砂の国、サンドランド。 死者の魂が訪れるというこの国に、ルシファーが設えた二つの墓がある。 そこには、彼の愛した二人の女性の魂が、静かに眠っていた。 「……久しぶり、母さん」 刹那は墓の前に立つと、しばしの間、母の名が刻まれた墓石を見つめた。 「遅くなって、ごめん」 刹那は膝を折ると、墓の前に地上で買った花束を置き、静かに両手を合わせる。 「昨日、叔母さんと母さんの話をしたんだ。その時、叔母さんが昔描いた絵を見せてもらってさ……」 話しつつ、刹那はその時の出来事を思い出していた。 |
絵心のある叔母は、時間があればスケッチブックを手に周囲の風景を描くことが多い。 もっとも、多忙な日々を送る叔母のこと、あまりまとまった時間が取れないせいもあり、スケッチブックの中身は完成させることのないラフスケッチばかりだ。 しかし、白黒で手早く形を取り込んで表現された数々のスケッチは、下手な写真よりも写実性に富み、叔母の画才を物語っていた。 刹那も永久も、昔から彼女のスケッチを見るのが好きだった。 そんな折である。 部屋を片づけていた最中に、偶然、抽斗の奥に仕舞い込んであったスケッチブックが出てきたのだ。 他と同様に、これも大半がラフスケッチだった。 だが、一枚だけ、水彩で色を載せたものが混じっていたのである。 木々の間に佇む青年の姿。梢を緑に彩る木の葉の合間から覗く横顔は、憂いに満ちている。 ――父さん……? かろうじて声には出さなかったものの、刹那はその絵から目が離せなくなっていた。 整った顔立ち、赤みを帯びた髪と鋭さを秘めた瞳。 ……間違いない。 隣で永久が様子を伺う気配を感じたものの、それに応える事まで頭が回らず、刹那はひたすら絵に見入る。 スケッチブックを凝視する刹那に気づいたらしく、叔母は説明を加えた。 「これはね、姉さんのお葬式だったの」 その声に、ようやく刹那は絵から目を離し、顔を上げて叔母を見た。 甥に静かな瞳を返し、彼女は再びスケッチブックへと視線を移す。 「姿を見かけたのも一瞬で、焼香をしてもらったわけでもなかったし、芳名帳にもそれらしい名前は見あたらなかったんだけど、どうしても気になったのよ。顔も見覚えがなかったけどね、姉の死を深く悲しんでいるのはわかったわ。……何故かしら、この人の表情が忘れられなくて、形に残しておきたくなったの」 もしかして、という叔母の呟きの語尾は言葉にならなかったが、刹那にはそれが聞こえたような気がした。 ――あなたたちの父親かもしれない、と。 母は子供達の父親とは二度と会うことはない、としか言わなかったという。 叔母は、生死もわからない父親について、中途半端な話を姉の子供達へ聞かせるつもりはなかった。 故に、彼女は二人の甥に言い聞かせてきたのだ。 ──父親は、死んだのだ、と。 一瞬だけ、兄弟の視線が交わった。 本当は、彼は永久の父ではない。刹那の父と永久の父は異なるのだ。 しかし、刹那も永久も敢えてそれを叔母夫婦に話す必要はないと判断した。 父母の間柄に対して、余計な詮索をされたくなかったのだ。 父親は違えども、刹那と永久が兄弟であることに変わりはない。 叔母は二人に目を向けたが、既に彼らの視線は件の絵に戻っていた。 兄弟の間に交わされた目配せには気づかなかったらしく、彼女もまた開かれたスケッチブックに目を落とすと、右上の空が描かれた部分に触れ、そっとなでた。 そこには、微かに七色の光が描かれている。 「姉さんの葬儀の間は、ずっと雨が振っていたんだけど、出棺の直前に雨が止んだのよ。それから虹がかかったの……姉さんを見送ってくれたような、不思議な気がしたわ」 刹那は永久を見た。 永久も、兄に物問いたげな視線を向けている。 その意味を汲み取り、刹那は小さく頷いて微笑んだ。 ――おそらく、その虹は大天使の手向けだったのだろう。 葬式で姿を見せた大魔王よりも、むしろ大天使の行動だったと考える方が頷ける。 人間界への介入を是としない厳格な大天使が、最愛の女性に向けた精一杯の気持ちだったのではないか、と。そう、思えた。 そして、色を載せた絵の次に描かれていたのは、幸せそうに微笑む彼らの母の姿だったのである。 |
