合せ鏡



 玄関のドアを開け、ただいま、と帰宅の挨拶をする。
「おかえりー」
 中から聞こえた刹那の声にほっとしつつ、永久は靴を脱いで居間へ向かった。
 すると。
「や、お帰り、永久」
 テーブルの前でちゃっかり寛いでいる緑の髪の少年が一人。
 永久は一瞬憮然とした表情を浮かべてしまった。
「……来てたんだ」
「うん、帰りに刹那を捕まえてさ。お菓子食べる?」
 全く悪びれないゼットへ、永久は不機嫌な表情を隠しきれなかった。
 ここは刹那と永久の住む家で、ゼットはお客でしかない。その彼に我が物顔で振る舞われては不快を感じるのも仕方ないだろう。
 ──正確には、兄と仲良くするゼットへの嫉妬だと、自分でも理解している。
「ここ、僕の家なんだけど。どうして君にお菓子を勧められるんだよ」
「あはは。ま、ほら。先に中に入ったのは僕の方だったしさ。お腹空いてるだろ?」
「兄さんは?」
「部屋だよ。クールに呼ばれてる」
 今だけは、クールの気持ちがわかると思う。
 刹那のパートナーであるクールにとっても、刹那にやたらめったら懐いているゼットの存在はあまり嬉しいものではないだろう。
 かといって共同戦線を張ることが出来るかというと、それはまた別問題なのである。
 そもそも、永久とクールが揃ってこの少年に相対したところで、軽くいなされるのがオチだろう。
 元々、好きなタイプではないのだ。
 魔界を回っていた頃、時々姿を見せたゼットの存在自体に対して、永久は常に訝しさと危険さを感じていた。
 それもそのはず、ゼットは魔王の一人に数えられる強大なデビルであり、ディープホールを統べる者だったのだ。
 正体を聞いてみれば納得できる話だった。自分の勘の正しさを再認識することも出来たのだが、それは置いておく。
 ところが。何がどうなったのか、気づいてみればゼットは刹那や未来とやたら仲良くなっていたのだ。頻繁に地上を訪れては、刹那や未来と一緒に過ごしている。
 未来の事は構わない。彼女は一人暮らしだし、友達が増えるのも良いことだろう。
 しかし、刹那にまとわりつく点が気に入らなかった。
「機嫌悪いね?」
「当然だと思うけど」
「まぁねー。僕は永久から見れば邪魔者だし。けど刹那と一緒にいると楽しいんだ」
 悪いね、と言うものの、言葉だけのように思えてならない。
「……兄さんの友達付き合いに文句つけるつもりはないよ。個人の自由だから」
 これだけを告げて永久は居間を出ようとした。
 しかし、次のゼットの一言で、彼の足が止まる。 
「永久はミカエルに似てるよねぇ」
 振り向いた永久の視線が、にっこり笑うゼットの顔を捉えた。
「刹那はルシファーに似てるし。君たちを見てると、あの兄弟を彷彿とさせるな」
 他の人間に言われれば嬉しい筈の言葉だが、ゼットの口から聞くと素直に喜べない。
 むしろ、何かの含みが感じられる。
 ……これは、永久がゼットに抱く感情に拠るところでもあるのだが。
「堅物で不器用で真っ直ぐなミカエルと、柔軟性があって鷹揚で、新しい事を受け入れられるルシファーと。……当然といえば当然かもしれないけど、君たちは本当に父親によく似てる。縮図みたいだ」
「それが何?」
 段々と苛立たしさが募っていく事が自分でも理解できた。少しまずいかもしれないという気持ちを差し引いて尚、眼前の少年に対する嫌悪感が頭をもたげてくる。
 永久を見上げていたゼットが何事かを答えようとした、その時。
 ばたばたと賑やかな足音が近づいてきた。
 二人の注意が向けられると同時に、奥へと続くドアが開かれ、刹那が顔を見せる。
「お帰り、永久」
 弟の姿を認めた彼はにっこりと笑う。
 ふっと永久の緊張が和らいだ。
「……ただいま、兄さん」
「今日は遅かったな。日直だっけ?」
 永久の様子に気づいているのか否か、刹那の態度は変わらない。
 むしろ永久にはそれが有難かった。
 ゼットとの応酬で昂ぶっていた感情が落ち着いていくことに安堵する。
「図書室で本を探してたんだよ。なかなか見つからなくて、ちょっと時間がかかったんだ」
「へぇ、何の本?」
 刹那が弟の名前入りの手提げ袋を見下ろす。
 永久は布製の袋から一冊のハードカバーの本を取り出した。
『ナルニア国物語 魔術師のおい』
 タイトルを見た刹那が小首を傾げる。
「……なんか聞き覚えのあるタイトルだな」
「海外の有名なファンタジーなんだって。タンスの扉を開けると異世界が広がってるって話」
「ああ、それは聞いた事がある。なんでタンスなのかが謎なんだけどさ」
 衣装ダンスが異世界に通じている、というくだりはおそらくこの物語で一番有名なエピソードだろう。そのせいか、刹那も知っていたらしい。
 とはいえ至極もっともな兄の発言に、永久はつい笑ってしまった。
「じゃ、兄さんも後で読んでみる?このシリーズは物語での時代の流れが通し番号と違うらしくて、僕は一番古い話を借りてきたんだけど」
「そうだな、読み終わったら頼むよ」
「了解。でも期間延長しそうになったら自分で借り直してね」
 釘を刺すことを忘れず、永久は刹那の脇をすり抜けて居間を出る。
「これ読みたいから部屋に行くよ」
「おやつは?」
「後でいいや。じゃあね」
 刹那との何気ない会話のお陰で、ゼットへのわだかまりも少し落ち着いたらしい。
 流石にごゆっくりなどというお世辞は出なかったが、それでも普段の表情で挨拶できた事に、永久は内心ほっとしていた。


