St.Valentine's Day がっしゃん。 派手な音と共に、床に陶器の破片が飛び散った。 皿を落とした途端に思わず目を閉じたたしぎは、恐る恐る目を開いて、足元の惨状を確認する。 そして、ややうなだれた様子で、厨房の片隅から箒と塵取りを出した。 床を掃いて散乱した破片を集め始めたものの、元が大きめの皿だったので、すぐには終わらない。 夕食後、後片づけの最中だったのが不幸中の幸いだろうか。 掃除をしながら、たしぎは溜息をついた。 昼過ぎの買い物の事を思い出す。 彼女は大抵この時間に夕食の材料を買いに行くのだが、今日は珍しく余分なものを買ってしまったのだ。 今日は2月14日。いわゆるバレンタインデーである。 もともとの意味合いは違う所にあったらしいが、いつしかこの日は『女性が好意を抱く相手にチョコレートを贈ることで、愛の告白に代える』という風習ができあがっていた。 しかし、たしぎはこれまでそういったことには全く興味がなかった。感謝の気持ちという意味で、職場の上司や同僚たちへ義理チョコを贈る程度である。 ……要するに、好きな人にチョコレートを贈ることが無かったのだ。 バレンタインデー当日ともなればチョコレート売り場も縮小しているかと思いきや、店側は最終日の売り上げを当て込んでいたらしく、そのコーナーはまだ綺麗に飾られていた。色とりどりに包装された沢山のチョコレートが所狭しと並べられている。 普段なら、そんなディスプレイもどこ吹く風で通り過ぎるたしぎだが、珍しく、その足を止めるものがあったのだ。 棚の一角に飾られていた、五つ入りのチョコレート。小さなボトルの形をしたそれらは、ウイスキーボンボンだった。 甘いものが苦手でも、酒好きなら食べてくれるかもしれない、と思ったのは事実である。 …だが。 たしぎは肩を落とし、集めた陶器の破片を厚手のビニール袋に片づけた。 傍目には皿を割ってしょげ返っているようにしか見えないのだが、その憂鬱の原因は全く違う場所にある。 |
……どうして、あんなものを買っちゃったんだろう…。 今更、という気がするのだ。 一緒に暮らし始めて一年には満たないものの、傍らにいることが当たり前になる程には時間を共有している。たしぎは生来のそそっかしい性格と不器用さのため、そつなく家事をこなすというわけには行かないが、それでもずいぶん慣れてきた方だろう。…というのは、余談である。 ともかく、バレンタインデーだからといって、わざわざ贈るものでもないように思うのだ。 大体、好きでもないものを貰ったところで、持て余すのは目に見えている。 ――しかし、理性と感情は相反するもの。 それはたしぎにとっても例外ではなかったらしい。 色々考えていたにも関わらず、つい、買ってしまったのだ。 ちなみにたしぎは洋酒があまり好きではない。口当たりのいいワインやカクテルはたまに飲むが、ウイスキーやウォッカなどまず口にすることがないし、チョコレートに入っていても欲しいとは思わない。 贈らないなら自分で食べてしまうのが一番無難だが、しかし。 ――せめて、誰かあげられる人がいればいいのに。 仮にそういう相手がいたとして、実行した場合は誤解を招く恐れが多分にある。だが、幸か不幸か彼女はそこには全く思い至らず、今度は深く溜息をついた。 「おい」 宙に浮いてしまったチョコレート。 「たしぎ」 抽斗の奥にでも隠して、後でこっそり食べてしまおうか。 「聞こえねェのか?」 「え?あ、はい!」 視界に二本の足が映った。視覚が認識すると同時に聴覚も働いて、たしぎはようやく我に返る。 いつの間にか、厨房の戸口にゾロが立っていた。 先に寝室に入ったはずの彼が現れたことよりも、考え事に気を取られていた自分が恥ずかしくなり、たしぎは慌てて取り繕おうとした。 「すみません、ちょっとぼーっとして……って、なんでそれ持ってるんですか!?」 