06 雲煙(くもけぶり) (アーク2・アークク) 顔を合わせた人との挨拶。 駆け回る子供たちの声。 川では洗濯をする女たちのお喋りが見られ、畑を手入れする男たちは言葉少なに、黙々と仕事をこなしている。 広場では商いに精を出す声が交わされ、買い物時には活気を帯びるようになっていた。 やがて日が暮れると、家々の竃から煙が上がり、辺りには夕餉の匂いが漂ってくる。 遙かな昔より繰り返し、繰り返し、続けられてきた日々の営み。 一度は失われかけた、単調だけれども穏やかでかけがえのないもの。 村の様子は生まれ育ったトゥヴィルとは随分異なっていたが、今のククルの目にはすっかり馴染んだものとなっていた。 おそらくそれは、アークにとっても同じなのだろう。 玄関の扉が開いた音を耳聡く聞きつけ、ククルは振り向いた。厨房から隣室へと顔を出す。 そうして、姿を見せた青年を笑顔で迎えた。 「お帰りなさい、アーク」 ――それは、彼が旅から戻る度にククルの口から出た言葉。 しかし今は、日々の挨拶となっていた。 出迎えた彼女に返されるのは、愛しい人の優しい笑顔。 「ただいま、ククル」 後ろ手に扉を閉め、アークはマントの留め金を外しながら彼女へと歩み寄った。 「良い匂いだな。ビーフシチューかい?」 「ふふ、正解。今日はちょっと奮発したのよ」 答えながら、ククルは彼が脱いだマントを受け取る。 アークは椅子に腰掛けて軽く天井を仰いだ。そんな彼を柔らかな眼差しで見つめ、ククルはテーブルを挟んだ正面に座って膝の上でマントをたたむ。 「トッシュが近いうちに村を出るつもりらしい」 不意に告げられた一言に、ククルの手が止まった。 視線を上げると、いつしか彼女へ向けられていたアークの瞳にとらわれる。 寝耳に水の話だった。 しかし、意外に思ったのは最初だけである。 アークの物静かな瞳を見返すうちに、ククルはすんなりとその話を理解していた。 「そう……。寂しくなるわね」 「本当は、色々頼みたかったんだけどな」 軽い吐息に混じって本音が滲み出たアークの呟きに、だからこそトッシュは町を出る決意をしたのだろうと感じられた。 無論、アークも気づいている筈だ。 トッシュと行動を共にするようになってから、アークは彼を兄のように慕っていたとククルは思う。 元々兄弟のいない上に母子二人きりで育ったアークにとって、面倒見が良くいざという時頼りになるトッシュという男は、兄のような存在だった。ある意味父親にも近かったのではないだろうか。 事実、一家の若頭を張っていただけあって彼は根っからの兄貴肌であったし、精神的にも幼かったアークをククルやポコとは異なる立場から支えていたのだ。 旅を始めた当初のアークは、年相応の少年だった。 今のアークしか知らない者には想像もつかないだろう。旅の意味を知り、世界の命運を担う事を知らされ、勇者の名を背負ってから、アークはとみに大人びていった。 誰もが彼の年齢を聞くと一様に驚くのだが、しかしそれは周囲がアークに必要以上の成長を求めた結果に他ならないのである。 生き残った人々と共にスメリアを立て直そうと決意したアークに率先して協力し、共に尽力したのもまたトッシュだった。 パレンシアの人々に慕われていたトッシュがアークに協力した事が、トウヴィルの村人とパレンシアの町の人々双方が手を携える切っ掛けとなり、同じ国の中で諍いを起こすことなく、スメリア再建に乗り出すことができたのだ。 アークがこのまま彼を頼りにしたいと望むのは自然な事だったが、それゆえにトッシュは身を引くべきだと考えたのだろう。 剣客であり渡世人でもある彼は、自身の立ち位置を誰よりも理解している。 平和な世界に争いの種を持ち込むことを是としなかったのだ。 「見透かされていたみたいね。トッシュらしいわ」 彼の心情を察し、ククルが微笑みを浮かべると、アークは肩を竦めて苦笑を返した。 「確かにね」 気心の知れた仲間であるからこそ、止められないこともわかっている。 別れは寂しいものだが、それもまた一つの道なのだから。 不意に、やや慌てた様子の足音が二人の耳に届いた。程なく顔を覗かせた女性は、アークの姿を認めて小さく微笑む。 「あら、お帰りなさい、アーク。今日は早かったのね」 「ただいま、母さん」 「お義母さま、探し物ですか?」 ククルが腰を上げようとしたが、ポルタは穏やかな表情でやんわりと制した。 「ああ、いいのよ。今すぐ必要な物でもないし、すぐに見つかると思うから。それより少し落ち着いたら夕飯にしましょうか」 「そうだね」 「はい」 息子夫婦の答えに満足した様子でポルタは部屋を出て行った。 閉じられた扉に目を向けたまま、アークはそっと言葉を紡ぎ出す。 「……母さんが元気になって、本当に良かったよ」 夫を喪った直後の憔悴しきった母の姿を思い出したのだろう。 