 永久の部屋の扉が閉じられる音を聞き届けた上で、刹那は居間の扉を静かに閉めた。
 そうして楽しそうに彼を見ている少年へと向き直る。
「……ゼット」
 少しばかり強い光を宿した瞳。
 真っ向からの非難を受け流し、ゼットは無邪気に訊き返す。
「何?」
「永久をからかうなよ」
 予想通りの反応に、ゼットはにやにやと人の悪い笑みを浮かべる。
「お兄ちゃんとしては弟君がいじめられるのが心配?」
 帰宅した永久が居間に直行すれば当然ゼットと鉢合わせになる。
 タイミングの悪い事は重なるもので、クールの機嫌を取っていた刹那にしてみれば、内心大いに焦ったことだろう。
 不機嫌な表情も露わに、刹那はゼットへ言葉を返す。
「茶化すなよ。あいつ思い詰める所があるんだからな」
「おーこわ。けどさぁ、永久ってもうちょっと感情を出した方が良くない?」
 ゼットは大仰に首を竦めたが、それに対する反応は冷たかった。
「おまえのやり方だと逆効果だ」
「ひどいなぁ。ボクだって永久とはもっと仲良くなりたいのにさ」
「どうだか」
 扉の向こうへ気遣わしげな視線を投げかけた刹那へ、ゼットは思わず笑みを漏らす。
「ほんとブラコン兄弟だよね、君たちは」
 相も変わらぬゼットの態度に、刹那は小さく溜息をついて台所へ向かった。
 次いで聞こえたのは冷蔵庫を開閉する音。
 戻ってきた刹那は冷えた缶コーラをゼットの前に置いた。そのまま隣に座る。
 席を外している間に空になったグラスに気づいたのだろう。この辺りは本当にマメである。
「ありがとう、刹那」
「どういたしまして」
 普段と変わらない会話を交わして、刹那はクッキーをひとつつまんだ。
 ゼットもクッキーを口に放り込む。
 ……兄弟の仲を裂くつもりはない。
 ただ、永久の今後にすこぶる興味があるだけで。
 ――引いては、刹那と永久、二人の今後に。
 ミカエルとルシファーは道を違えたが、その息子達はどのような道を歩くのか。
 事によっては、二人が選ぶことの出来なかった未来を選び取るのかもしれない。
 しかしそれもまだ先の話である。
 ゼットにしてみれば、今は彼らと共に在るのが楽しいというのが率直な感想なのだ。
 ただ、性格的につい彼をからかってしまうのは、やはり問題だろうか。
 もっともミカエルと似た永久の事、そのうちこちらの揶揄をかわしてしまう気もするけれども。
 ──それまでの短い間、少しくらいは目をつぶって欲しいね。
 缶コーラの口を開け、中身をグラスへ移しながら、ゼットは相変わらず虫の良いことを考えていた。


 以降、刹那が先程のやりとりを持ち出すことはなく、ゼットは甲斐家にて有意義な時間を楽しんだのである。


──fin


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<あとがき>
 やっぱり締めはゼットとなりました。
 作中でも書きましたが、刹那と永久は合わせ鏡のような関係だと思います。
 ナルニアは映画化で有名になりましたね。(実は2冊しか読んでおりませんが…(汗))
 デビチルの頃は今ほど有名ではないでしょうから、図書室でもすぐに借りられるかなと。
(ちなみに「タンスを開けると…」はこの本には書かれていなかったと思います)
 永久が読むなら指輪物語よりもナルニアかなと思いました。

 なんだかんだでうちの刹那はブラコンですね(笑)。
 ゼットと永久は今のところソリが合いませんが、永久が成人すれば表向きはにこやかに丁寧に、
その実辛辣な応酬を見せてくれるのではないかと。
 刹那、未来、永久の三人の中では、一番の成長株は永久かもしれません。