想いの絆






 ――『気配』を感じた。

 深く暗い闇。底知れぬ力。圧倒的な力は、人間を恐怖させ、たやすく絶望を抱かせる。
 どこまでも続くかと思える、果てしない闇に押しつぶされてしまいそうな錯覚を感じ、身体が震えた。
「アーク?」
 仲間の声に、アークは我に返った。
 一瞬の幻のような感覚が去り、同時に今自分の在る場所を理解する。
 ここは、シルバーノアの倉庫。
 次の目的地ミルマーナへ向かうべく、準備を整えている最中だった。アークはポコと共に物資のチェックに来ていたのである。
 アークが傍らへ視線を向けると、ポコが心配そうな眼差しで彼を見上げていた。
 軽く頭を振ったアークは、彼を安心させるように笑いかける。
「大丈夫。少しぼんやりしてたみたいだ。さっさと片づけようか」
 その場を言い繕ったものの、アークは心の片隅で一抹の不安を感じていた。しかし、あえてそれに目を閉じたまま、ポコと共に仕事を始める。
 手際よく倉庫の物資の確認をすませ、前回と比較してどれだけの物資を消費しているのかもチェックする。
 少し時間がかかったものの、無事仕事を終えると、ポコは物資の内容を記したメモを片手に、一足先に倉庫を出ていった。
 アークもポコの後に続こうとしたのだが、いつしか歩みを止めてしまう。
 先程の『気配』が頭から離れなかった。
 ──あの感覚は、一体…?
「おぬしも感じたかの」
 文字通り、突然降ってきた声に、アークは天井を見上げた。
 愛用の杖に座り、空を浮いていたゴーゲンの姿が視界に映る。
 一見ひょうきんな格好だが、真っ白い眉に覆われた瞳に宿る真剣な光を捉え、アークは鋭い声で問うた。
「何か知ってるのか、ゴーゲン」
 ゴーゲンはふわりと床に降りた。そして、白く豊かな顎髭をなでつつアークを見上げる。
「おそらく勇者の力じゃろう。トゥヴィルに封印されておる闇の力のうねりを感じ取ったんじゃ。近づけばワシにもわかるがの、これだけ離れておると、感知するのはちと難しい」
 不意に、アークはゴーゲンの肩をつかんだ。その表情は、青ざめ、こわばっている。
「ククルは…ククルは無事なのか!?」
「落ち着くんじゃ、アーク」
「今のあれがそうなら、ククルは…」
 ここ数ヶ月でとみにリーダーらしく振る舞うようになっていたアークだったが、ククルの身を案じる今の彼に、その落ち着きは見られない。
 血相を変えた少年に、ゴーゲンはまず事実を伝えた。
「大丈夫じゃ、封印は破られておらん」
 普段よりもやや低い、物事を言い聞かせるようなゴーゲンの声音に、アークの腕からやや力が抜ける。
「…そう、か…」
 アークは小さく息をつき、次いで疑問を口にした。
「だけど、『闇の力のうねり』ってどういう意味なんだ?封印しているはずのものが、何故?」
「封印は一時しのぎにすぎんからじゃよ」
 もともと、闇の力は聖柩に封じられていたものなのだ。聖柩の中にあってこそ、初めて安定させることができる。
 しかし、今、神殿における封印は仮のもの…一時的なものでしかない。
「外へ向かう闇の力は強大じゃ。聖柩によらぬ封印ではどうしても綻びが生まれる。その綻びから闇の波動が感じられることがあるんじゃよ。…じゃが、これに気づくのは相当に魔力のある者の一部、そして聖母の力を受け継いだククル自身と勇者の力を継いだアーク、おまえさんじゃろうな」
「…ククルは…こんな脅威を、いつも…感じているのか…?」
 ゴーゲンは頷いた。
「残念じゃが、こればかりは誰にも肩代わりする事ができん」
「………」
 アークは唇をかみしめた。
 そのまま動かなくなった少年を残して、ゴーゲンはその場を離れた。
 いつのまにか箒に乗っていた老魔法使いは、のほほんとした様子である。廊下を進み、いくつかの角を曲がり、たどり着いたのは操舵室だった。
「邪魔するぞい」
 箒に揺られつつゴーゲンが扉をくぐる。
 舵を取っていたチョンガラと周囲の計器をチェックしていたチョピン、二人が同時に戸口に目をやった。
「おう、なんじゃい、珍しい。ワシの操舵の腕が見たくなったんかのう?」
 上機嫌のチョンガラに、ゴーゲンがのんきな笑い声を上げる。
「ほっほっほ。ずいぶん板についてきたもんじゃ。それではチョンガラ艦長に、腕を見せてもらうとするかのぅ」
 チョンガラが眉を上げる。仲間の意外そうな仕種を見やり、ゴーゲンは顎髭をなでた。
「トゥヴィルまで向かってくれんかの」
「トゥヴィルじゃと?」
「しかし、我々はこれからミルマーナに向かうはずでは…」
 二人から口々に声が上がったが、ゴーゲンは泰然としている。
 チョンガラはにやりと笑った。
「よっしゃ、たまには寄り道もええじゃろう」
「ですが、チョンガラさん」
「艦長じゃい」
 この一言でチョピンを黙らせ、チョンガラはくわえていたパイプを右手に持ち、白い煙を吐いた。そして、茶目っ気のある表情を二人に見せる。
「今トゥヴィルに向かう必要があるんじゃろ。ミルマーナは逃げやせん。せっかくの機会じゃ、ゆっくりシルバーノアを見てやって、万全の体勢で臨んでやるわい」
 チョピンはチョンガラとゴーゲンの顔を見比べ、小さく溜息をついた。
「わかりました、整備の準備をしておきますよ」
「すまんのぅ、チョピン」
 言葉とは正反対に、ゴーゲンは飄々としていたが、チョピンは肩をすくめて笑みを見せた。
「まぁ、たまにはガス抜きも必要でしょう。他の皆さんも喜びますよ、きっと」
 チョピンもまた彼らとの付き合いは長い。何せ、アークがスメリア国王よりシルバーノアを借り受けてから、常にこの飛空挺で彼らのサポートをこなしているのだ。アークたちと共にあるがゆえに、彼らを気遣う思いも強い。
 そして、艦長の発言で決定した進路へ向け、シルバーノアは大空を飛翔した。