「貴方が傍にいたからよ。励まされたんだと思うわ」 それでも彼女は、村の、国の再建のため、真っ先に立ち上がった一人だった。 未来のために。生き残った人間が出来ることをひとつひとつこなしてゆくべきだと、抜け殻のようになっていた村の人々を懸命に励ましたのである。 そう、村の復興は、皆の力が合わさればこそだった。 決して誰か一人の力で為し得る問題ではなかったのだから。 アークは強い牽引力たり得たが、それはあくまで指針に過ぎない。一人一人がもう一度立ち上がろうと努力したからこそ、こうして少しずつ結果が目に見え始めてきたのだ。 アークはやんわりと微笑んで席を立つと、ククルに歩み寄った。 そうして、椅子に座ったままの彼女をしっかりと抱き締める。 「そうだね。そして、ククルもいてくれた。俺は君がいなかったらこうしていられなかったよ」 「……アーク……」 ククルはアークの腕の中で、目を閉じた。 ひっそりと二人だけで、という望みとは異なる形になったけれど、それでもこうして穏やかな日々が訪れた事を、感謝する。 今を生きる人々に。人間を見守り続けた精霊に。今ここで傍にいる大切な人に。 「夢のようね。ずっと願っていたけれど、こうしてあなたと一緒に居られることが本当に幸せだって、実感するの」 「ああ。俺もだよ、ククル」 アークの腕に手を添えようとした時、ククルの手の中にあったマントから、かさりと紙の擦れる音が聞こえた。 視線を落とす彼女の瞳に、伸ばされたアークの手が映る。 やがてその手がマントから一通の手紙を取り出した。 「エルクから手紙が来ていたんだ。みんな元気でやってるらしいよ」 ククルは手渡された手紙に目を通す。 些か乱暴な文字は書き手の短気な性格をそのまま反映しているようで、つい笑みがこぼれた。 エルクはシュウを始めとしたハンター仲間と共に、世界中を飛び回っているようだった。 ハンターは世界中の連絡網を兼ねている。文字通り休む暇もないのだろう。 彼自身は落ち着く暇がないらしいが、リーザは行き場をなくしたモンスターを集めて定住を決めたと記されていた。 意外な出来事にククルは驚き、次いでやや不安そうに表情を曇らせる。 「リーザは周りに受け入れてもらえるかしら。あの子のモンスターは大人しい子ばかりだけど、すぐにそれが伝わるとは思えないし……」 まだ幼いと言えなくもない少女の姿を脳裏に描き、ククルは募る不安を口にした。 「でも、頑張ると書いてあるだろう?これも彼女なりの変化じゃないかな」 「……そうね。あの子はあれで芯が強いもの、一度決めたらしっかりやり遂げるわね」 アークの言葉にククルも彼女の決意を前向きに受け止めようと頷いた。 妹のようで目が離せなかったけれど、別れてから一年以上経っている。 彼女も、いつまでも子どもではないのだ。 「落ち着いたら遊びに来て欲しいって書いてあるし、……そうだな、もう少ししたら訪ねてみようか」 「ええ。久しぶりにみんなとも会いたいわ」 「ああ。流石に今すぐは無理だけど、村もずいぶん落ち着いてきたし、たまにはゆっくり羽根を伸ばそうか」 こっそりと洩らされた溜息を聞き逃さず、ククルは頷く。 「そうね、働きづめのアークに少しは休んで欲しいもの」 ククルの言葉に思わずアークは苦笑を見せたが、やがて彼女を抱く腕にそっと力をこめた。 「ああ。一緒に世界を見に行こう、ククル」 その小さな約束は、平和な今を象徴するかのようで。 互いに交わす笑みは穏やかで、満ち足りている。 世界が平穏になったと言うには些か気が早いと思われたが、それでも今は、これからの努力次第だと希望を持つことができる。 共に在る幸せを感じながら、ククルはアークの胸にそっと頭をもたせかけた。
──fin
(2007.10.21up) |
07 夏場の出会い (TOS・アンナ&ダイク+ロイド+ノイシュ) (ネタバレ注意・ロイドの幼少、一家離散話です) 意識を取り戻したアンナの視界で、地面に倒れた幼い息子の姿が明確な像を結んだ。 ――ロイド! 反射的に身を起こすと同時に手を伸ばしたアンナは、しかし自身の腕が息子の身体をすり抜けてしまった事に、愕然とする。 よくよく見ると、アンナの腕は実体を持っていなかった。腕の向こうにある物が透けて見えるのだ。 己の身体を見下ろし、足下に小さく輝く珠を目に留め、アンナはようやく自身の置かれた状況を理解することが出来た。 夫と息子、そしてノイシュと共にとある人物を訪ねようとした矢先、運悪く追っ手に発見されたのだ。 アンナの夫は凄腕の剣士だったが、庇護すべき人間を抱えての戦いは劣勢に傾き、遂には彼女も追っ手であるディザイアンの手に落ちたのである。 直後、アンナは身体に埋められていたエクスフィアを奪われ、その身体が人ならざるものと化してしまったのだ。 