Hide in the Dark


 街にひとつしかない宿の一室で、ヴァッシュとウルフウッドは酒を酌み交わしていた。
 正確には、少し前までだ。今や金髪の青年は机に突っ伏して、夢の世界の住人となっている。最後の一気飲みで沈没してしまったのだ。
「ホンマに相変わらずやなぁ」
 苦笑とも失笑ともつかない表情を浮かべたウルフウッドは、グラスの縁を指で挟んで目の高さまで持ち上げた。中に残っている酒は7割強、といったところだ。
 そのうちの半分ほどを喉に流し込み、彼は寝こけている旅の連れを見やった。
 幸せそうな顔でぐっすり眠り込んでいる。一体何の夢を見ているのだろう。
 その顔に、孤児院に残してきた子供たちの笑顔が重なった。
 そして──
 ウルフウッドはグラスをテーブルに置いた。
 懐から煙草を取り出そうとして、一瞬、動きが止まる。
 だが、すぐに一本を取り出すと、火をつけた。ゆるやかな紫煙が立ち上る様をぼんやりと眺める。
 先程触れたモノを取り出してみた。
 鈍く黒光りしている銃身。手になじんだ重さ。初めてこれを手に入れたのは、二桁に満たない年齢だった。
 その時は大きく感じられたグリップも、今では手のひらに収まる程度の大きさでしかない。
「おまえは人が死ぬんを何より嫌うとるゆうたな、トンガリ」
 ウルフウッドは眠ったままのヴァッシュに視線を移す。
「せやったら、もしワイがおどれの前で仕事したら、どない言う?」
 もちろん返答はない。ただ彼の寝息が耳に届くばかりである。
 ──殺すな、と。
 生きている限り信じられる可能性の芽を摘むな、と。
 あまりに夢見がちで、あまりに楽観的な言葉をこの男は容易に口にする。
 これほど人の心が渇いていても、それでもなお信じられるのだろうか。
 冷んやりとした重みを手に感じながら、最初に選択した日のことを、ウルフウッドは思い出す。
 あれほど簡単に人が死ぬと知った時、恐怖よりもおかしさがこみあげたものだ。
 計画など考える余裕もなかった。目に入ったから手に取り、撃った。
 それだけで、境遇が変わった。
 衝撃は一瞬。過ぎ去れば後に残るのは、発射された鉛玉の分軽くなった銃と、鉛玉に命を喰われた死体のみだ。
 油断すれば逆の立場に立つのは自分だ。だから訓練を欠かさなかった。狙い違わず目標を撃ちぬけるように、何時間も何日も何週間も。
 あの選択が間違っていたとは今でも思わない。今後もそう思うことはないだろう。
 殺さなければ喰い殺されていた。

 灰になった煙草を灰皿に押しつけ、火種をもみ消す。
 吸い殻を眺めながら、そろそろ残りが寂しくなってきたな、とウルフウッドは思う。
 街を出る前に買い足した方がいいだろう。