 ククルは自室のベッドに腰掛けたまま、目を閉じると、深く息をついた。
 そっと、胸に手を当てる。
 激しかった動悸も収まったようだった。鼓動は普段より少し強く感じられるし、やや脈も早い気がするが、ずいぶん落ち着いた方だろう。
 自分の心が平静を取り戻したことを確認した上で、ククルはやっと封印の間のある方角を見やった。
 ――今のは、何だったんだろう。
 封印の間にいた時、不意にそれが起こったのだ。
 封印を破らんとする闇の波動。突如口を開いたかに見えた闇と、その中に感じた底知れぬ恐怖。
 ぞくり、と背筋を悪寒が走り抜け、ククルは両手で自身の身体を抱きしめた。
 封印が破られたかと錯覚するほどの、波動だった。
 封印自体が弱まったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
 だが、今は大丈夫。そう、確信できる。
 ククルは深く息を吸い込むと、立ち上がった。
 いつまでもここでじっとしているわけにはいかないのだ。
 ククルはそっと右袖に視線を落とす。そして、袂の膨らみを握りしめた。
 ――大丈夫。
 半ば自分自身に言い聞かせるようにして、部屋を出る。
 まず封印の状態をこの目で確認すること。それから…。
 なすべき事を頭に思い描きつつ、封印の間へ一歩を踏み入れた、その時。
「ククル!!」
 彼女の動きが止まった。
 ゆっくりと…いや、どこかおそるおそるという様子で、時間をかけて背後を振り向く。
 肩で息をしながら、神殿の入り口に立っていたのは…。
「…アーク」
 久しく呼ぶことのかなわなかった名前を、ククルがそっと紡ぎ出す。
 別れた時よりも、幾分背が伸びていた。一年後の彼よりまだ幼さが残る顔立ちではあったが、ククルの見ていたアークの、共に旅をしていた時よりも、大人びた姿だ。
 その名を呼んだククルの声に応じるように、アークが動いた。
 一歩を踏み出す。
 直後、駆け出した彼は、現状を把握できずに立ちつくしていたククルに近づくと、その身体を抱きしめたのである。
「…アーク…?」
 彼が何故ここにいるのか、解らない。
 けれども、ここで彼女を抱きしめているアークが幻でも錯覚でもない、本物の彼である事だけははっきりしていた。
 一人トゥヴィルに残されたあの時にやってきた、未来のアークではない。今この時を共に生きている、彼だ。
 ふと、アークの肩から力が抜けた。ククルの肩に頭を預け、アークは深い息をつく。
「…無事で、よかった…」
 心から安堵したらしい彼の声に、ククルはようやく理解した。
 アークが戻ってきた理由。それは……。
 少しだけ、彼に身体を預けて、目を閉じる。
 あれほど怖ろしかった闇への恐怖が、ゆっくりとやわらいでゆくのが解った。
 ――あの時も、そうだった。
 聖柩への道を開く前、封印を解くべく向かった精霊の山の山道で。
 なすべき役目とアークへの想いに気持ちが激しく揺れてしまった時。
 あの時も、アークはそばにいてくれたのだ。大丈夫なのだと、教えてくれた。
 ……だからこそ、今、ここにいられるのだと、改めて感じる。
「ありがとう、アーク」
 自然と彼女の口をついて出た言葉に、ククルを抱きしめていたアークの手が、一瞬震えた。
「ククル…」
 ククルが顔を上げる。そして、目線を上げて彼を見た。
 別れた時にはほとんど変わらなかったのに、今では頭半分ほどアークの背が伸びていたのだ。
「アークは私が不安になった時、いつも側にいてくれるのよ。だから、私も頑張ることができるんだって…改めて、わかったの」
 ――おそらく、彼も感じたのだろう。あの闇の波動を。
 そして、シルバーノアで戻ってきたのだ。ククルの身を案じるその一心で。
 それが、嬉しい。
「アークがいてくれるから…アークは私に力をくれるから。…ありがとう」
 気持ちを言葉に乗せて、ククルは微笑んだ。