正気を失って暴れた彼女から、ノイシュが辛うじて息子を守り傷ついた。 その衝撃でアンナは意識を取り戻したが、最早何の術もない。 彼女に出来たことといえば、ただ乞い願うだけだった。恐らく二度と元には戻れぬ自分の命を絶つよう、夫に懇願するしかなかったのだ。 ……残酷な決断を求められ、彼はどれほど苦しんだろうか。 しかし、最終的に彼はアンナの願いを聞き入れたのである。 そこで一旦記憶が途切れるのだが、どうやら肉体を離れた精神が何らかの作用でこのエクスフィアに宿っているらしい。 現在の状況を把握出来たものの、今の状態も時間の問題だと思われた。 死者の魂はいずれ消滅する。 ――それまでに、この子を……。 触れられぬ手で息子の頬を撫でながら、アンナは思案した。 その時。 「こいつは……」 驚きに満ちた声を耳にするや、アンナは立ち上がって息子を背に庇った。 改めて考えれば、実体を持たぬ彼女の行動は、意味をなさないものである。 だが、身を守る術を持たない我が子を危険にさらけ出すことなど出来ようはずがない。 厳しい表情で突如現れた者の正体を見極めようとしたアンナの視線の先に、唖然とした様子のドワーフが佇んでいた。 揺らめく人影。そして気を失った小さな子供。 この取り合わせに度肝を抜かれたのだろう。 だが、茫然自失のドワーフのすぐ傍らに大きな白い獣の姿を認め、アンナは瞬時に状況を悟った。 どうやらノイシュが人を連れて戻ったらしい。自身も傷を負っているというのに、幼いロイドの身を案じて助けとなる存在を捜してくれたのだ。 アンナは緊張を解いて頭を下げると、静かに問いかける。 ――貴方は、ドワーフですか? 「あ、ああ、そうだが」 夫が言っていたのはこの人だろうと直感した。要の紋を作る技術を持つというドワーフ。 自分には必要がなくなってしまったが、今この場で彼に会えた幸運を感謝したかった。 ――私はアンナと申します。ディザイアンに追われて命を落としましたが、一人息子は一命を取り留めました。……どうか、この子を引き取って育てていただけないでしょうか。 突然の申し出にドワーフは目を丸くする。 「わしは人間じゃねぇ。子供を育てたことなんかないぞ」 彼の返答はある意味当然の反応だったが、ここで諦めるわけにはいかなかった。 他人に慣れないノイシュがここへ連れてきたというだけで、このドワーフが害意を持たない存在だとわかった。 今ここで彼に息子を託すことが出来なければ、幼子ひとり生き延びることなど不可能である。 ……自分には、もう幼い息子を育てることが出来ないのだから。 アンナは真正面からドワーフの瞳を見つめた。 ――ドワーフは義理に厚い種族だと聞いたことがあります。今ここで見捨てられたら、この子は死んでしまうでしょう。どうか、お願いします。私の代わりに息子を、ロイドを……。 アンナの懇願にドワーフは弱った顔で頭をかき、子供に近づいた。身体を調べ、怪我の有無を確認する。 そうして洩らした息は安堵のそれだった。 しばし彼は子供を見ていたが、やがて小さく息をつく。 ドワーフはアンナを見上げると、改めて子供の容態を告げた。 「大きな怪我はしてねえようだな。良かった。……わしでできるなら、育てよう」 最後の一言に緊張が解ける。 アンナはそっと微笑みを返した。 ――ありがとうございます……。 安堵のせいか、一瞬、その意識が遠のいた。 そうして悟る。自身の意識が消えゆこうとしていることを。 アンナは拡散しそうになる意識を必死で繋ぎ止めながら、このドワーフに伝えねばならぬことを早口で語った。 ――このエクスフィアは私の身体に埋められていたものでした。ディザイアンはこれを狙っていたのです。……ドワーフの方ならば要の紋を作ることができるとか。この子に私のエクスフィアを託していただければ、思い残すことはありません。 アンナの願いにドワーフはしっかりと頷いた。 おそらく、彼もまたこの幻が長く残らないことに気づいているのだろう。 「要の紋だな、いいだろう。あんた、名前は?」 視界が霞む中、アンナは懸命に答える。 ――アンナと申します。息子はロイド。貴方を連れてきたのはノイシュです。 「そうか。わしはダイク。わかった、そのエクスフィアはあんたの形見としてロイドに渡そう」 ――ありがとうございます……。 そこまでだった。アンナの意識が拡散してゆく……。 女性の幻が消えた後、ダイクは見慣れぬ獣――ノイシュに簡単な手当てを済ませると、早々にその場を立ち去った。 アンナを追っていたというディザイアンに見つかっては元も子もない。物騒な気配が消えるまで、住処で大人しくするに越したことはないと判断したのである。 幼い子供とノイシュを伴って住処である洞穴に戻ったダイクは、数日後、再び森を訪れていた。 幸いなことに、物騒な気配は消えていた。 