My
Dear... 砂の国、サンドランド。 死者の魂が訪れるというこの国に、ルシファーが設えた二つの墓がある。 そこには、彼の愛した二人の女性の魂が、静かに眠っていた。 最近供えられたばかりらしい花に囲まれた墓の前で、永久はおもむろに膝をついた。 付近のホテルの住人によると、二つの墓に手向けられる花は一度も絶えたことがないらしい。 供えられていた中に地上の花を見つけた永久の表情が、静かな笑みをたたえた。 どこか朧気な微笑だが、幸か不幸かそれを見る者はいない。 地上で用意した小さな花束を供え、そっと両手を合わせる。 「兄さんが、来たんだね。ルシファーも来たのかな」 寂しげに呟くと、永久は俯いた。 「……僕が来ても、喜んで……くれる……?」 一陣の風にもかき消されそうな、ひどくか細い声、だった。 しかし応じる声はない。 永久は手を伸ばすと、指先で墓石に刻まれた母の名をなぞった。 ――甲斐夕音 その名が漢字で彫られているのは、息子が訪れた時のためだろうか。 兄の顔が脳裏に浮かぶ。 常に弟の身を案じていた彼は、魔界で再会するたびに、自分の名を呼んでいた。 敵対したと宣言しても、なお。 その時に抱いた嬉しさと悲しさの入り交じった感情を、何と呼ぶべきなのか、永久にはわからなかったけれども。 今思えば、いつも兄の訪れを待っていた気さえしてくるのだ。 |
そして、すべてが終わった後、永久は初めてルシファーの慈しみに満ちた表情を見た。 兄を見つめるルシファーの視線は穏やかで、深い愛情に満ちていると感じられた。 刹那は、ルシファーが愛する女性との間にもうけた、愛しい息子なのだ。当然といえば当然だろう。 刹那と永久の母・夕音は、永久の父ミカエルが幼い頃より庇護していた娘だったが、ルシファーが想いを傾け、強い求愛で彼と結ばれた女性だった。 そして、ルシファーの子を産んだ後、夕音はミカエルの訪れを受けたのだ。 二人は契約の元に結ばれ、永久をもうけた。 永久を産んで間もなく、夕音は妹夫妻に後を託し、儚い人になったのである。 永久には、母親の記憶がほとんどない。 刹那は朧気な記憶を残しているらしいが、母親の幻影を見てもそれを母とは認識できなかったという。 しかし刹那には、父と母が仲睦まじく暮らしていた記憶が心のどこかに存在するはずだ。それは紛れもない事実なのだから。 けれど、自分には父母の記憶が無い。 父は不器用ながらも、息子を思い遣ってくれている。それがわかるようになったのも、最近の事だ。 ――だが、母は? 大天使の庇護の元、契約を交わして子を為した母は。 契約は絶対的なものだ。破棄することなど不可能だろう。 選ばれた存在として、運命を受け入れ、永久が産まれたのであるならば。 『人間の中にも、良い人や悪い人がいるでしょう? 世の中にはたくさんのデビルやエンゼルがいるわ。 そして、デビルもエンゼルも人間と変わらないのよ。 それを、知っていて頂戴ね……』 永久は、目を伏せて深い息をついた。 ――既にこの世にない人物の心をはかることなど、出来はしないのだ……。 母の墓前で物思いにふける永久の耳に、砂を踏む音が届いた。 音の響く方向を見やると、近づく人影の姿を確認できた。小さな花束を二つ抱えた、隣家に住む少女。未来である。 彼女もまたルシファーの血を引く娘であり、刹那とは腹違いの妹に当たる人物だ。 そして、永久の従姉でもある。 しかし、これまで知る由もなかった父方の血縁者であるためか、従姉弟という感覚はあまりない。 彼女は隣家の仲の良い友達である。それは、昔も今も変わらなかった。 ほどなく少女は永久に気づき、その名を呼ぶ。 「永久君」 「こんにちは、未来ちゃん」 「こんにちは。永久君もお墓参り?刹那は一緒じゃないの?」 