小さな息吹



「ダーリン、お願いがあるんです」
 椅子に腰掛けてぼんやりとしていたウルフウッドに、ミリィがそっと話しかけたのは、とっぷりと夜も更けた頃合いだった。
 いつもなら、彼女は既に休んでいる時間である。
 もともとミリィはあまり夜更かしのできない人間なのだが、妊娠してから特に規則正しい生活を送るようになっていた。
 現在彼女は妊娠九ヶ月。臨月が近いこともあって、既に産まれてくる子供との生活に必要なものは、あらかた揃えてある。
「なんや、どないした?」
 ミリィは背もたれの後ろから身体をかがめて夫を見つめている。そんな彼女の顔を仰ぎ見て、ウルフウッドが応えた。
 ミリィはにっこりと微笑んで、『お願い』を口にする。
「子供の名前を、考えてくれませんか?」


 ふと気づくと、薄暗かった室内に、明かりが差し込んでいた。
 窓を見ると、白々と夜が明けつつある外の景色が視界に映る。
 ……結局、徹夜してしまったらしい。
 うつらうつら眠った気がしないでもないが、これは仮眠の範疇に入るか難しいところだろう。

『子供の名前を、考えてくれませんか?』

『産まれてからでもええんとちゃうんか?』
 ウルフウッドが訊き返すと、ミリィは少し考えて、ゆっくりと説明した。
『うちは一人目の子供が産まれるときに、あらかじめ名前を決めておくんです。小さい頃からそうだったから、子供ができたらそうしたいなぁ、って思って』
 それでもミリィは悩んでいたらしく、今日になってようやく言い出すことができたという。なんでも、ミリィの家では子供が産まれる三ヶ月前にはその名前を決めているらしい。
『けど、まだどっちかわからんやろ?』
『だから両方の名前を考えるんです。で、使わなかった名前は次の子につけてあげるんですよ』
 ウルフウッドには初耳の風習だった。
 ミリィが照れ笑いを浮かべる。
『うちのひいおばあちゃんが、子供の名前を先に決めたとき、お産が軽かったそうなんです。で、それ以来先に子供の名前を決めるようになったって聞きました』
『ああ、一種の願掛けか』
 初産は不安が伴うものだ。その不安を少しでも取り除ければ、それに越したことはないだろう。
 いわゆる験担ぎというものだ。他人にしてみれば迷信でしかないが、信じるものにとってはそれもひとつの信仰に等しい。
 ウルフウッドはミリィの頬に手を伸ばした。
『せやな、ハニーの家族がそうしとるんやったら、ワイらもそうしたらええわ。とりあえず、明日までにええ名前考えてみよか』
 その言葉に、ミリィが心から安心した表情を見せ、微笑んだ。