不穏な気配を察して姿を隠していた動物たちの普段と変わらぬ様子が、それを物語っており、ダイクも胸を撫で下ろす事ができた。 だが、ここに来て彼はひとつ問題を抱えていたのである。 この数日で思い知らされた事だが、人間の子供には太陽の光が必要だった。 洞穴で育てることは出来ないのである。 そのため、森の様子を確認すると共に、家を建てるに相応しい場所を物色していたのだ。 小川が流れる少し開けた場所で、ダイクは足を止めた。 彼が森に住み始めてから、どれほどの時間が流れただろうか。 住処はその一角に過ぎないが、この森全体がダイクの庭のようなものである。彼の知らぬ場所はない。 だが、ダイクはここで思いもかけないものを見つけたのである。 掘り返したばかりの土の小山と、そこに立てられた膝丈の短い木。 近づいて見ると、木の表面に文字が彫られていた。 アンナ・アーヴィング、と。 「……身内がいたのかい……」 おそらく、この人物もまたロイドを捜していただろう。けれど見つけることができず、遺されたアンナの亡骸をここに弔い、姿を消したと思われた。 ダイクはしばらく墓標を見つめていたが、改めて周囲を見回した。 木漏れ日が暖かくこの地を包んでいた。水辺なのも利点である。 小さな家を建てるには、なかなかに良い場所のようだった。 ダイクは一つ頷くと、水辺に咲いていた小さな花の根を掘り返し、墓の付近に埋め直した。 「これからは、わしらがここで世話をしよう。いつか、あんたの身内が訪ねてくるかもしれねえな」 墓標に話しかけると、ダイクはゆっくりとその場を後にした。 そよ風が小さな花びらを揺らす。 森を抜ける風は木々の匂いをのせ、ダイクの後を追いすがる。 墓標に吹くそよ風は、主の祈りを届けるのだ。 ――ああ、どうか願わくば。 消えゆく意識の中、最後に紡ぎ出された切なる想い。 ――いつかロイドがクラトスと出会えるように……。
──fin
(2007.06.27up) |
08 有限 (アーク2・トッシュ&アーク) スメリアの春を彩る花といえば、桜だろう。 古の昔からこの国に春の訪れを告げた花は、世界を引き裂いたとすら称されるあの大災害の後も、やはり変わらず薄紅色の花を咲かせていた。 宵闇の広がる中、微かな月明かりに照らされた桜花は、それ自体が光を放っているように見える。 仄明かりに浮かぶ桜は幻にも似て、異界へ誘うしるべのようにも思われるのだから不思議なものだ。 力強く根を下ろし、多くの枝を茂らせ、その身を桜花で艶やかに覆った大樹は、見る者に安らぎを与えてくれる。 この桜の大木の下で、恩義ある父と初めて酒を酌み交わしてから、幾年月が過ぎただろうか。 天涯孤独の身であった頃の昔よりも、組の一員となってからの記憶がより鮮明なのは、父と呼び慕った男の存在が大きかった。 一家を喪い、新たな仲間を得てからは、状況が一変した。 ――まさかスメリアの裏世界に生きていた自分が、世界の命運を賭した戦いなどというものに巻き込まれようとは。 予想外の、ある種皮肉と言えなくもない立場に苦笑を禁じ得なかった。 裏世界といえば、仲間にもう一人、似て異なる境遇の青年がいた事を思い出す。 今でこそハンター稼業を生業にしているが、独特の雰囲気を隠しおおせるものではない。 表社会に生きる者には朧気にしかわからないだろうが、同じ世界の一端を知る者には自ずと感じられるものがあった。 幾度か酒を酌み交わした事もある。寡黙だが信に報いる誠実さを備えた男で、心の奥に通じる何かがあった。 「そういやあ、あいつはここへ来た事がねえか」 旅の最中、トウヴィルを訪れる機会はあったものの、桜の時期を外したせいもあり、ここで酒を呑んだことはなかったのだ。 一人手酌で呑みながら、彼は微かな笑みを口の端にのせる。 桜の見頃はほんの一時でしかない。今を逃せば次は翌年になるだろう。 残念ながら、今年の花見には間に合いそうもない。 尤もあの男は今も世界中を飛び回っている筈だ。世界の復興に於いて、ハンターの存在は重要な位置を占めていた。腕が立つならば尚のことである。 桜を愛でながら盃をさすには、いましばらく時間が必要だと思われた。 とはいえ、待つと言っても数年の話だろう。大した時間ではない。 この大樹は、あの災害を生き抜いたのだから。 宵闇に浮かぶ桜花を見やる彼に、背後から声が掛けられたのは、その時だった。 「トッシュ」 柔らかな声に彼の目が細められる。 声の主はいらえを待たずに歩み寄ると、特等席に座を占める彼の隣へ腰を下ろした。 そうして懐に抱えていた一升瓶を間に置いて、にっこりと人好きのする笑みを向けてくる。 「手土産持参だから文句は無し、でいいかな?」 「天下の勇者様が不良になったもんだよな」 くつくつ笑いながら、トッシュは手酌を繰り返していた酒瓶を差し出した。 