「まさか叔母さんが父さんの絵を描いてたなんて思わなくて、驚いたよ」 母さんも、びっくりしたんじゃないかな? 昨日の一件を話し終えた刹那は小さく笑った。 そして、両手を合わせたまま目を閉じると、静かに祈りを捧げた。 死者の魂はサンドランドに導かれると言う。 サンドランドを訪れた兄弟に進むべき道を指し示したのは、彼らの母。 不意に、刹那の脳裏に一つの情景が浮かんだ。 愛しい女性の死を憂う青年の前に、魂となって現れる娘。 ――すまない。 ――何を、謝るの? 娘はふわりと微笑む。そして、彼の前に立った。 ――私は幸せだったわ。それは貴方だって知っているでしょう。 青年が腕を伸ばして彼女を抱き寄せる。 幻の娘は、けれども存在感をもって彼の胸に抱かれた。 ――そなたに触れられるのも、僅かな間だ……。 娘は頷く。そして、背後を振り向いた。 遺影の前で、両手に余りそうな赤ん坊をしっかりと抱きしめ、立ちつくす幼い少年の姿。 娘の表情が寂しげに翳る。 しばらくの間、二つの人影は動かなかったが、やがて青年が口を開いた。 ――もう、時間だ。 娘は視線を動かさず、ゆっくりと頷く。 ――ええ。魔界であの子たちを待つわ……。 そして、二つの幻は、その場から消える――。 「刹那」 深みのある静かな声が、彼の名を呼んだ。 刹那は目を開く。 まず視界に入ったのは、母の墓石。次いで、先程手向けたばかりの花束。左には未来の母の眠る墓。周囲には砂漠が広がっている。 どこにも、変わった様子はない。 ――今のは、夢……? そして、ようやく名を呼ばれたことを思い出し、刹那は背後を振り返った。 「父さん……」 驚く刹那に微笑み掛け、ルシファーは手にしていた二つの花束を、それぞれの墓の前に供えた。 父の祈りを妨げぬよう、刹那は立ち上がって脇に一歩下がる。 しかし、彼の頭を占めていたのは、先程見た夢のような幻だ。 時間をかけて祈りを終えた父が立ち上がるのを待ち、刹那は話しかけた。 「父さん」 「ん?」 「今の幻は……」 「幻?」 怪訝そうなルシファーに、刹那は先程見た景色を説明した。 「父さんの前にこの間見た……幻の母さんが現れて、話をしてたんだ。魔界で子供を待とうって……」 ルシファーの瞳に驚きの色が宿る。普段、露骨にこういった感情を表に出さない大魔王にとって、これほどはっきりした表情の変化は珍しい事だった。 しかし、その驚きもわずかな間だった。ルシファーは嘆息すると、どこか感心した様子で刹那を見やる。 「私の記憶を幻視したらしいな」 「幻視?」 「ああ。お前は私の過去を見たんだよ。それは間違いなく、お前の母の葬儀の折にあった出来事だ」 刹那は墓を振り返った。 初めて訪れた時に現れた女性の姿は、影も形もない。 だが、優しい微笑みだけは、はっきりと記憶に残っている。 「叔母さん……母さんの妹が、葬儀の時に父さんを見かけたらしいよ。とても寂しそうだったって言ってた」 「そうか」 「だけど、やっぱり母さんは幸せだったんだね」 「……ああ、そう言ってくれたよ」 佇む刹那の背に、暖かい腕が触れる。 刹那が顔を上げると、ルシファーは優しく微笑んだ。 「せっかく魔界に来たんだ、城に寄っていきなさい」 「うん。そうだね、ありがとう」 刹那は背後を振り返った。 そして、そっと笑みを浮かべる。 「さよなら、母さん。……また、来るよ」 脳裏に浮かぶのは、子供達を見守る母の表情。 そして、暖かな腕に導かれ、刹那は墓所を後にした。 |
──fin
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