「うん。今日は、ね」 「そう」 言葉を濁す永久へそれ以上問うことはせず、未来は母の墓へ花を供えた。 こちらには、やはり漢字で『要彩華』と彫られている。 名前でしか知らない未来の母もまた、ルシファーが愛した女性である。 詳しい事は聞いていないが、ルシファーと共に過ごしたのは短い間だけだったらしい。 その後、家を捨てた未来の母は、愛する男性との間にもうけた娘と二人きりでつつましく暮らしたという。 未来が一人暮らしをしている、あのマンションで。 何も知らなかった頃、未来に尋ねたことがあった。 『一人で暮らしているの?』 『そうよ。以前は家政婦さんが来てくれてたんだけど、もう一人で生活出来るから』 料理が作れるなんてすごい、兄さんとは違うんだ、と。当時は脳天気にもそんなことを考えていた。言葉の奥に隠された意味など、知る由もなく。 未来は手を合わせて祈りを捧げると、もう一つの花束を永久の母の墓へ供える。 「ありがとう。ごめん、僕お母さんの分しか持ってこなかったんだ」 「いいのよ。私もここへ来る直前に気づいたの」 永久の隣で手を合わせると、未来は一転して明るい表情になった。 「天界はどう?」 「かなり慣れたと思うよ。最初は戸惑ったけど、みんな親切だし」 ラグナロクに至る戦いの中、未来や刹那と同じく、永久も父親の存在を知った。 戦いが終わってからは、永久も時間ができると父である大天使ミカエルの住む天界を訪れるようになっていたのだ。 「お父さんは?」 「相変わらずかな。忙しそう」 天界の天使たちを束ねる大天使の長なのだから、当然といえば当然である。 そんなミカエルも、永久が訪れると語らう時間を作ってくれるのだ。 最初は気兼ねが先に立っていたものの、互いの距離感がつかめると会話もさほど難しくないことに気づくことができた。 互いに少しずつ歩み寄っている、今はそんな時期なのだろう。 「じゃ、寂しいわね」 「そうでもないよ。話したいときはちゃんと時間を取ってくれるし、ラファエル様もお時間が出来ればお話して下さるし」 「あの人、お目付役みたいだもんね」 未来は小さく笑った。以前出会った時に永久の保護者として側に付き従っていた彼を思い出したのだろう。 未来はラファエルと、刹那はウリエルと面識があった。 正確には、刃を交えた相手である。 一度は世界の行く末を賭けて対立した間柄だが、ラグナロクが起動した今、双方に禍根はない。むしろ、互いに一目置いている節さえあった。 特に大天使たちのルシファーへの態度にそれを感じるのだ。 魔界を統べる大魔王という立場上、当然かもしれない。しかし、ミカエルの兄という事実を差し引いて尚、大天使達が敬意を表すだけの何かがあるのだろう。 もの思いに耽っていた永久の視界の片隅に、地上の花が映った。 未来が母の墓に手向けた、小さな花束だ。 人間界の花は、未来の優しさの現れである。手向けられた気持ちは、母に届いているだろうか。 「お母さんは……」 我知らず、永久は心の中で感じた事を口にしていた。 「?」 「僕を産んだことを、後悔してるんじゃないかな」 未来の表情に驚きが広がる。その中に、怒りに似たものを感じたのは一瞬だった。 すぐに平静を取り戻すと、未来は永久に短く尋ねる。 「どうして、そう思うの?」 未来の声がやや硬いと思ったのは気のせいだろうか。 しかしその疑問を口に乗せることなく、永久は知り得た事実を語った。 「デビルやエンゼルのハーフを産む時、母親はエネルギーをたくさん使うんだよ。どんなに力があっても、二人は無理だって。子供が必要だったんなら、他の女の人でも良かったんじゃない?そうしたらお母さんはもっと長生きできたはずだよ」 「でも、永久君のお母さんは永久君を産んだんでしょ?」 