応じる側も慣れたもので、いつの間にか用意していた猪口で酒を受けている。 「間違いなく仲間の影響だと思うよ」 涼しい顔で酒を飲み干した彼に、トッシュは破顔した。 「違えねえ」 笑みを残したまま猪口に酒を満たす。 一陣の風が枝を揺らし、零れた花びらを攫っていった。 「ここは変わらないな」 桜の大樹を見やり、アークが呟く。 そう頻繁に訪れるわけではないが、アークもこの桜には昔から馴染みがあったらしい。声音が懐古の念を帯びていた。 「確かにな。なかなかどうして、自然も人間もしぶといもんだ」 「ああ、本当だ。……だから安心できるんだな」 トッシュは人の営みを口にしたつもりだったが、アークはそう捉えなかったらしい。 どこか苦笑にも似た笑みを見せ、猪口へと視線を落とす。 そんな彼を横目に、トッシュは盃に残った酒を一息であおった。 酒精が身体に満ちてゆく。 視界に映る桜色に刹那の幻を感じたのは、宵闇の孕む気配のせいだろうか。 空になった盃に酒が注がれる。 心地良い水音を聴きながら、トッシュは口を開いていた。 「ここを出ようかと思ってな」 隣に座した青年――アークは一瞬動きを止めたが、盃が満たされると酒瓶を引いた。 「そうか。寂しくなるな」 いらえは短かった。声音にも驚いた様子がさほど感じられず、彼がトッシュの言葉を予期をしていたらしい事が察せられた。 前々から、区切りがつけば国を出ようと考えていたのだ。 村の復興に共に尽力して、半年が過ぎようとしている。 これは、世界に大きな傷を残した未曾有の災害が引き起こされてからの日数でもあった。 未曾有の災害――ある意味人災と言えなくもない悲劇である。 引き金となったのは心の虚を突かれたロマリア国王だが、この世界に住まう人々一人一人の心の裡に、闇を引き込む要素があった。それが世界を満たしていたはずの精霊の力を弱らせ、闇の力の復活へと荷担する結果となったのだ。 精霊の祝福を受け、その力を授かった勇者と聖母の存在は、闇を祓う大きな力足り得たが、それだけでは全ての終わりに訪れたのは世界の破滅だったろう。 過ちを正す勇気と信頼の心、そして託された希望が、奇跡を生んだ。 桜を見上げ、一献傾ける青年の姿を横目で見つつ、トッシュはそう思う。 実年齢を考えればまだ少年と言えなくもない彼は、十六の歳で既に成人と変わらぬ風格を身につけていた。背負った宿命が、そうさせたと言うべきだろうか。 旅の目的を果たし、今も故郷の復興に尽力するアークは、最早誰もが認める一人前の男だった。 村の誰からも頼りにされる、頼もしい存在だ。 「ここにはお前がいるからな。まず間違いはねえだろう」 日頃の村における彼の姿を思い描きつつトッシュがそう口にした途端、アークは少しばかり棘を含んだ視線を向けてきた。 そうして些か険のある声音を返してくる。 「……前々から気になってたんだが、父さんの事を言いふらしたのはトッシュだろう?」 思わずトッシュの口から笑いが零れた。 その様子に、アークは深い息をつく。 大災害を経て生き残った人々は、変わり果てた大地の惨状に嘆く力すら失っていた。 結局、残された土地に集う人間がそれぞれに肩を寄せ合い、少しずつ復興へと歩んでいく事になるのだが、この村が早くからその一歩を踏み出せたのは、アークの存在に拠るところが大きかった。 世界の崩壊を食い止めた少年は、亡くなったとばかり思われていたスメリア前王嫡男の息子であり、正統な王族の血を受け継いでいたのである。 希望は心の支えになる。 寄る辺をなくして生きていけるほど、人は強くはないのだ。 「住む場所も国そのものも無くしちまって、途方に暮れてた村のやつらをまとめたのはお前だぜ、アーク。そんなお前に村の面々が長になって欲しいと望むのは、当然っちゃあ当然の話だと思うがな」 「先に広められた父さんの出自が、嵩上げに一役買っているだろう」 皮肉の込められた言葉は、しかしながらトッシュに反省を促す程ではなかった。どこか楽しげに細められた瞳と唇の端に浮かぶ笑みがそれを物語っている。 元は異なる村と町であったトウヴィルとパレンシアだが、災害によって引き起こされた大地震は大きな地殻変動を伴い、小さな島国に多大な変化をもたらしたのである。 直後に人の居住できた土地は限られた範囲しかなく、生き残った人々はそこに集って暮らし始める事となった。 アークは村の復興の段取りをつけ、率先して力を尽くしていたが、それはあくまで村の一員として、手段を実現する力を持っていたが故の話である。 本人は村の重鎮に納まる事など毛頭考えていなかったが、この状況下に於いて、人々が放っておく筈がない。 人の上に立つことなど露ほども考えていなかったアークだが、自身の存在が復興の支えとなるならばと、周囲に押し切られる形で村の取り纏め役を引き受けることとなったのである。 