 ……とはいうものの。
 命名というのは、これでなかなか難しいのだ。
 色々なことを考えて、いい響きを探して、これと思う名前を選んでみたものの──
 結局、ひとつしか決められなかった。
 二人で頭を付き合わせて考えた方が良かったのかもしれない。
 天井に向けて溜息をついた時、ぱたぱたと廊下を駆けてくる足音が聞こえてきた。
 ウルフウッドが慌てて席を立つ。
「ミリィ、走ったらあかん!」
 ぴた、と駆ける足音が止んだ。
 代わりに、ひたひたと歩く音が聞こえてくる。
 少し経ってから、ゆっくりと扉が開き、照れ笑いを浮かべたミリィが顔を見せた。
「えへへ、すみません〜」
 対するウルフウッドも苦笑を返す。
「別に急ぐことあらへんねんから、走らんときや。ハニーの足音聞くたんびに寿命が縮まるわ」
「はい〜、次から気をつけますぅ」
「のんびりしとったらええんやで。な?」
 言いながら、彼は先程まで座っていた椅子に腰掛けた。
 妊娠してからも、ミリィの行動は相変わらずである。悪気がないのは百も承知だが、ミリィが走り出すと、見ているウルフウッドの方が気が気でなくなるのだ。
 もっとも、これは彼に限ったことではない。しかし、他の誰よりも、一緒に暮らしているウルフウッドの心臓に大きな負担がかかってしまうのは致し方ないだろう。
 ミリィはウルフウッドの斜向かいに置いてあった椅子に腰を下ろすと、にっこりと笑いかけた。
「ダーリン、名前、考えてくれました?」
 期待に満ちた眼差しに、ウルフウッドが苦笑を返す。
「一応考えたんやけどな、ひとつしか思いつかんかったんや」
「どっちですか?」
「娘や」
 途端にミリィが破顔した。
「私、男の子の名前を考えたんですよ」
「ほな、ちょうどええな。で、ハニーの方はどういう名前や?」
「ニコルです」
 ウルフウッドが驚いたように目を見開く。
「…それ…」
「はい、ダーリンのお名前からいただいたんです。あなたみたいに、優しい素敵な人になるように。ダーリンはどんな名前を考えたんですか?」
「あ、ああ。ミリアム、いうんや」
「ミリアム…」
「ワイもハニーの名前からもろたんや。ハニーみたいな素直なええ子に育って欲しい思てな」
「なんだかテレちゃいますね。ミリアム…かわいい名前です」
 ミリィは唇の前で両手の平を合わせて微笑んだ。
 一方のウルフウッドは、どこか落ちつかない様子で視線の先をテーブルに転じる。
 そして、呟くような言葉を口に乗せた。
「なんちゅうか、ワイの名前からとるとは思わんかったわ」
 よくよく考えれば、二人とも同じようなことを考えていたのである。大したことではないはずだった。
「…気に入りませんか?」
 気遣わしげなミリィの声に、ウルフウッドは顔を上げた。そして、彼女を見やる。
「ん、いや、そーゆーワケやないんやけどな」
 浮かべた苦笑の意味を感じ取ったのだろうか。ミリィは彼の瞳を見つめて、静かに問うた。
「ダーリン、自分のお名前、嫌いですか?」
「………」
 咄嗟に返答できず、ウルフウッドが口を閉ざす。
 ミリィはじっと彼を見つめている。……彼の答えを待っている。
 ウルフウッドは、ひとつ息をついた。
「嫌いっちゅうわけやない。ただ…ちぃっとな、名前で呼ばれるんに慣れてへん」
「………」
「勝手に思いこんどるだけなんやけどな。こればっかりは、そうそうすぐには治らへんらしいわ」
 苦い笑みを浮かべつつ、ウルフウッドが言葉を返す。
 その笑みが自嘲を含んでいるように感じられ、内心彼は舌打ちしたくなった。
 心配をかけたいわけではないのだ。
 ミリィは今大切な時期である。安心させてやるべきなのに、自分はたかが名前ひとつのことで何を動揺しているのだろうか。
 別の言葉を探そうとしたウルフウッドの右手に、暖かいものが触れた。
 心の中まで伝わってくるようなぬくもり。
 ミリィの手のひらだった。
 彼女は両手でウルフウッドの手を包み込むように握りしめたのだ。
「ハニー?」
「駄目なら、ちゃんと言ってくださいね」
「………」
 彼の手を包み込む左手をそのままに、ミリィは右手でウルフウッドの頬に触れた。
「…我慢、しないでくださいね」
 ミリィが微笑む。
 ウルフウッドは少しばかり目を見開き……苦笑した。
 今の自分は一人ではない。彼の傍らで共にあり、彼の子供を育む女性がいるのだから。
「なんや、照れるなぁ」
 その言葉に、ミリィが笑う。
 ウルフウッドは左手で頬に触れたままのミリィの手のひらをそっと握りしめ、優しく口づけた。
 頬を染める彼女に、彼が笑いかける。
「どっちやろな?ワイは女の子や思うけど」
「きっと男の子ですよ。よくお腹を蹴ってるんですから」
「どれ」
 ウルフウッドがミリィの腹部に耳を当ててみた。
 小さな、けれどはっきりとした、新しい命の脈打つ音が聞こえる。
 と。
 まるで外の様子を感じとったかのように、大きな音が聞こえた。
 ウルフウッドとミリィが顔を見合わせる。どちらともなく笑い出した。
「ホンマ、元気やなぁ。…産まれてくるんが待ち遠しいわ」
「はい。きっとやんちゃな子供ですよ」
「せやな。こら、産まれてから大騒動やで」
 笑みを含んだウルフウッドの言葉に、ミリィが嬉しそうに頷いた。


 ──一月後。産まれてきた男の子は、ニコルと名付けられた。

 二人の間にミリアムという名の娘が誕生するのは、それから更に七年後のことになる。


──Fin

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<あとがき>
 お待たせいたしました、キリ番小説アップです〜。
 というわけで、ウルミリ新婚ネタ。内容がなかなか決まらなくて、かなり難しかったんですけれど、なんとかまとめられてほっとしています。
 この話を書いていて改めて思ったんですが、私ってなんのかんの言ってウルミリが一番好きなんですよね(笑)。書いている間、思うように進まなくて大変ではありましたが、やっぱり楽しかったです。
 でもって。実は今回、以前某所で騒いだシチュエーションを盛り込んでみました(笑)。いかがでしょうか?