「だから……父上の申し出を拒否すれば、死ななかったはずだよ」 言葉を切ったのは、間違っていると思ったためではない。 胸を衝かれたような未来の表情に、いたたまれないものを感じたせいだった。 見ている者に心の痛みを感じさせる、ひどく悲しげな表情。 「お父さんや、刹那やパパからその話を聞いたの?」 未来は足元へ視線を落とした。両手に拳を作っていることに、遅蒔きながら気づく。その手が微かに震えていることも。 「うん、とぎれとぎれだけど」 「じゃあ、パパ――ルシファーが永久君のお母さんに横恋慕……お父さんとの契約に横入りしたことも聞いてる?」 「……うん」 「ルシファーを責めないの?」 即答を避け、永久は墓石に目を向けた。 |
──契約と断言するには語弊があったのですよ。 永久の脳裏に、ミカエルの声が蘇る。 ──確かに私は彼女を望みましたが、幼い娘にその意味は理解できません。故に庇護したのです。時が満ちてから改めて、契約を結びたいと思ったが故に。 永久と目線を合わせて話しながらも、ミカエルの瞳は過去を見つめているように感じられた。……永久の中に、母の面影を追っていたのかも知れない、と気づいたのは後になってからである。 ──しかし、私は時が満ちてもすぐに彼女の元を訪れる事ができませんでした。これまで幾度も目にした人間が異質なものに対して抱く恐怖や嫌悪……拒絶を怖れたのです。 意外な言葉に永久がまじまじとミカエルを見た。 ミカエルの口元には、笑みが浮かんでいた。出会って初めて見る、皮肉げな笑みである。 ──彼女がルシファーに惹かれたことを、どうして責められるでしょう。 声音でその感情を推測するしかなかったが、幼い自分にこの大天使の心情を理解することができるとは思えなかった。 ──ルシファーは何も怖れはしませんでした。そして、彼女はそのルシファーを受け入れたのです。真実を伝える事を躊躇した私に、何を言う権利があるでしょう……。 その口調に、声音に潜む感情は、永久にとって理解のかなわぬものだった。 ……理解してはならないもの、だったのだ。 「人を好きになる気持ちって、どうしようもないから。頭では駄目だってわかってても止められない、それも知ってるよ」 たとえば、永久の母に一目で焦がれたルシファーのように。 未来の母が、ルシファーへの想いを募らせ、おそらくは全てを擲ってその想いを成就させたように。 ルシファーと母の時は、互いに心を通わせ、想いを交わした事で、刹那が生まれたのだ。それは明確な事実である。 庇護していた大天使と出会い、その意味を察して、契約を受け入れたであろう母。 そして、この世に生を受けた自分。 事実の落差を知った時、己の命そのものに疑問を抱いた。 ――母が大天使を拒絶していれば、誰も苦しむことはなかったのではないだろうか? ミカエルが母以外の新たな候補者を見つけていれば。 ルシファーと結ばれた娘は子供を慈しみながら育て上げ、ルシファーもそれを蔭ながら見守り、二人の間に生まれた刹那は母親と幸せに暮らしてゆく。 そうすれば、刹那は。 同じ運命を持って生まれたとしても、袂を分かった実の弟と戦うこともなかったはずだ。 敵対しながらも、弟を呼び戻そうとしていた兄。 ――気持ちはわからぬ事もありませんが、自身の立場を把握していませんね。 兄の態度は、冷静に状況を分析していたウリエルの言葉通りだった。 決別という答えを選んだのは永久だ。 しかし、刹那がそれを受け入れたのは、ファイアーランドの粛正の後である。 そして……デビルチルドレン・刹那の力は強大だった。 父親でもある大天使の長ミカエルと共に最終決戦に挑んだ永久は、魔界を治める大魔王ルシファーと刹那の前に敗れ去り、命を落としたのだ。 兄は、優しい。 自ら争いごとを起こすことは稀である。 