仮に他の人間が村長として立った所で、村の中心人物たるアークの存在を気に掛けぬわけにはいかなかったろう。 頂点に複数の頭を戴く組織は、脆くなるものだ。 下町に居を構えていた者の中には、モンジ一家の若頭を張っていたトッシュを頼りにしている者もあったのだが、元来彼は裏の社会に生きる人間である。 一家でただ一人生き残ったトッシュはモンジの名に恥じぬよう、またアークを支える形で村の再建に尽力したが、表に立つ気はなかった。 今は村全体が一枚岩となって困難に立ち向かうべき時なのである。 だからこそ、アークが立つべきだと思ったのだ。 それだけの偉業を成し遂げ、リーダーシップを兼ね備えた人間が、この非常事態に隠居を決め込むなど罪悪にも等しいものであったろう。 ――何よりアークの今の立場は、彼個人が積み重ねた実績に対する正当な評価だと、トッシュは確信していたのだから。 盃を空けたトッシュは、横目で軽く笑う。 「まあ、静かな生活を望むお前にとっちゃあ、新たな責任を背負い込むのは重荷かもしれねえが、そこんところはリーダーの星の下に生まれついた不運とでも思っておくんだな」 「……随分勝手な話だな」 溜息混じりのアークが、内心では自身よりもトッシュに村のまとめ役を任せたいと願っていた事は、早い時期から察していた。 だからこそ先手を打ったのである。 一家を喪ったトッシュは、アークやポコと国へ戻ったその時、いずれ故郷を離れる事を心に決めていたが故に。 空いた猪口に酒を注ぐトッシュへ、アークは肩を竦めて苦笑を返す。 噂の出所を察したその時に、アークも理解したのだろう。 だからこそ、村長という大役を一度は辞退したものの、結局は引き受けることとなった。 そして今も尚、村の復興に全力を注いでいるのだ。 「ここにはお前がいるからな、安泰ってもんだ」 そう。この村には、この国にはアークがいる。 これまでアークを支える形で村の再建に力を貸していたのだが、それが目に見える形を結ぶようになった今、改めて、自分の足で今の世界を見ておきたいと、そう思ったのだ。 「まあ、そんなわけだ。ぶらりと行ってくるさ。お前の話は何処にいたって聞こえてくるだろうしな」 自分の腕が役立つ場所が残っているかも知れないと思ったのも、理由の一つ足り得るだろうか。 剣客一人の腕など、たかが知れている。自惚れが過ぎるかもしれない。 だが。 「落ち着いたら、知らせてくれよ」 応じるアークの声音には、強い信頼が込められていた。 トッシュ自身、村の外に求める場所があるという確証をつかんでいるわけではない。 しかし旅を決意した当人よりも、むしろアークの方がそれを確信している節があった。 何者にも揺らぐ事のない、真っ直ぐな眼差しが、トッシュを見つめている。 「いつになるかはわからねえけどな」 その視線をどこか面映ゆく感じながらも、見返すトッシュの表情はこれまでになく穏やかであり……。 アークは安心した様子で微笑んだ。 再び桜を見上げて猪口を傾けるアークを見やり、トッシュがふと意味深な笑みを浮かべる。 そして。 「お前はこうして落ち着いたんだ、さっさとガキこさえろよ」 「っ!?」 アークがむせた。 完全に不意打ちだったらしく、幾度も咳き込む羽目になる。なまじ酒を呑んでいたものだから、刺激は水や茶の比ではない。 くつくつと笑いながら、トッシュは手酌で盃を満たし、一気にあおった。 「やんちゃ坊主かお転婆娘か、何せ母親があのククルだからな、容易に想像がついちまう所だよなあ」 「トッシュ!」 苦しい息の下から、それでも抗議の声を上げるアークを楽しそうに見つめるトッシュの口元には人の悪い笑みが刻まれている。 アークは何とか息を落ち着かせたものの、咄嗟には効果的な反撃を思いつかなかったらしい。 ここは実年齢一回り以上の差を見せつけたといえるだろうか。 「その報せも楽しみにしてるぜ」 軽く盃を掲げてみせるトッシュへ、アークは言葉少なに応じた。 「……まあ、いずれは、かな」 これ以上は無粋というものである。 その後は深まる宵闇に浮かぶ桜を肴に、静かな酒宴が続いた。 盃を重ねていたトッシュが再び口を開いたのは、月が中空から桜花を照らし始めた後である。 「なあ、アーク」 その名を呼びつつ傍らの相手を見やる。 「何だ?」 応じる声に変化はない。 既にトッシュ愛用の酒瓶は空になり、アークが持参した一升瓶の中身も半分程減っていたが、酒にのまれている様子はなかった。 将来が楽しみだと思いつつ、振り向く彼を眩しそうに見ながら、トッシュは柔和な笑みを浮かべた。 「良かったぜ、本当によ」 こうして村にいることが。 ――あの戦いから、生還できたことが。 言葉にせずとも伝わったのだろう、アークもまた笑顔を返す。 「ああ。ありがとう、トッシュ」 満ち足りたその笑顔が全てを物語っていた。 一陣の風が吹き、桜の花が舞う。 桜花に誘われるようにトッシュは大樹を見上げた。 「何年か……そうだな、五年後、この桜を肴に皆で花見と洒落込むか」 言いつつ投げかけられた視線を受け、アークは嬉しそうに頷いた。 「ああ、それはいいな。楽しくなりそうだ」 そうして桜を見やり、一献傾ける。 隣で静かに呑むアークの姿に目を細め、トッシュは五年後の賑やかな宴を頭の中に思い描く。 世界の傷を癒しながら、共に歳を重ねられる喜びを噛みしめ、トッシュは盃を空けた。
