還るべき場所 『…ちゃん…?』 ──声が、聞こえた。 見渡す限り薄暗いその場所で、彼女の意識がゆるゆると覚醒する。 ……ここは、どこかしら? 明かりのないその場所で。目覚めたものの、彼女は途方にくれてしまう。 誰かに呼ばれた気がした。でも、ここには誰もいいない。 頭がぼんやりする。意識がはっきりしない。 ──さっきまで、私は何をしていたの? 思い出せない。ほんの少し前のことなのに。 どうして自分がこんな場所にいるのか。今、気にしていたことは何だったのだろう? 「…わからない…」 薄暗い闇の中、彼女の声がこだました。 その時。 『そこにいるの?』 声が聞こえた。 そして。突然、彼女の前に白く輝く光が現れたのだ。 |
驚く彼女に、光が小さく瞬いた。 『よかった。目が覚めたんだね?』 どこか安堵した様子の声は、女性のそれだった。 不思議と恐怖感が湧いてこない。むしろその光は暖かく、見ている彼女の心を落ち着けてくれた。 「…あなたは、誰?」 彼女の質問に呼応するように、光が輝きを増した。そして、燐光を放ちながら、それが人の形を取り始める。 輝きが収まると、そこにはひとりの女性が立っていたのだ。 黒い服に身を包んだ華奢な身体。少しばかり気の強そうな表情。背の半ばまで真っ直ぐ伸びた、色素の抜けた髪。 ──私…この人を知ってる…? ふと記憶が脳裡を過ぎった。何かが閃いた気がする。 ──とても…懐かしい、人…… 「…ネ…ミッサ…?」 彼女の口を突いて出た言葉を聞くと、ネミッサと呼ばれた女性は嬉しそうに微笑んだ。 『思い出してくれた?ありがとう、ヒトミちゃん』 ヒトミ。…瞳……遠野、瞳。 懐かしい響きだった。そう、それは誰かが自分を呼ぶ時の言葉。彼女自身につけられた── 「…私の…名前?」 ネミッサが頷く。 そして、脳裡に蘇るもうひとつの声。 幼い頃から一緒に遊んでいた、今、自分の最も身近にいる人。 「…灯夜…」 腕っ節が強く、瞳がからかわれたりいじめられたりすると、その相手をこらしめて瞳を守ってくれた幼なじみの名だ。 彼には父親と母親、妹の3人の家族がいる。幼なじみのこの一家は、家を空けがちな彼女の父に替わって、瞳を世話してくれた。瞳にとっては家族同然の人々だ。 そして、1年前。灯夜の妹・友子が交通事故に遭った。 だがそれは、同時にスプーキーズのメンバーと知り合うきっかけとなったのだ。 この事故が、システムによる何らかの人為的なものだと気づいた灯夜が、友子の交通事故の原因を調べていた時、巡り合うように出会った面々。 瞳のメールフレンドだったユーイチ、ユーイチがネットで見つけたガンマニアのシックス。別口から天海市の事件を追っていたランチ、ディナー。……そして、スプーキー。 ディナーは抜けてしまうことになったが、彼らに灯夜と瞳を加えた6人が、現在のハッカー集団スプーキーズのメンバーである。 形のない不明瞭だった記憶が、ひとつひとつ蘇る。 ──そして。 灯夜が拾ったガンタイプのパソコンから出現したのが…。 『…全部、思い出せた?』 瞳の心の中を見通していたかのように、ネミッサが問い掛けてきた。 その言葉を合図に、瞳は意識を正面に立つ彼女に引き戻した。 鏡を見ているかのような、うりふたつのもうひとつの自分の姿が、そこにある。 「ええ、思い出したわ。灯夜のこと、スプーキーズのみんなのこと、私のこと、そして、ネミッサ…あなたのことも」 『よかった。天海モノリスからずっとヒトミちゃんの意識が表に出なくなったから…』 ネミッサが俯いた。その肩が、小さく震える。 『…いなくなったら、どうしようって……』 声が途切れた。 ヒトミはそっと彼女に手を差し伸べる。