 ――神殿で、今の彼女を見た時、足が止まった。


 いつも結わえていた髪をおろして、見たことのない衣装に身を包み、ひどく落ち着いた物腰で振り向いた、彼女。
 けれど、その声が自分の名を呼んだ時、思わず駆け寄り、その身体を抱きしめていた。
 ククルのぬくもりを感じて、ようやく安心することができたのだ。
 そして、腕の中で彼女が紡いだ言葉。
「アークがいてくれるから…アークは私に力をくれるから。…ありがとう」
 そっと微笑んだククルは、ひどく大人びていて。
 何故か、触れているはずの彼女が消えてしまうような錯覚を感じ、アークは再び彼女を抱きしめる。
「…アーク…?」
 それが、ひどく強い力だったせいか、あるいはアークの行動が予想外だったせいだろうか。ククルの声には戸惑う響きがあった。
「…闇の力のうねりを感じたんだ。…あの巨大な力がククルを飲み込んだ気がした…」
 一瞬、アークの腕の中でククルの身体がこわばった。
 けれども、すぐに彼から身を離すと、ククルは凛とした眼差しでアークの瞳を見つめた。
「闇の力のうねりって、どういうこと?」
 緊張した声で問うククルに、アークは先程ゴーゲンから聞いた封印の結界について説明する。
「…そうだったの」
 話を聞いたククルは、納得した様子で頷いた。そして、肩の力を抜く。
「正直驚いたわ。結界が破れたのかと思ったのよ。何がどうなったのかがわからなくて不安だったんだけど、そういうことなら大丈夫。私がしっかり見張っていればいいんだものね」
「ククル…」
「大丈夫よ、アーク」
 アークが俯く。そして、吐息と共に心の裡を呟いた。
「ついさっき、ここでククルの姿を見るまで、不安でたまらなかったんだ。君に何かあったら…そのことしか頭になかった…」
 アークが言葉を切った。
 ククルは、アークを見つめている。……次の言葉を待ちながら。
 やがて、アークは頭を振った。
「ごめん、俺がこんなことじゃいけないってわかってるんだ。だけど…」
 口ごもるアークに、ククルがそっと微笑む。
「ううん、ありがとう。嬉しいわ。そんなふうに思ってくれているアークの気持ちが、嬉しい」
「ククル…」
 アークの手がククルの頬を滑り、その髪に触れた。
 自然と流したままの髪を指で梳きながら、アークはどこか眩しそうに彼女を見つめる。
「髪型、変えたんだな」
 ククルは小さく笑った。
「ええ」
「なんだか、見違えた気がする。すごく落ち着いた感じだよ」
「あら、まるで前は全然落ち着いてなかったように聞こえるけど?」
 混ぜっ返すククルに、アークはつい笑みを漏らした。
「実際そうだったじゃないか。戦闘の時なんてトッシュと一緒に真っ先に飛び出していくんだ、心配する方の身にもなってほしいな」
 ククルがくすりと笑う。そして、小首を傾げた。
「見違えたっていうのはこの衣装のせいじゃない?かなり雰囲気が違うでしょ」
 アークは改めてククルを見た。
「ああ…そうだ、多分」
 本当は、それだけだとは思わなかったが、アークは頷く。
「これね、ワイト家の神官としての正装なのよ」
 ククルの言葉に、アークは目を丸くした。ワイトの風習が嫌だと何度も話していた彼女の口からこんな言葉を聞くとは思いもしなかったのだ。
 その様子から彼の言わんとしたことを悟ったのだろう、ククルは言葉を継いだ。
「今も、あの風習を受け入れるつもりはないわ。ただね、本来のワイト家の伝承は、違うところにあったと思うのよ。神官としての装束は、毎年繰り返す形骸化した儀式のためにあるんじゃないはずだもの」
「ククル」