──fin
(2007.04.10up) |
09 掴みそこねた者 (TOS・クラトス+ロイド) (クラトス過去ネタバレです) 不意に、クラトスは目を開いた。 視界に飛び込んできたのは、眠りに落ちる直前に見た薄暗い天井。 同時に昨日、船の移動で町へ辿り着き、多少の揉め事はあったものの、無事に宿を取ることができた経緯を思い出す。 窓から漏れる月明かりが朧気に室内を照らしていた。 夜空に浮かぶ月の位置は、眠る前に見たそれとほとんど変わっていない。 どうやら、さほど時間を置かずに目覚めたらしかった。 クラトスは視線を隣のベッドへと向ける。 同室の少年は深い眠りについているようだった。規則正しい寝息が聞こえてくる。 一度眠ってしまうと、朝を迎えるまでまず目を覚まさないのだ。 護衛役を買って出た者として褒められたことではないが、正式に雇われたのは傭兵と称したクラトスである。自身が共に旅する間は、構わぬ話だった。 むしろ旅で疲労した身体を休める方が重要である。 残した疲れが翌日に響けば、足を引っ張られかねないのだから。 ふと、クラトスの口元を笑みが掠める。 もっともらしい理屈を捏ねてみたものの、少年の熟睡は単に普段から眠りが深いだけの話だと思われたためだ。 ただ、今宵の深い眠りは、稽古疲れも手伝ってのことかもしれなかった。 旅を始めてからのロイドは未熟な腕を自覚していたらしく、いけ好かない相手である自分へ剣術の稽古を望んだのだ。 切り出したのはクラトスだったが、渡りに船と応じたのはロイドである。 出逢った当初は反感を抱いている事を隠しもしなかったものだが、それでも、いやそれ故に、卓越した剣術の腕に一目置いていたのだろう。 共に過ごす時間が増えたせいか、打ち解けてきたロイドは様々な表情を見せるようになった。 言葉を交わす時間も増え、彼の生い立ちにまつわる話もいくつか聞く機会を得たのである。 クラトスはしばしロイドの寝顔を見つめていたが、やがてベッドを降りると、眠る少年へと歩み寄った。 そのベッドに横座りになり、指先で額に触れる。 寝息に変化はない。 クラトスは手のひら全体でロイドの頭に触れ、髪を撫でた。 僅かでも変化があれば手を引くつもりだったが、その様子はない。 ──喪ったと思っていた。 聖堂の前で現れた少年の名を聞いた時、よくも驚愕が表情に出なかったものだ、と思う。 名前だけで、明瞭な確信を抱けなかったせいもあったとはいえ。 十数年前、その場で寄せ集めた木ぎれを標として建てたはずの妻の墓標が、石造りのそれに整えられていた事をこの目で見た時、確信に至ったのである。 まさか、再会が叶うとは。 懸命に両手を伸ばしても腰にも届かなかった幼子が、今は肩を並べるほどに成長し、剣を振るっている。 大切なものを、守るために。 ロイドの髪を梳くクラトスの手が、止まった。 安らかな寝顔は、心地良い眠りを暗示しているのだろう。日中の活動は睡眠を求める。 今はまだ、こうして心穏やかに眠ることができるのだ。 これから封印を解き、神子の変化を目の当たりにした時、果たしてこの少年は安眠を得られるのだろうか。 世界再生と神子の命。この二つは決して相容れないものである。 二者択一を求められた時、ロイドはどちらを選ぶのか。 「……喪くした生命は戻らぬぞ、ロイド」 呟きは少年の耳を素通りする。 届くわけがない。今、彼の意識は眠りの中にあるのだから。 だが、届かぬと知って尚、言葉にせずにはいられなかった。 「一度選んだ道を引き返す事など、出来はしないのだ」 後悔した所で、喪ったものは還ってこない。 十数年前に自らも経験した、揺るぎない事実である。 クラトスはおもむろに立ち上がり、眠る少年を見下ろした。 ──お前は、間違えるな……。
──fin
(2007.03.01up) |