震えのおさまらない肩を抱きしめて、目を閉じた。 「大丈夫、もう平気よ。ごめんね、ネミッサ。心配かけて」 『…よかっ…、本当に……』 ネミッサの瞳から、溢れた涙がこぼれ落ちる。それはとても暖かく、まるで彼女自身の心の現われのように感じられた。 ネミッサが泣いていたのは、わずかな間のことだった。 泣き止んだ彼女が、そっと瞳から離れる。そして、おもむろに口を開いた。 『ヒトミちゃん、今までありがとう』 「ネミッサ?」 『もう、お別れなんだよ』 「え…?」 『アタシはね、マニトゥの死をつかさどるの』 ネミッサは語り始めた。モノリスでの戦闘の後、現れたレッドマンとの出会いと、自分の記憶について。自分の存在した理由を。 『アタシは元はマニトゥの一部だった。マニトゥが死を知るために、それを教えるために、分かたれた“死の歌”……それが、ネミッサだったの』 「そんな…ひどい!」 『ヒトミちゃん…』 「死ぬためなんておかしいわ!ネミッサはネミッサでしょ?マニトゥなんか関係ない。大切な友達だもの!これからも一緒にいましょう。スプーキーズのみんなだって、灯夜だってそう思ってくれるわ」 瞳が思わず声を荒げてしまったのは、理不尽だと感じたからだ。個人の「生」は、何者かに勝手に決められるものではないはずなのに。 だが、ネミッサは感情もあらわの瞳とは対照的に、物静かな面持ちで話し始めた。 『ん…きっと、全部を話しても、みんなはそう言ってくれるよね。でも、ダメなんだよ。これはネミッサにしかできないことだから。アタシがやらなくちゃ』 異を唱えようとした瞳を制し、ネミッサは続ける。 『それにね、マニトゥは悲しんでる。怖がってる。暴走している自分に戸惑ってる。マニトゥに滅びを理解させられるのはネミッサだけ。だからこれはアタシの役目なの。他の誰にもできないことだから、アタシが伝えてあげたい』 「ネミッサ…」 『義務だけじゃない。でなきゃ納得できないよ』 「………」 『でも、ヒトミちゃんの言葉は嬉しかった。灯夜も同じ事を言ってくれたけど、いつも一緒だったヒトミちゃんがそう言ってくれて、嬉しい』 瞳は精一杯の笑みを浮かべようとした。だが、視界が歪んでしまう。目頭が熱い。 「最初はね、怖かったわ。自分の中に全然知らない人が入り込んできたんだもの。でも一緒にいるうちに、ネミッサのことがとても大切な友達だって思えてきたのよ。私、人前だとどうしても身構えちゃって、本心で話ができる人ってほとんどいなかったから、余計にそう思えたのかもしれない」 歪んだ視界の向こうで、ネミッサはいつもの茶目っ気たっぷりな表情を見せた。 「アタシも。最初はヒトミちゃんのこと、固そうなコだと思ったんだよね。いっつも意見が合わなかったし、大暴れしたいのに止められるし……でも、ヒトミちゃんと一緒にいると、心が暖かくなってきてた。優しくって、アタシの知らないもの、たくさん持ってるでしょ?それに気づいていくうちに、だんだんヒトミちゃんが身近に思えたっていうか…このままでもいいかな、なんて思えてきたんだよ」 ここで、ふとネミッサの表情が翳った。 「ネミッサ?」 『本当はね、人間の身体の中に魂は2つも入れられない……元ある器にのせられるのはひとつだけ。レッドマンに会うまでは知らなかったけど、このままだったら、アタシ、ヒトミちゃんを殺してた』 「……」 『ごめんね、ヒトミちゃん』 ネミッサの言葉を聞いた時。瞳には、その言葉に込められた幾多の想いが伝わってきたように感じられた。 自分が眠りについている間、彼女はどれほど自身を責めたのだろう。どうしていいかわからずに。ただ身体の本来の持ち主を殺したくないという想いを胸に抱きながら。 