 あれを運命というのなら、人生の分岐点とするならば。
 ウルフウッドは喰い殺される未来を唯々諾々と受け入れることを拒み、その手を汚して生きる道を選んだ。
 迷わなかったといえば嘘になる。
 だが、幼かった彼は引き鉄を引くことで、迷いを絶ち切った。
 ──人を傷つけてはいけません。相手を思いやる心を忘れないようになさい、ニコラス。
 不意に、幼い頃何度も諭された言葉を思い出す。
 小さな小さな教会の孤児院で、貧しいながらも子供を育てていた老牧師の言葉だ。
 ウルフウッドは物心つかない頃から、その教会にいた。孤児だったのだ。けれど、実の両親のように子供たちを慈しみ、育てた老牧師は、彼らにやさしい心を育んだ。人を思いやる心を、人としてかけがえのない心を。
 ──いや、一人だけロクでもないモンに育ちよったわ。
 自嘲するように口元をゆがめ、ウルフウッドは銃を懐にしまう代わりに新しい煙草を取り出した。
 彼がある男に引き取られた時、すでに孤児院の経営状態は火の車だったらしい。
 後にウルフウッドがチャペルの二つ名を持つ男に育てられ始めた頃、老牧師の死を風の噂で聞いた。
 孤児院にいた子供たちはどうなったのか。
 彼が一人で旅するようになってから、その地に戻った時、教会はその建物としての機能を失っており、人の気配は皆無だった。
 力がなければ生きていくことはできない。死んでしまえばそれで終わりなのだ。
 養父を撃ち殺したときもそう思った。自力で生きるために引き鉄を引いたその時に。
 目を閉じると鮮明にあの瞬間を思い出す。
 だが、それを身につまされて感じたのは、荒れ果てた彼の故郷を見た時だった──。
 ──あんたは、ワイがあいつを殺したんを知っとったか…?
 知ったところで、一介の老いた牧師に何ができるわけでもないが。
 ふと、ウルフウッドは目を開いた。
「…なんや、そういうことか…」
 くわえていた煙草を中指と薬指ではさみ、肘をテーブルに載せる。わずかにうつむいて彼は苦笑した。
 ──あの時欲していたものは、自由と力。弱いまま、力なきまま消えたくはなかった。幼かったとはいえ、あのまま死ねるほどウルフウッドの生に対する執着心が希薄であるはずがない。
 人が生まれてくるには意味があるという。この世に生を受けて生きる意味が何なのか。
 希望。願望。あの時自分は何を夢見ていたのだろう。
 いや、これからを生きるために…そのために、すべてを賭けた。
 …得たものは、新たな生活と、人を殺める術の数々。
「一度だけ、あんたに聞いてほしかったなぁ…」
 生涯をかけた懺悔を。聞いてほしいと思わずにいられなかった、あの時。
 一人立ちしてから、一度だけでいい、戻りたいと願っていたホーム。
 だがむしろ自分にはその方がふさわしいのだろう。いくら孤児を守り、育てたところで、この両手が奪った命を贖うことなどできはしない…。
 …堕ちる先は地獄であろうとも、生き方を変えることなどできはしないのだ。
「──悩みごと?」
「どわっ!」
 寝ていたはずの男が突然口を開いた。意表を突かれたウルフウッドは心底驚き、焦る。
「な、寝とったんちゃうんか!?」
「ねてたよぅ〜。でもなんか目が覚めちゃって。水、ない?」
「おどかすな、ボケ」
 毒づいて彼は立ちあがった。ベットサイドの水をコップについで、とろんとした目の連れの前に置いてやる。
「先に潰れといてこれ以上手間かけさせる気か?」
「なんだよぉ。ノドかわいたんだから仕方ないじゃないかー。大体キミずっと起きてたんでショ?」
 何のかんの言って、まだ酔いはまわっているらしい。呂律が怪しいのがいい証拠だろう。
「わーったから水飲んではよ寝とれ。ホンマに手のかかるガキやな、おどれは」
 状況が状況だけに、つい口調もきつくなる。だがウルフウッドの口の悪さは今に始まったことではないし、いまさらヴァッシュもいちいち気にはしていないだろう。
 水を一気に飲み終えると、ヴァッシュはふらりと立ちあがった。
 そのままベッドに移動して、ごろんと横になる。
「…トンガリ、おどれの部屋は隣やろ」
「堅いこと言わないのー。カギならテーブルの上にあるでしょ?」
「この酔っ払いが、なんでワイがわざわざ部屋替わったらなあかんねん!」
「弱いものはいたわりましょー」
「アホぬかせ、この局地災害!」
 宿ではあらかじめ2部屋とってあったのだが、わざわざウルフウッドの部屋での酒盛りとなったのは、ヴァッシュが煙草の臭いの残る部屋で寝たくない、と言い出したせいなのだ。勝手といえば勝手な話である。
「ボクもう動けないからよろしくねーー」
 ヴァッシュがベッドの上で手をひらひら動かした。
 いっぺんパニッシャーぶちこんだろか、とウルフウッドは思わず不穏なことを考える。
 しかし、ヴァッシュはすぐに寝こけてしまった。今度は起きる様子がない。仕方なく彼は椅子から立ちあがった。
 中身の残っているボトルとグラスを手に、扉をあけて部屋を出ようとした時。
「…話を聞くぐらいならできるよ?」
 振り向くと、ヴァッシュは寝転んだままこちらに背を向けていた。
 青碧の瞳が見えていたら、真摯な眼差しが向けられているのではないだろうか。
 これからも、決して澱むことはないであろう澄んだ目で、その瞳に多くの感情を抱えながら。
 ウルフウッドは嗤った。
「アホぬかせ、話聞くんはワイの仕事や」
 後ろ手に扉を閉める。
 廊下は暗闇に包まれていた。明るい部屋からいきなり暗い場所へ出たので、目が慣れず、視界が閉ざされる。
 暗闇に目を慣らすため、ウルフウッドは瞳を閉じた。
 明かりに照らされた室内のヴァッシュと、闇に沈む廊下に佇む自分。まるで互いの生き方を象徴しているかのようだ。
 闇の中で起こった出来事は、照らされなければ見えることはない。
 その中にある限り。その中から葬ってしまえば、彼の記憶に残るだけだ。
 闇の中で、時間がたつごとに、年を重ねるごとに、骸が増える。怨嗟の声が耳に届く錯覚にとらわれたことが幾度あるだろう。
 仕事の直後の祈りの言葉は、神の耳に届いているのだろうか。

 ──あなたの右手が罪を犯すなら、右手を切り捨てて残りの体で神の国に行きなさい。
 ──あなたの目が罪を犯すなら……

 ウルフウッドは目を開いた。暗闇になれた瞳に、静まり返った廊下の様子がはっきりと見える。
 そうして、煙草を取り出して火をつけた。
 闇の中にほのかな明かりがともる。周囲をわずかに照らす光。闇を暴くきっかけとなる光。
 我知らず自嘲の笑みを浮かべながら、彼は隣室の扉を開いた。
 これから訪れる眠りと、変わらぬであろう翌日の朝日と。
 ──明日からしばらく野宿やし、酒もほどほどにしといた方がええか。
 ボトルとグラスをテーブルに乗せ、ウルフウッドはベッドに腰掛けて煙草をふかす。
 瞬く間にそれを灰にすると、灰皿に吸殻をおしつけ、ベッドの上に横になった。
 変わることのない日常。繰り返される日々。
 ──それでも。こうして今を生きることが、あの日の選択の結果ならば。
 たとえ生きることが苦しみの連続だと知っていたとしても、あの時のウルフウッドは同じ選択肢を選んだだろう。
 亡者の声も、血にまみれた手のひらも、生の証だ。
 ──悩みごと?
 ──話を聞くぐらいなら…
「…生憎、こいつは悩みごとやないわ」
 一人ごちたその声は、室内の闇に飲まれて消えていった。
                                              ──了

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<あとがき>
 …牧師の過去、というリクエストを見た瞬間、難しそうだなぁと予測はしてたんですが。予測なんて甘かった(汗)。いくら書こうとしても進まないんですよ、話が。堂々巡りを繰り返す思考から出口を探しながら、なんとか書き上げました。
 この話は一応アニメベースです。私はアニメの牧師の優しさは、常緑氏に会う前、あの養父に育てられる以前に培われたものだと思っているんですが、いかがでしょう?