10 聖典の辟易 (TOS・ゼロセレ幼少期) 「お兄様!」 頬を上気させた幼い少女が、彼に駆け寄ると同時に抱きついた。 「おいおいセレス、淑女のする事じゃねーぞ?」 窘めるゼロスの声には、しかし笑みが含まれている。 セレスは慌てて身を離すと、頭を下げた。 「ご、ごめんなさい、お兄様。でもいらして下ったのが嬉しくて……」 ゼロスは片膝をつくと、恥ずかしさに頬を染める少女の顔を覗き込んだ。 そうして笑顔を浮かべてみせる。 「俺も会えて嬉しいよ、セレス。体調はどうだ?」 「今日は大丈夫です。お兄様が来て下さったんですもの、寝込んでなんていられませんわ」 「そいつは良かった」 はにかむ少女が愛おしくてたまらなかった。 修道院の外の世界を知る術を持たぬ腹違いの妹に事実を伝えることなく、ただ純粋に兄を慕う少女を愛でていた。 知らぬ方が幸せな事もあると心の中で言い訳を繰り返していたのは、果たして彼女のためだったのか、それとも自分の為だったのか。 いずれ知ってしまうであろう真実を、ただひた隠しにしていた理由は。 幾度目の訪問だったろうか。まだ両手の指で足りる程の回数だったはずだ。 ゼロスの来訪を受けて、セレスが彼の前に現れた時、夢から覚めたと悟った。 必要以上にゆっくりとした足取りは、これまでの彼女からすれば考えられないものであり、どこか強張った表情とやや青ざめた顔色は、これまで知り得なかった何事かを知ったのであろうと容易に想像ができたのである。 「神子さまは母が処刑されたことをご存知でしたのね」 初対面の折、セレスが彼を兄と呼んで以来、ゼロスは彼女に自分を神子とは呼ぶなと言い含めた。 この肩書きによって失った物があまりに多すぎた故に。 セレスは聡い娘である。彼の言葉に何かを察したのだろう、以降は二度とその肩書きを口にはしなかった。――これまでは。 淡々とした少女の口調に、ゼロスはあっさり首肯した。 「……まあな。何せ俺を殺そうとして捕まったわけだし」 「母は私を神子にしたいと、そう考えていたのですね」 淡々と続けられる声は密やかだが、むしろその静寂は彼女が心に抱く深く大きな感情を押し殺したが故であろうと思われた。 頼りなげな風貌を支えてやりたいと思う反面、既にその資格を失っている事をゼロスは直感する。 だからこそ、ただ彼女の言葉に同意した。 「だろうな」 「でも、私は神子にはなれませんわ。だって現にこうして神子さまがいらっしゃるもの」 「…………」 亀裂の走る音は、破壊の不吉な前兆だった。 「お父様がそうお望みになっても、母が命を賭して望んだとしても、叶えられるはずがありませんのに」 ゼロスの瞳が鋭い光を帯びた。 名ばかりの父親は、彼にとって神子の肩書き以上に嫌悪の対象なのだと、それを知った上での発言だと察したが故に。 「神子さま」 「……なんだ?」 「もう二度とこちらへは足をお運びにならない方がよろしいかと存じますわ」 毅然とした拒絶を見せた少女へ、憎しみに似た感情が湧き上がる。 しかし同時に、彼女を美しいと思った。 凛とした強さが、あどけない少女にこれまでに見られなかった彩りを添えていたのである。 「……そうだな、お互いの為にもその方が良さそうだ」 踵を返したゼロスは足を止め、振り向きざまに小さな珠を少女に投げた。 しかし、距離が届かず珠は彼女の足下に転がった。セレスはそれを意外そうに見つめる。 「そいつはクルシスの輝石っつってな、神子の象徴だよ。預けるわ」 「どういうおつもりですか?」 「気まぐれって奴?……必要になれば取りに来るさ」 一瞬、セレスが怒りに頬を染めた。 その表情を見届け、ゼロスは扉に向かうと片手を振って見せる。 「じゃあな、セレス」 いらえのないまま、ゼロスは部屋を出て行った。 部屋を離れながらも扉の向こうの少女の足音へ神経を集中させていたのだが、建物から外に出るまでの間、それが彼の耳に届くことはなかったのである。 そういえば、と思う。 トクナガは執事としてセレスと共に修道院にいたのだが、幽閉されている彼女とは異なり、外界の状況をある程度は把握していたはずである。 何故、母親が処刑された事実を、彼はその後もセレスに伝えなかったのか。 ゼロスの訪問を受け入れ、セレスと過ごす時間をただ見守っていたのだろう。 無表情にゼロスを迎え入れ送り出すトクナガからは、その真意は伺えない。 ただ、セレスへの忠義に篤いことだけはわかるのだが。 もう決して見ることの出来ないであろう明るい笑顔。 それでも尚、会いたいと思わずにはいられないのだから不思議なものだ。 外界と遮断された世界の中、他に訪れる者のいないこの修道院を訪れるのは、母親の仇でしかない腹違いの兄のみである。 神託を覆すことが出来るならば。 神子という肩書きなど、いっそ捨ててしまうことが出来たなら。 ――あの男も、どれほどにそれを渇望したことだろう。 神託によって引き裂かれた男女の愛娘たる少女と、得られるはずの無かった生を与えられた自分自身と。 世の不条理を嘆くに相応しいのはどちらだろうか。 「……らしくないこった、俺さまともあろう者が」 嘲りというには鋭い笑みが唇の端に浮かぶ。 そうして過去の思い出から立ち返ったゼロスは、形作る笑みを軽薄なそれにすりかえ、自室を後にした。
──fin
(2006.10.22up) |