想いのしずく




 穏やかな日常の繰り返し。静かで平和な日々。
 そんな毎日がこのまま続くのではないかと、いつの間にか錯覚していたのかもしれない。
 突如ラハン村に現れたギア。戦闘に巻き込まれ、火の海となった家々。
 その悪夢を担う羽目となったフェイ。
 ──これが、あの人の怖れていたこと…なのね…。
『ユイ、ここから動かないで下さい。ミドリを頼みます』
 夫の緊張した声を耳にするのは、久しくなかったことだ。
 そして、それは同時にラハン村での平和な日々の終わりを意味していた。
『気をつけて』
『ええ』
 短いやりとりの後、シタンが家を飛び出してから、いくばくかの時間が経過した。
 ミドリはベッドに腰掛けるユイの傍らで座り込み、母親のスカートを握り締めたまま、じっとしている。
 不安におののく小さな娘の背をなでながら、ユイは窓の外を見やった。
 暗闇の中に、かすかに赤い影が散る。不安をかきたてる光景を見つめつつ、彼女は近いけれども遠く離れた夫の身を案じていた。


 翌朝、フェイがラハン村を追われるように出て行くと、村人達の間には言い知れぬ倦怠感が漂った。
 騒動が収まってから、シタンは休む間もなく怪我をした人々の手当てを続けている。
 ユイは一旦戻ってきたシタンに頼まれ、村で炊き出しをしていた。
 炊き出しには、かろうじて焼け残った建物を使わせてもらっている。シタン家は無事だったが、村から山頂までの往復には無理があるのだ。
 ユイのもとへようやくシタンが顔を見せたのは、そろそろ日が中天に昇ろうかという時間だった。
「あら、あなた。治療は終わったの?」
「ええ。何とか一通り診ました。深刻な怪我人がいなかったのは幸いでしたね」
 今回の事件では、村人の多くが負傷していた。そして、十数名の死者も出た。
 平和に暮らしてきた村人にとって、昨夜の出来事は大きな衝撃となっているはずだ。犠牲者の身内ならば、その心痛や悲しみもはかりしれないはずである。
 シタンは椅子に腰を下ろした。その口から、溜息が漏れる。
「どうぞ」
 声と共に湯気の立つ皿を差し出され、シタンが妻を仰ぎ見た。
 ユイは微笑みを返す。
「疲れたでしょう。暖かいうちに召し上がれ」
「…ありがとう」
 皿を受け取り、シタンは礼を言った。盛られたシチューを口に運ぶ。
「ミドリは?」
「外よ。さっきまで一緒に食事を配っていたんだけど。ダンの様子を見ているんじゃないかしら」
「そうですか…」
 ダンの姉アルルは、婚約者のティモシーと共に昨日の事件で帰らぬ人となった。ダン自身は以前からフェイを慕っていたので、その彼が姉を殺したという事実に、気持ちの整理がつけられないのだろう。
 ミドリは無口な娘だが、人の心をいたむ気持ちを知っている。相手を気遣うやさしい心を持っている。今回の件がショックでないはずはないが、一夜明けた今日は進んでユイを手伝っていた。
 少し時間をかけて、シタンはシチューを食べ終えた。空になった皿を手にしたまま、妻の名を呼ぶ。
「ユイ」
 彼女が振り向くと、シタンは静かに続けた。
「村の人々を連れて、シェバトに行って下さい」
 予測していた言葉だった。にも関わらず、ユイは即答できなかった。無言で夫を見つめる。
 シタンは立ち上がり、ユイの傍らに歩み寄って、テーブルの上に皿をのせた。
「ヴェルトールの一件はすぐにキスレブ本国に伝わるでしょう。いえ、既に後続部隊が動き出している可能性もあります。それに…」
 シタンは言いよどんだが、すぐに言葉を付け加えた。
「この一件にはソラリスが関わっています。一刻も早くこの地を離れなくては、ラハンの村人全てが犠牲にならないとも限りません」
「動けない人はいないのね?」
「ええ。皆多少の距離ならば歩けます。ただ疲労がかなり激しいので…」
「村の真上は無理だけれど、少し離れた所まで行く事ができれば大丈夫よ」
「では、すぐに連絡をお願いします」
「ええ。あなたは?」
 シタンがこの後どう行動するのかはわかっている。けれど、ユイは夫の口からその内容を聞きたかった。
「…ヴェルトールを運んでフェイを追います。ですから私もそろそろ用意を始めなくてはいけませんね」
 ユイは、自分に向けられているシタンの鳶色の瞳を静かに見つめた。
「気をつけてね」
「……」
 小さく笑みを浮かべ、ユイは炊き出しをしていた鍋の後始末をするべく、彼に背を向ける。
 その時。
 背後から、ユイはシタンに抱きすくめられた。
「あなた?」
 ユイは振り向いて夫の顔を見ようとした。だがシタンはややうつむいており、表情が伺えない。
 ユイは、自分を抱き締めるシタンの腕に、両手でそっと触れてみた。
「私、あなたと一緒になったことを後悔していないわ」
 ユイを抱く腕がかすかに動く。
「出会いは特殊だったかもしれない。あなたを好きになった自分の気持ちを知った時は、ただ驚くばかりだったけれど。…ねぇ、あなたが結婚を口にした時のおじいさまの言葉を覚えているかしら?」
「…決して、たやすい道のりではない、と言われましたね」
「でも、あの時2人で言ったわね。それも覚悟の上だって」
「あなたは…生涯私についてゆく、と言ってくれたんですよ」
 シタンはうつむいていた顔を上げて、改めて妻を見た。
 ユイもまた、澄んだ胡桃色の瞳をシタンに向ける。
 彼は苦笑した。
「本当は、励ますつもりだったんですが」
「わかってます。だって、ちゃんと励ましてもらったもの」
「…あなたにはかないませんよ、ユイ」
 シタンが最愛の女性にそっと口づける。…そして。
「シェバトで待っていて下さい。必ず、帰ります。あなたとミドリの元へ」
 今までどこか遠慮がちだったシタンの声に明瞭なものを感じ取り、ユイは安堵の笑みを返すことができた。
「ええ、待っています。…気をつけてね、あなた」


