──そこは、ひとつの宇宙。 人間が識りうる事のない、けれども人間にしか宿すことの出来ない世界。 「おめでとう。君の……君たちの力によってニュクスの滅びは阻止された」 全てを終えて、そこに佇んでいた彼へ、僕は話し掛けた。 振り返った彼はこちらを見やり、少しだけ、目を細める。 「綾時……」 口元に笑みを刻む。勝利は喜ぶべきものだから。 別れた姿そのままの形をとって言葉を続ける僕を、彼はただじっと見つめている。 「正直、ニュクスを退けられるとは思わなかったよ。人間は本当に不思議な存在だな。……いや、むしろ君だからこそだったんだろうね」 永らく死神を体内に取り込んだまま、彼が開花させたペルソナ召喚能力は、本来人間が持つ許容量を遙かに超えていた。 「だけど、本当の所は無条件に祝福する気になれないんだ」 既に意味がわかっているのだろう。彼は無言だった。 ……ひょっとすると、僕が饒舌なのはそのせいかもしれない。 「君には誰より未来を見てほしかったから」 託していたのかもしれない。 自分が失ってしまった未来を、平凡な人生を。せめて彼が生きてくれたらと。 「綾時」 静かな声が僕の名を呼ぶ。現世で得た仮初めの名前を。 「僕は満足してる。幸せだったんだ……と思う」 「…………」 「十年前の事も、思い出した。アイギスと戦っていた影を取り込んだ事も、直前に起きた事故で両親が死んだ事も。でもあれから何も起こらなくて、普通に暮らしていた。去年の四月にみんなと知り合って……大変だったけど、楽しかった。色々な事を体験したし……何より、彼女に出逢えた」 一人の少女の姿が脳裏を過ぎる。 彼が学校で、優しい瞳を向けていた線の細い少女。 彼女はいつも、彼の隣で穏やかな笑みを浮かべていた。 ──今この瞬間も、仲間達と共に消えた彼の姿を捜し求めているのだろう。 可哀想だ、と思う。 ほどなく誰もが影時間の記憶を失う。 同時にそれは、彼の命の灯火が消える事を意味するのだから。 不意に、彼が空を仰いだ。 ……少女の声が聞こえたのだろう。 口の中で、彼はひとつの名を紡ぎ出す。 僕は彼の名前を呼びかけ、その視線を捉えた。 「命の期限は残されていない。いっそ戻らない方がいいんじゃないかな」 ぬか喜びさせるだけだ。 ──いや、そうじゃない。彼女もまた記憶を失ってしまうのだから。 「でも、待ってくれてる」 彼はひたむきな瞳で訴えてくる。 「約束を守りたいんだ」 今戻れば帰るという約束は果たされるだろう。 だけど、それだけでしかない。 「影時間の消滅によってみんなの記憶は失われる。……つらくはないかい?」 「そうかもしれない。でも僕は最後の約束を果たしたい」 「そう……」 記憶を維持するのは彼一人。 それでも帰りたいと望むなら。 僕は小さく息をついた。我知らず口元に笑みが浮かぶ。……これが苦笑というものか。 仕方ないね、と応じた途端、彼の表情が和らいだ。 「その時が訪れたら、迎えに行くよ」 「ああ。待ってる。……ありがとう、綾時」 彼の姿が薄らいでゆく。この宇宙から外へと出て行き、短い生を全うするために。 僕は笑顔で見送った。 ──それが君の望みなら。 |
それから一月程の時間が経過した、3月始めの卒業式当日。 約束を果たすべく屋上で仲間を待つ彼の元へ、最初に訪れたのは僕だった。 驚いたことに、彼はアイギスと一緒だった。 彼女は僕を彼の中に封じた存在でもあるのだ。記憶の根底に彼の存在が強く残っていたということだろうか。 「迎えに来たよ」 アイギスの膝で瞼を閉じた彼へ、呼びかける。 次の瞬間、彼は僕の目の前に佇んでいた。 アイギスの膝を枕にしている彼の顔色が白さを増す。 自身の姿を見下ろして、彼は僕に小さく笑いかけてきた。 「ありがとう、綾時」 心に染み入る穏やかな笑顔だった。彼がこんな笑顔を浮かべる時、心に思い描くのは一人の少女なのだ。 「まさか、風花が覚えているとは思わなかった」 「だけど肝心な事は忘れてただろう?」 影時間の出来事は全て記憶から失われている。 そのために、彼との出会いは少しだけ変化していた筈だった。 けれども、実生活においての記憶を残す事はさほど難しくはない。性格も料理の腕も機械に詳しい事も、すべて彼女のありのままの姿だったから。 僕の質問に、しかし彼は首を横に振った。 「いや、覚えていたよ。一緒に過ごした時間ひとつひとつが大切な記憶なんだ。全部覚えていてくれた。弁当の試食、古本屋での話、手作りのイヤホン……僕が覚えていた事のすべてを」 そう、と軽く首肯する。 けれども彼女がここに現れることはなかったのだ。 「……結局、間に合ったのはアイギスだけだったね」 目を閉じた彼の頭を膝に乗せ、機械の身体を持つ少女はその姿を見守っている。 この場所を覚えていたのは、記憶を取り戻すことが出来たのは、十年前のあの時あの場所に存在した者だけだった。 全ての始まりに居合わせた者たちだけだ。 ――そうして遺されるのは、ただ一人。 「そうだな。だけど、アイギスが思い出したのは可哀想だったかもしれない」 同じ事を考えていたのだろう、彼の発言に、けれども僕は同意できなかった。 「それはどうかな?」 彼が意外そうにこちらを振り向く。 「アイギスは君の傍にいることで生きる意味を知ったんだろう? 忘れてしまえば存在意義を失ってしまうんじゃないかな。だとしたらそれは残酷な事じゃないだろうか」 膝の上で目を閉じたままの彼を、ただ見守る機械仕掛けの少女。 しかしその心には、確実に感情が宿っているのだ。 再びアイギスを見やった彼の瞳は、どこかもの悲しさを帯びていた。 「最期を看取る事になっても?」 「最期の瞬間を共に過ごせるのは、ある意味幸せじゃない?」 「……そう、かな」 「多分ね」 少なくとも、今君を見守るアイギスは優しい顔をしているよ、と言うと、彼の表情が少しだけ和らいだ。 「そろそろ行くかい?」 彼は小さく頷く。 僕が差し出した手を取ろうと腕を伸ばした、その時。 「北深くん!」 彼の手を止めた、声。 振り向いたその瞳が見開かれる。 校内へと続く扉が開け放たれたそこに、仲間たちがいた。 記憶を失ったはずの彼らが、口々に彼の名を呼んで駆け寄ってくる。 誰より一番に彼の身体に触れたのは。 「……風花」 呟く声は掠れていた。 先程、皆が一度に名を呼んだあの瞬間、彼は山岸風花の声に反応したのだ。 もはやその心を占めているのは、この少女だけだろう。 眼前で彼に死を齎す僕の存在すら念頭にないようだった。 「北深くん、北深くん!目を開けて、お願い!」 少女の声が虚しく響く。 決して瞼を開く事のない彼の名を、繰り返し、ただ繰り返し呼びかける声が。 彼は右手で拳を作った。強く握りしめられた拳が震える。 固く目を瞑り、俯くと、声にならぬ声で、少女の名を呟く。 二度三度、その名前だけを。 互いに名を呼び合いながらも、決して届かぬはずの声。 「……まさか間に合うなんて思わなかったな」 苦笑混じりの嘆息に、彼は僕を振り返る。 まだ自身では気づいていないであろう、強い生命の光を宿した瞳へ、小さく笑いかけた。 僕の笑みが今までのそれとは変わっていると気づいただろうか。 「ニュクスを封じたのは絆の力。影時間と共に失われた記憶が培ったものだ。仲間が忘れてしまった故にその負荷の全てを君が負う事になった。だけど、記憶が戻れば絆も蘇る。君独りで背負う必要はなくなるんだよ」 「綾時」 「君の未来を描くことが出来ないと思ったからこそ、大晦日に終わらせて欲しかったんだ。でも君は仲間たちとニュクスに立ち向かう事を選んだ。正直、嫌だったんだよ。負ければ勿論、例え勝利したって君の死は避けられないとわかっていたから。……だけど、杞憂だったみたいだね」 説明の意味を理解したのだろう、彼は信じられないという表情で僕を見返している。 無理だと確信していた。 だからせめて、あの瞬間に連れて行こうと思っていたのに、彼はそれを拒絶したのだ。 短い間ながらも幸せな夢を見られるならと、少しだけ待つことにした。 ――まさか、最後の最後で、こんな結末を迎えられるとは思わなかったけど。 僕は佇んだままの彼に歩み寄って、その背を押した。眠る身体の方へ。 ゆらりとその姿が霞むのは、魂が肉体へと戻る合図。 振り向いた彼へ、そっと笑顔を返した。 「今度は、君が天寿を全うするときに迎えに来るよ。……幸せにね」 彼が何かを言うより先に、その姿はかき消えた。 刹那、彼は屋上で目を覚ます。 幾度も彼の名を呼んでいた少女の流す涙が、安堵のそれに変わった。 周りを取り囲んでいた仲間たちが、口々に喜びの声を上げる。 そんな中、彼は身を起こして自分を呼び戻した少女を腕に抱いた。 胸の中で喜びの涙を流す少女へ、彼は戻った証を口にする……。 自然と口元に笑みが浮かんでいた。 そう、これこそが彼の真の願いであり、僕が望んでいた世界。
──了
<あとがき> ペルソナ3をクリアして、どうしても書きたくなったED話です。 最終的に主人公が死を迎えるという話がなんとも切なくて、こういう未来があっても良いのではないかと思いました。 物語後半に登場した綾時君を見た途端、「怪しすぎる!」と思ったのに、まさかああいう展開だったとは…。12月の満月イベントは切なすぎてもう…!(泣) 大晦日に別れを告げた彼ですが、ラストバトルの後にその声を聞いた途端、主人公と何かを話していたのではないかと思えて、その後迎えたEDを見て、一気に組み上げてしまった話です。 また、うちの主人公は風花一筋です。風花嬢は登場シーンでやられました。しかもコミュ開始イベントが勇気MAXでないと食べられないお手製弁当(笑)。可愛すぎますよもう〜! 優しく暖かな想いを育んだ二人に、これからも幸せになって欲しいです。 …そして。幼い頃から共に在った主人公の幸せは、綾時君の願いでもあると信じています。 |