戸口に半身をもたせかけていたゾロの右手には、今の今までたしぎの頭を悩ませていた包み――チョコレートがあった。 声が裏返るほど驚き焦るたしぎを余所に、ゾロはしれっと返す。 「部屋ん中に置いてあった。俺に買ったんじゃねェのか?」 「…いえ、その…えっと…」 たしぎは頬を真っ赤に染めたまま、しどろもどろで意味を成さない言葉を呟いていたが、やがて小さく頷いた。 「そう…です。でも、甘いものが苦手だって聞いていましたし、わざわざ渡すのもどうかなと思って…」 「じゃあ、こいつはどうするつもりだったんだ?」 「捨てるのもったいないですし。誰かあげられる人がいないか、考えていたんですけど」 一瞬、ゾロの視線が険しくなった。 たしぎへの問いかけが、不機嫌さを帯びる。 「…おまえ、それがどういう意味かわかってんのか?」 「え?意味って……あ!いえ、そんなつもりじゃないんですよ!!」 「…ああ、わかってるけどな」 理解した途端に先程とは違う意味で慌てふためくたしぎへ、ゾロは憮然とした顔で小さく息をつく。 特別な意味合いのチョコレートを別の人物に贈った場合、誤解されても仕方ないだろう。 不用意で安易な考えと、不必要なチョコレートを買ってしまった後悔。恥ずかしさがそれに輪をかけ、もはやたしぎの頭の中は飽和状態である。 「…す、すみません…」 何とかこれだけを呟いたものの、穴があれば入りたいというのが今の彼女の切実な気持ちだった。 そんなたしぎの耳に、ぶっきらぼうなゾロの声が届く。 「ちゃんと食ってやるから、他の奴には渡すな」 「…は?」 意外な言葉に、たしぎは思わず彼の顔を見た。 ゾロは、どこか子供のようなふてくされた表情で、あらぬ方を向いている。 その頬が少し赤く見えるのは、たしぎの気のせいだろうか。 今の言葉は幻聴かもしれない。そう思えたので、つい、念を押すように聞き返してしまう。 「でも、甘いもの苦手だって言ってましたよね?」 「おまえのなら、食う」 そっぽを向いたままだったが、今度ははっきりと聞こえた。 たしぎは目を丸くする。 ゾロの言葉に応えるまでに、少しばかり時間がかかった。 「…ありがとう、ございます」 あまりに意外だったせいか、恥ずかしさもどこかへ飛んでいったらしい。 拍子抜けした様子のたしぎをちらと見やり、ゾロは手にしていたチョコレートの包みをテーブルにのせた。 「で、どうするんだ?」 テーブルの上には、綺麗にラッピングされた包み紙がひとつ。 たしぎはじっとテーブルに視線を注いでいたが、やがてその手がチョコレートへと伸びた。 改めて、それを両手に持ちなおすと、目の前に佇む一番大切な相手に、そっと差し出す。 「ロロノア。これ、受け取って下さい」 「おう」 短く応え、ゾロはチョコレートを受け取った。 …おそらく、寝室でこっそりとしまい込んでいたチョコレートを見つけた彼は、すぐに状況を理解したのだろう。 チョコレートを受け取ってくれたことはもちろんだが、その心遣いが嬉しくて、たしぎの顔に幸せそうな笑みが浮かぶ。 そんな彼女に、ゾロは少しばかり照れくさそうな顔を見せた。 今日はバレンタインデー。 チョコレートに想いを託し、大切な人へプレゼントする日。 |
──fin
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<あとがき> 66666キリ番小説です。 色々考えてみたんですが、時期が良かったのでバレンタイン話にしてみました。 プロット十分下書き二十分。 私にしてみれば破格のスピードでまとまったので、書いた当人もびっくりしてます(笑)。 たしぎがゾロにチョコレートを渡す場合…やはりウチなら夫婦ネタだろうということで、こういう話になりました。いかがだったでしょうか? 本当はタイトルをもう少し捻りたかったんですが、時間がなかったのでそのまんまだったり…(苦笑)。 |