 小さな娘の手を引きながら、ユイは村人達と共にラハン村から少し離れた平地に佇んでいた。
 もう一方の手には、二振りの刀を抱えている。
 既にシェバトへの連絡は済ませていた。合流ポイントは今立っている地点だ。程なく、地平を覆うばかりの巨大な飛空物が見えてくるはずである。
 あの後、ユイは村人たちに状況を簡単に説明した。とはいえ、すぐに理解できることではない。とにかくこの地に残るのは危険であるということと、安全な場所へ全員を誘導することを話した。
 シタンはミドリに別れを告げて、一旦自宅に戻った。おそらく、以前からいじっていた庭の機械を使ってギアを運ぶつもりなのだろう。
 村人にこれ以上不安を抱かせぬよう、シタンがギアに触れる前に、ユイは皆を引き連れて村を離れることにした。
 ユイの聴覚が懐かしいシェバトの飛空音を捉える。その数瞬後、村人の間にざわめきが走った。
 大きな影がゆっくりと近づいてくる。
 ミドリがユイの手を強く握り締めた。
 娘の手を包み込むように握り返して、ユイはミドリに微笑みかける。
 ──あの人も、この音を聞いているかしら…。
 二振りの刀を持つ手に力を込め、ユイは夫を想う。

『これを、あなたに預かっていただきたいんです』
 剣技を封じると誓った時、シタン──ヒュウガより預かった二振りの刀。
 彼がその卓越した剣技を修得した際に、祖父より譲り受けたというものだ。
『私に、ですか?』
 突然の申し出に、戸惑いを隠せないままユイが訊き返す。
 ヒュウガは真剣な眼差しを彼女に向けていた。
『ええ。お願いできますか?』
 その言葉の意味を理解した時、ユイはこの二振りの刀を胸に抱き締めたのだ。微笑みと共に。
『私でよろしければ』
『あなたでなくては意味がないんです』
『では、喜んでお預かりします』
 ユイの言葉に、ヒュウガはえも言われぬ優しい表情を見せた。
『…ありがとう、ユイ』
 
 あの時は、生まれ育った故郷シェバトを離れるなど夢にも思わなかったけれど。
 ユイは村の方角を見やった。
「待っています、あなた」
 見えぬ夫に小さく呟いて、ユイは近づくシェバトをゆっくりと見上げた。

──Fin



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<あとがき>
 このラハン村でのイベント後からシェバトで再会するまで、シタン先生とユイさんは離れ離れになります。ユイさんは全てを知った上でラハン村で生活していたということですので、いずれ夫と別れる状況が訪れることはわかっていたのでしょう。ただ、それでも突然の別れに対する不安があったのでは、と思いました。
 二振りの刀は「白檀」と「黒檀」、ヒュウガが剣技を封じた時に彼女に預けたものです。(でもシェバトで返した刀の名前が違ったのが未だに疑問なんですが(汗))
 前にも書きましたが、今度はヒュウガとユイさんの話も書いてみたいですね〜。
 …書いてから気づいたんですが、この話、トライガンの「This Night」とダブっているような…(汗)。