瞳は小さく首を横に振った。 「ううん、私、あなたに会えてよかった。一緒にいられて楽しかったわ。ちょっと怖いこともあったけど」 最後に少しおどけた口調で付け加えると、ネミッサがようやく笑顔を見せた。 『フツーの女のコには怖かったかもねー。でもヒトミちゃんも度胸あったよ』 「お互い様、かな?」 2人は吹き出した。涙まじりだったが、互いに心からの笑みを見せて、一緒に笑う。 笑いがおさまると、ネミッサは真摯な眼差しを瞳に向けた。 『…ヒトミちゃん、短い間だったけど、ありがとう』 「…ネミッサ…」 『早く目を覚ましてね。灯夜が心配してるよ。……じゃ、もう行くね』 ネミッサの姿が、輝いた。目の前に立っていたはずの彼女の姿は光に溶けるように消えてしまう。代わりに最初に見た光の球が現れた。 それが頭上へと浮き上がる。 「ネミッサ!」 瞳は高く舞い上がった光を見上げ、その名を呼んでいた。 光の球の動きが止まる。 「…またね」 光の球が瞬く。笑みを返してくれたと瞳は直感した。そして。 『またね、ヒトミちゃん。ありがとう』 光が上昇する。煌きを残して、飛び去って行く。もう、その動きが止まることはない。 瞳はそんな光の軌跡を、ただ見つめていた。 |
「…み……瞳!」 自分の名前を呼ぶ声に、瞳はゆっくりと瞼を開いた。 安堵の表情を浮かべた幼なじみの顔が視界に映る。 「…気がついたか?」 「灯夜……ネミッサは?」 灯夜は表情を改めると、瞳から視線を外した。広い室内の奥の空間に目をやりながら、一言だけ、答える。 「──行っちまった」 「…そう…」 あの光の球。自分に乗り移った時に見たあれが、ネミッサの魂だったのだろう。 「ネミッサが、呼んでくれたの。早く戻ってきてって」 「そうか」 瞳は周囲を見回した。そして、灯夜が見やった方向に視線を向ける。そこに、マニトゥの本体がいたはずだった。彼女自身が見たわけではないが、ネミッサが見ていたマニトゥの姿は記憶に残っている。 だが、そこには何もない。 「マニトゥは消えたのね」 「ああ。終わったんだ。──そろそろ、戻ろう」 「そうね…」 瞳は頷いた。 灯夜が手を差し伸べる。瞳の手を取ると、その身体を支えて立ち上がらせた。 ふと、瞳が笑う。 「何だよ?」 「ううん。なんだか灯夜がたくましくなった気がしただけ」 「別に変わってないぜ」 「…ん。私の気のせいよね」 自分の胸の中に、どこかぽっかりと穴ができてしまった気がするのも……? 瞳は目を閉じた。そして、背後を振り返る。 「──またね、ネミッサ」 「瞳?」 「…何でもない。行きましょ、灯夜」 不意に、灯夜が優しい表情を見せた。 何故だろう。その顔が、今までに見たことのある表情と少しだけ変わっている気がする。深いところまで見つめてくれているような、そんな表情だ。 灯夜がこんな顔を見せられるようになったのも、きっと……。 瞳はネミッサの姿を思い描いてみる。 気の強い、わがままいっぱいの娘。ネコのような性格だと思ったっけ。 そのくせ情にもろくて、つっけんどんだけど優しくて。ちゃんと相手を思い遣ることができる。 元気一杯の姿に、何度励まされたことだろう。 今ここに彼女がいないことが、ひどく寂しく感じられるけれど。 ──ネミッサがついてんのよ。大丈夫に決まってるじゃない! 彼女の口癖が、ふと頭を過ぎった。 そう、ネミッサとの思い出は、ちゃんと心の中に残ってる。 絶対に、忘れない。大切な、かけがえのない友達だから。 瞳は灯夜に笑みを返すと、彼と共に歩き出した。
──FIN
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