいぶ勉強になりましたね。特に、日本社会党が政権をとろうとしてこなかった事の弊害なんかについては非常に勉強になりました。野党が、いつでも与党から政権を奪えるような状況だからこそ、与党に緊張感が生まれる。政権交代が起こったら(よく起こるべきなのですが)、野党に転落した元与党は、自分たちに何が欠けていたのかを真剣に考える。そして自浄努力をする。そうやって、「間違いから学ぶ」ことによって、政党政治がよりマシなものとして運営されていく(可能性が出てくる)。 ところが日本の場合、万年与党と万年野党だから、そのような「間違いから学ぶ」ことがない……。これは、私の信奉するポパーの「TRIAL & ERROR」説とも合致していたので、私にとって非常に受け入れやすく、なるほど、と思うものでした。 さて、この『日本政治 再生の条件』は数人の政治家との対談を絡めた本なのですが、簡単に大事な部分だけを抜き出すとすれば、この言葉になるのではないでしょうか。(P223) 結局、公共事業を中心とした既得権益維持の政治を作り出したのは、国民に他ならない。既得権にすがりつく一部の国民と、それを傍観し、無関心なまま放任してきた多数の国民が、自民党的利益分配政治を作り出してきた。したがって、それを作り変えるのも、最後は国民のはずである。多数の国民が政治との関わり方を変えれば、政治家のあり方も変わってくるはずである。 「この人に投票することによって自分たちの利益になる」という関係性をすでに築いている人々が自民党を支え続け、「政治家は自分たちのために働いてもくれないし、誰に投票しても同じだ」とする人々が棄権することによって、かえって前者の利益を確保し続けることになる……。この仕組みが、「失われた十年」に代表される、「日本の変わらない仕組み」を提供し続けてきた。 私は公民の授業で生徒たちにこう説明してきました。「投票は、義務でもなんでもない。ただしかし、棄権する人は、こう言っているに等しい。『私なんかではなく、投票する人の利益こそを増進してあげてください。私は何も要求しません』。こう言える人は、私は素晴らしい人格の持ち主だと思う。が、もし君らが、何か政治に要求したいことがあるなら、棄権するのは最悪の選択だということになるだろう。」 チャーチルは、「民主主義における投票は、『悪さ加減の選択』だ」と言いました。良い選択肢があればそれに越したことはありませんが、そういうことは、かのイギリスであってもほとんどない(イギリスには醜聞にまみれた偉大な政治家がいっぱいいました)。しかし、「より悪くない」選択肢を選ぶことはできる。というか、それくらいしか選ぶことはできない。それで少しずつ改善していくしかない。これはポパーの学説とも合致します。日本人は、「良い政治家があり得る」という幻想を抱きすぎなのです。欧米人は、「政治家は放っておいたら何をするか分からないから、自分たちが常に見張っていなければならない」と思っています。 さて、この本に書かれていて私が新たに「なるほど」と思ったことですが、まずはタイムリーに派閥政治、橋本派(経世会)のドン、野中広務あたりの事について。 野中広務氏は今回(2003年9月)の総裁選で「小泉氏はポスト配分によって政治家を籠絡している」という非難をしてましたが、「それこそお前らがしてきたことだろうが!」という感じです。この本でも、(P31) 自民党における二重権力構造、無能なリーダーの擁立は経世会のエゴイズムの帰結であった。 と書かれています。また、その次の段(P32)で、 また、経世会の経済重視路線は、対外的には穏健主義と結びついていた。国家の威厳だの伝統の尊重だのといった保守的イデオロギーよりも、経済政策がもたらす実利を優先させたからである。日中国交回復を決断した田中角栄以来、この派閥は中国との関係を重視してきた。かつては官僚出身でありながら憲法擁護を説いた後藤田正晴、いまでは戦争への反省を率直に主張する野中広務のようなハト派が存在したのも、経世会である。 と書かれているのを見て、「なるほど」と思いました。 野中広務の引退については、社民党や市民団体関係の女性が、「あの人は平和主義者で、尊敬していたのに……」と引退を惜しんでいたのをいくらか聞いたのですが、まぁ野中広務の平和主義がまったく作り物だったとは思いませんが、かなり実利と結びついていた面がある、という見方をしなければならない(って、平和主義も好戦主義?も、どちらも実利と結びつくからそう主張されるのであって、実利と結びつかない主義主張なんてあり得ないんでしょうけど)。 ともかく、経世会というのは、経済優先だから、対外的には必要以上に弱腰、というのは、納得できる話でした。 それから、民主党の枝野幸男氏との対話では、この本でもっとも「なるほど」と思う話がありました。それはここ数年、自公保連立政権が右翼的・弾圧的な法案をどんどん、無理矢理通していくことに関してなんですが、これを左側の人たちは、「憂うべき時代」とか言ってきたわけで、私も「う〜ん」とは思っていたんですが、枝野氏に言わせると、それは中選挙区制から小選挙区制になったことの必然的結果だと言うんですね。詳しくは本に譲りますが、それは野党側からのプレッシャーというか、裏取引みたいな事が、小選挙区制によって必要なくなった、ということによるのだと。 じゃあ、野党には何もできないわけで、小選挙区制が失敗だったのか? という疑問に、枝野氏は答えます(P70)。 「通すものは与党が通して、有権者に迫ればいいんです。「自民党を勝たせたからこんな法律が通った。こんな法律を通さないためには政権交代するしかありません」と、野党は言い続けることです。 この時期の自公保の強行的な法律の通し方に対して、「野党は何もできていない。情けない」と言われていたわけですが、そうじゃない。国民が、自公保がダメだと思うなら野党に投票する、そういう事によってしか、それを防ぐことはできない。 でも民主党なんかに不安が国民はあるわけですが、別に民主党がじゃあ長期政権を担う必要もないんですよ。「憲政の常道(政権党の政策が失敗したら、それの反対政策を主張していた第二党が政権を引き継ぐ。それの繰り返し)」に則って、今度は自民党が政権をとればいい(取らせればいい)。そうやってギッコンバッタンとシーソーを繰り返させるべきなのだ、と。 「野党は何もできていない。情けない」とか、「自民党に良識がなくなってきてしまっている。それが恐ろしい」とかってセリフ。これは、非常に他力本願的なセリフなんですよね。「彼等に変わって欲しい。彼等が有能で善良であって欲しい」と言うセリフなわけですが、そう願うことは、近代民主主義政治の本質じゃなくて、前近代の本質だ。近代民主主義ならば、「彼等がそうであるならば、我々は彼等に落選という審判を突きつける。そのことによって、彼等に、我々の望むようでなければ当選しないぞ、という脅しをかける」とでもなるはず。国民主権というのは、理念によって実現されるべきだとされているわけではなくて、力関係によって実現されるべきだとされているのだ。そのことが、日本人にはさっぱり分かっていない。 |