白い手 ――貴方が、私をずっと見守っていて下さったんですね。 突如目の前に現れた人外の存在――大天使に対して、彼女は微塵も取り乱す様子が無かった。 既に、ルシファーを知り、彼の存在を受け入れたせいもあるだろう。 それでも一抹の不安を抱かずにはいられなかった大天使に対し、彼女は穏やかな笑みを見せたのである。 相手の心を溶かすような笑顔に、ミカエルは己の判断が間違っていなかったことを確信した。 そして、十年の月日が流れ、今この天界には一人の少年が訪れるようになっていた。 少年の名は甲斐永久。 母親の面影を強く残した、線の細い子供である。 世界の命運を握るデビルチルドレンと対を為すエンゼルチルドレンであり、大天使ミカエルの息子だった。 生まれ落ちた瞬間に大いなる運命を背負わされた少年だったが、全てが終わった今、彼はこれまでと変わりない生活を送るようになっている。 唯一、父親であるミカエルに会いに、天界を訪れるようになった事を除いては。 ……とはいえ、これまで全く接触の無かった父と息子の交流は想像以上に難しく、始めのうちは永久も落ち着かない様子だった。 ミカエル自身、息子にどう接して良いのかわからず、戸惑ったことが一度や二度ではない。 風の噂にルシファーが子どもたちと仲睦まじく過ごしていると聞いた時は、心底この兄が羨ましく思えた程だ。 しかし、息子の訪れは嬉しいもので。 表面上変わらぬ態度の中に、ミカエルの気持ちを読みとったのだろう。永久もまた、少しずつ天界での時間をリラックスして過ごすようになっていた。 息子との対話の中で、彼の母である女性の話が出るようになったのも、その空気のせいかもしれない。 「彼女のような女性とは、なかなか巡り会えるものではありません」 自然と愛おしむ口調になるミカエルに、永久は嬉しそうな表情を見せた。 しかし、ふと何事かを思いついたように、彼が問いかける。 「父上は、魔界を訪れることは出来ないんでしょうか?」 「そう、ですね……明確な決まり事はありませんが、あくまで魔界は天界とは相容れぬ世界。気軽に行き来できる場所ではありませんよ」 あの時ウリエルやラファエルが魔界に降り立ったのは、理由があってのことである。ミカエル自身はライトパレスに姿を見せたものの、最後まで魔界に降りることはなかった。 「地上を訪れることはありますか?」 続けての永久の質問にも、ミカエルは首を横に振る。 「いいえ。本来人間世界へは干渉しない事が鉄則です。……彼女の件はあくまで特別でしたから」 「そうですか……」 落胆した様子の永久へ、今度はミカエルが問いかけた。 「どうして、そのような質問をしたのです?」 特に大きな疑問があったわけではない。ただ、普段からあまり口数の多い方でない永久の何かを求めるような質問に、興味があった。 少しばかり時間をおいて、永久が答える。 「できたら、母のお墓に、同行していただきたいと思ったんです」 しばしの沈黙。 ミカエルは、じっと息子の顔を見つめた。 母親の面影を残す、我が子の少し寂しげな表情を。 「……天界にお墓があれば良かったのに」 ぽつりと永久が呟いた。 「死を迎えた人間の魂は必ずサンドランドを通るのです。ここに墓を建てても意味はありません」 「それは、そうですけど」 「私はルシファーに感謝していますよ。少なくとも、貴方が夕音に会う機会を得られたのは、彼がサンドランドで彼女の魂を留め置いてくれたが故ですからね」 穏和に語る大天使は、少年を諭すかのように笑みを見せた。 その笑顔に暖かみを感じたせいだろうか。 普段ならここで引いていたであろう永久は、更に質問を重ねていた。 「父上は、母にもう一度会いたいと思わないんですか?」 ミカエルの表情が凪いだ。 そのまま背後の窓へ顔を向け、沈黙する。 大天使のこの様子に、永久は身体を硬くした。 ――触れてはいけない事だったのだ。 強張った顔を伏せ、永久は両手を強く握りしめる。 しかし、発した言葉が消えるはずもない。後悔先立たずである。 |
だが。 「私は、臆病なのですよ」 呟く程のささやかな声だったが、弾かれるように永久は顔を上げた。 だが、窓辺から外を見やったままの大天使の表情は窺えない。 しばしの時を置いて、ミカエルはそっと動いた。 室内へと視線の先を転じると、気遣わしげに彼を見つめる息子に静かな表情を見せる。 「父上……」 「天界の原則は、他の世界への影響を及ぼさぬためのものです。しかし天界と他の世界が全くの不干渉である事も有り得ません。地上も魔界も、我らが訪れられぬ場所ではない。ただ……」 ミカエルはここで一呼吸置いた。 「今の私には、万一夕音に会えたとしても、かけるべき言葉が見つからないのですよ」 少年の驚く気配がミカエルに伝わった。もっともな反応である。 ……彼女が逝ったと悟った時、再び見えることはないと思っていた。 短い逢瀬の中で、互いに気持ちが通じ合ったと感じたのは、事実である。 故に永久がこの世に生を受けたのだ。 だが、ミカエルが彼女の傍に在ったのは、短い時間でしかない。 誰が何を言わずとも、考えてしまうのだ。彼女がルシファーと共に過ごした時の長さと、彼に抱いたであろう感情を。 ――ルシファーの件を知って尚、彼女を求めたのはミカエル自身である。 その選択に悔いはない。 ただ、自身の気持ちの整理をつけない限り、彼女へ向ける言葉にどこかしら虚偽が混ざるであろう事は明白だった。 天界に属する者は、決して虚偽を口にしてはならない。 これもまた、天界の不文律だ。 否、それ以前に、彼女へ偽りを述べる事など、ミカエルには到底出来るはずもなかった。 彼は永久の視線を捉え、伝えるべき言葉を口にする。 「夕音の墓前に立つ時は、彼女に伝えねばならぬ気持ちを明確にしておきたいのです。嘘偽りのない真実を。……それには些かの猶予が欲しい。ですから、今しばらくの間は、彼女の元を訪れることはできません」 永久は、真摯な瞳でミカエルの言葉を聞いていた。 本音であるとわかるからこそ、一言も聞き漏らすまいとしているのだ。 それ故に、息子を傷つけるかも知れないと思いつつも、ミカエルは決して本心を偽らなかった。 永久は父親の言葉を受け止め、色々な事を考えている様子だった。 そんな息子を見つめながら、ミカエルは愛した娘の姿を思い出す。 差し伸べられた腕を、自らの意志でつかんだ、女性。 彼の腕を取った白い手は温かく、その心をも包んでくれたのだ。 ――生涯、彼が忘れることのないであろう、ただ一人の娘。 できるなら、彼女に再びまみえる時は、我が子と共に在りたいと思う。 彼が愛おしんだ娘の元へ、彼女が遺した子供と共に。 「その時は、同行してくれますか、永久」 少年は不意を突かれた様子で、目を見開いた。 何かを問われると思っていなかったのだろう。 しかし、質問の意図を理解するや、永久は頬を紅潮させて強く答えた。 「はい!もちろんです……!」 期待に顔を輝かせる我が子へ、ミカエルは穏やかな笑みを返す。 「ありがとう、永久」 いつか、彼女の墓前に立つことが出来た時。自分は何を思うだろうか。 まだ解答の見つからぬ問いであったが、そのきっかけは、ミカエル自身のすぐ近くにあるように感じられたのである。 |
──fin
|