「だから、これは私の戦う意志。運命に従うんじゃない、運命を切り拓くために、私が選んだ道なのよ」
 ――見違えたのは、身にまとう哀愁のためだけではない。
 シルバーノアがトゥヴィルを離れたあの時、アークの目に焼きついていたのは、とり残されたククルの寂しげな…切ない光を宿した瞳だった。
 あの瞳が忘れられなかった。彼女を思い出すたび、真っ先に浮かんだのはその表情だったのだ。
 だが…。
 アークは微笑んだ。
「ククルは強いな」
 すぐに揺れてしまう自分はまだまだだと、そう思ったのだが、彼の言葉を耳にした途端、ククルは俯いた。
「ククル?」
 表情が見えなくなった彼女へ、アークが呼びかける。
 やがて、ひどく小さな声が聞こえてきた。
「…ごめん、アーク。私…」
 ――その言葉で、理解した。
 アークは、彼女へと手を伸ばす。そして、こわばっていたククルの身体を包み込むように、優しく抱きしめた。
「――ごめん」
 ただひとり、この神殿に残されて。彼女自身が戦う道を選んだとはいえ、恐怖を抱かないはずがない。
 孤独はひっそりと、確実に人の心を蝕む力を持つ。
 いくら気丈に振る舞っていても、本当に平気であるわけがないのだ。
 孤独を、恐怖を押し隠そうとしていた彼女を腕に、アークはククルの心を想う。
 二人の周囲で、静かに時間が流れていく。
 やがて、少しずつククルの肩から力が抜けていった。
「…ううん、私こそごめん。心配かけたくなかったのに」
 彼女の言葉に、心の片隅で痛みが生まれる。
 違うのだ。自分が望んでいるのは、そんな言葉はではない。
 もっと……。
「ククル」
 腕の中の少女の名を呼び、アークはわずかに身を離すと、彼女の顔を覗き込むようにして、その瞳を見つめた。
「俺の前では、無理しないでくれ」
 ククルがわずかに目を見開く。
「アーク…」
「せめて、ここに戻っている間は…君をそばで支えたいんだ。君の心が感じたものをそのまま聞かせて欲しい。俺も、自分の気持ちを隠したりしないから」
 彼女の瞳に映るのは、真剣な眼差しで語りかけているアーク自身の姿。
 やがて、ククルはふわりと微笑んだ。
「…ありがとう。ね、アーク」
「何?」
 ククルはアークの胸に、そっと頭をもたせかける。
「あなたがいてくれるから…強くなれるの。他の誰でもない、あなたがいるから」
 アークはそっとククルを抱きしめる。
「俺もだ」
 腕の中に彼女のぬくもりを感じながら、アークは素直な気持ちを紡ぎだす。
「ククルがいるから俺も戦える。…君がいてくれるから…」
 大切な少女を腕に、アークは目を閉じた。
 ……今、この瞬間だけは。彼女の心が安らいでくれることを、望みながら…。


──fin



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<あとがき>
 久しぶりのアーク小説です。「1」のエンディングの数ヶ月…3,4ヶ月後、というイメージで書きました。
 実はこの話、端々に今まで書いた話の内容を織り交ぜています。これまで書いた話を少しずつ積み重ねながら、うちのアーククルのストーリーを書きたいという気持ちがありまして。時間軸は前後していますが、自分なりの二人を、アークの世界をこれからも書いていきたいと思っています。
 ところでこの話。書き上げるまで思った以上に時間がかかってしまいました。大筋は割と前から考えていたんですけど、前半と後半を繋げてまとめるまでが難航したんです。…正直言うと先月の終わり頃にアップしたかったんですが、その時は形としてまとまっていなくって。
 1ヶ月遅れになりましたけど、お誕生日おめでとう、ククルv