書評の物置

■『生態学と社会 [経済・社会系学生のための生態学入門]』

(伊藤嘉昭 東海大学出版会 1994年3月発行 2500円)

 私は、大学時代に哲学科で倫理学らしきものをやっていましたが、その中心テーマは、「道徳ってなに?」というような事でした。

 「道徳ってなに?」と書かれてもよく分からないかもしれませんが……細かく言えば、「道徳的であることが要求されると言うが、それはどれくらい確かなことなのか?」「道徳はどうやって決まるのか?」「何が善いことで、何が悪いことなの? それは確実に峻別できるの?」などなど、つきつめて言えば、「道徳ってホントにあるの?」というような問いまで含みます。

 といっても、別に「オレは道徳なんてキライだ!」とかいうわけでなく、私自身は現代日本の平均から言えばかなり道徳的な人間のよーです。もちろん、細かい非道徳的なことをまったくしてないことはないのですが(どんなことをしたのかとか、つっこまないよーに(^_^;)、知人から呆れられ、面白がられるくらいには、道徳律を守る(守ろうとする)人間なんです。

 じゃあなんでこういうことに関心を抱くのかとゆーと……良く分からないので放っておいて(おい)、「道徳ってなに?」ということに関して哲学的に色々本を読んではみたのですが、どれもこれも、あんまり「なるほど」と思わない。割と反論が出来そうというか、すっぽり分かった様な気がしないんですよね。

 大学時代に進化論の本を読んで「これで説明ができるのかも?」と思っていましたが、その後色々進化論関係の本を読んで、だんだんと「生物学で道徳が説明できそうだ!」と思うようになってきました。

 ところが、「生物学で道徳を説明する」ことには、批判がつきまといます。昔、ナチスの頃にあった優生学という思想では、「優れた民族が勝つのが、生物学的にも正しいのだ! だから優秀なドイツ民族は、他の劣った民族を殺しまくってもいいのだ!」という様な考え方が跋扈しました。まぁそれは極端な例だとしても、この本で挙げられている例としては、

「人間においても、遺伝によって、社会的特性が決まってくると考えてはどうか」

 というエドワード・ウィルソンの構想に対して、ルヴォンティンらが、

「人間の好戦性や非道徳性が遺伝によって決定されていると見なすのは、人間社会の悪しき現状を『それは変えられない(遺伝によって決まっていることなのだ)』と見なすことになってしまうではないか」

と批判した、と。

 もっと言えば、例えば「ウィルソンの意見が正しいなら、男女差別も自然淘汰を耐え抜いた最良の性質だということになるではないか」と言うわけです。


 実際に、日本では竹内久美子という人が、「男が浮気したがることや、人間に貧富の差があることや、絶対権力を持つ王がいる(いた?)ことは、自然淘汰を通じて得られた最高の戦略であり、現代の男女平等論や福祉法や共和制度はこれに反する間違いだ」とゆーよーな事を言っているようです。


 さて、これらの事に対して著者は……。まずルヴォンティンの批判に対しては、ウィルソン寄り。ウィルソン自身が、「人間行動の90%は環境的なもので10%ぐらいが遺伝的だろう」と言っているのに、ルヴォンティンらがあたかも「ウィルソンは100%遺伝だと言っている」かの様に批判するのは不作法だ、という論を挙げます。

 で、著者自身「人間の行動は、大部分が遺伝ではなく「学習」によって形成されたものだろう」と書き、ウィルソンの挙げた例を見ても遺伝の証拠はなく、文化による行動決定とみるべき根拠はたくさんある、として、エスキモー(って最近書いていいの?)の例を挙げてます。

 このエスキモー(イヌイット)の例は、私も文化的なものだと思いますねぇ。

 ですが私自身は、著者の言うような「人間行動の大部分は学習(文化)による」という意見も、どうかな……と思います。ウィルソンも「9:1」で文化優位と言っているようですが、私の感覚から言うと「5:5」くらいにはなりそーな気がする。ただそれは、遺伝子(ジーン)だけのものでなくて、文化的遺伝子(ミーム)も含んでではあります。しかしそーすっと、ミームは「文化」なのだから、文化が「9:1」で優位と言って何が悪いのか、ということに?(^_^;

 実際、私は人間行動が左右される因子として「ゲーム理論」で説明可能なものをかなり重要視しているので、生物的遺伝と文化的遺伝を分けて考えた方がいいよーな気がしています。ただ、ドーキンスなんかでもあんまり分けて書いてない様な気がするんですよねぇ……。これは、これからの課題ってことで。

 で、いくらかの悪い(とされる)人間行動が遺伝によるものだというのは、確かなことだと思います。批判者は、「そう言ってしまったら人間行動の改善が不可能になる」と言うのですが、著者は「だからと言って、『人間行動の悪い部分は(遺伝からではなく)、すべて学習によって作られるのだ』と言ったとしても、それはウソになるだろう。人間がある程度遺伝的に悪い(とされる)行動をとることを知った上で、だからどうすればいいのか、という考え方ができるはずだ」という事を言います。この点は、私も全く賛同します。

 P167には、フルディという女性の生物学者が、こう言ったことが書かれています。

 人間の動物的過去が一夫多妻的であることを認めつつ、だからこそ女の権利のためには一層強力な戦いが必要なのだと説いた……「同等な権利」をもった女は決して(自然に)「進化」してきたのでなく、知性と不屈の意志と勇気で辛うじて出てきたものだ……動物社会の雄優位や多妻的傾向から男の浮気や一夫多妻を是認するのではなく、動物的過去があるゆえに女にとっては一層の闘いが必要だというのである。

 まったくその通りだと思います。まぁ、闘うのも自然淘汰の一部であるような気もしますが……男がやることに黙ってやられていずに反撃することが、自然淘汰的にも、あるいは文化戦略的にも、唯一効き目のある話なのであって、「どうすることもできない」とか「現状がよいのだ」と考えるのは、それ自体自然淘汰説に反しているんじゃぁ?

 ところで「現状がよいのだ」と主張する竹内久美子に関してですが、ここ数十年の生態学の成果は、「個体が自らを犠牲にしたりするのは、その行動が集団にとって有利だから、という理由ではなく、個体にとって有利だからだ」ということにある、のに、竹内久美子は「階級制や浮気を容認した方が、集団にとって有利だ」と言う、そうです。「〜したほうが、集団にとって有利だ」という論法は、使えない、という事をとくと刻み込んでおく必要がありますね。