故に彼自身の強さは余り知られていない。だが、幼い頃からいつも一緒だった永久は、刹那の強さを誰よりもよく知っていた。 知っていて、戦いを挑んだ。 意識を失い、すべてが終わったと悟り……。 目覚めた時、兄の腕に抱かれていたのだ。 そして、消滅したはずのミカエルを呼び戻し、自分を蘇らせたのだと、知った。 ――きっと一生、兄さんにはかなわない。 はっきりと、そう自覚した。 同時に、自分を思い遣る兄の気持ちが何より嬉しくて……安心した。 もしも、自分が生まれていなければ。 刹那はこれほどまでに苦しむことはなかったろう。 そして、自分はあの優しさに包まれた安らぎを知ることはなかったはずだ。 我知らず、永久は両手で自分の身体を抱きしめていた。 ――誰にも問うことの出来ない、己の存在意義に対する不安。 甲斐永久は、果たして甲斐家に必要な存在だったのか。 「じゃあ、どうしてお母さんの気持ちを否定するの?」 「え?」 意外な言葉に、永久の反応が遅れた。 いつしか俯いていた顔を上げて、未来を見る。 少女の澄んだ瞳には、面食らった自分の顔が映っていた。 永久をしっかりと見つめたまま、未来はゆっくりと言葉を継ぐ。 「永久君が生まれたのは、永久君のお父さんがお母さんを愛していて、永久君のお母さんがお父さんを好きになったからでしょう?自分の命と引き替えに我が子をこの世に送り出したいと望んだからじゃないの?それは、永久君が愛する人の子供だからだって思わない?」 想像もしなかった。 契約は義務。故にその結果が生じたはずではないのか。 予想外の言葉に、永久は動揺する。 「でも、だって、僕を産んだら死んじゃうんだよ?どうして、そんなことができるんだよ」 「義務感だけでできる事じゃないわよね」 未来は狼狽える少年に静かな瞳を向けたままである。 「だったら……」 未来は深く息をついた。きり、と眉を上げる。 「永久君を愛していたからに決まってるじゃない」 永久の動きが止まった。 心の中の時間も、また。 ──あの時、ミカエルは、母がルシファーを受け入れたと言ったのだ。 けれども、自身を受け入れなかったとは、言っていない。 ただ、彼女の拒絶を怖れた自身を責めていただけだった。 ――契約に始まり、恋愛感情を持ち得ない関係から、愛情が生まれるものだろうか。 ミカエルへの気持ちが、契約という義務に縛られたものではないとしたら。 ……始点が異なっていたとしても。 生まれた愛情を、育んでいけるものなのだろうか……? ――永久君を愛していたから。 瞳が揺れる。大粒の涙が溢れ、永久の頬を伝った。 未来の表情が和らぐ。 そして、未来は目の前でしゃくりあげて泣いている永久をそっと抱きしめた。 「永久君のお母さんは、刹那のことも、永久君のことも愛してたはずよ。愛する人たちの子供だもの、当然でしょ」 「……うん」 未来の前で泣くことに恥ずかしさを感じていたが、それ以上に、永久は今知り得た真実が嬉しかった。 母親の愛情を信じられる、その事実が。 「ありがとう、未来ちゃん」 泣きに泣いて、涙がおさまると、永久は真っ赤な顔を伏せたまま、未来に心からの礼を述べた。 未来は優しい笑みを返す。 「いいのよ。誤解が解けて良かったわ」 永久が照れ笑いを浮かべると、未来は悪戯っぽくウィンクした。 「そろそろ帰りましょ。刹那が心配してるわよ」 「……うん、そうだね」 素直に頷けた。 兄が自分を思い遣る気持ちを疑ったことはないけれど。 望むまま、事実を受け入れられる事が、嬉しい。 未来の暖かい優しさに、永久は少し涙ぐみながらも、そっと笑みを返した。 |
──fin
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