初夏の彩り




 風鈴が軽やかな音色を響かせた。
 その音に誘われるように窓辺を見やったゾロは、少しだけ、風が出てきたことに気づく。
 遠くからかすかに聞こえてくるのは、数日後に近づいた夏祭りの太鼓の音。幼い頃は、この音を耳にしただけでわくわくしたものだ。
「もうすぐ、夏祭りなんですね」
 夕食の後かたづけをすませたたしぎが、ゾロの隣に腰かけると、やはり彼と同じように風鈴を見つめた。
「ああ、そういや、もうそんな時期か」
 応えつつ、ゾロは空に浮かぶ月を眺めた。
 満月にほど近い大きな月は、明るく夜空に輝いている。
「ロロノア、あの、お願いがあるんですけど…」
 遠慮がちなその声音に、ゾロが彼女を見やる。
 伏し目がちに両手の指を組んだたしぎは、次に発するべき言葉を迷っているようだった。
 未だこの呼び方が抜けないものの、二人は既に結婚している。いちいち気を遣う必要もないのだが、こればかりは彼女の持って生まれた性分らしく、なかなか変えられないらしい。
 ゾロが水を向けた。
「一緒に行けってか?」
 夏祭り自体は嫌いではない。ここしばらくご無沙汰だったが、だからこそ懐かしいという部分もあるし、面白そうだとも思う。何より連れだって歩く相手がいるのだから、文句のあろうはずはないのだ。
 …にも関わらず、こういう口調で返してしまうのは、ゾロの損な性分かもしれない。
 このように面倒くさそうに応じられれば、大抵の相手は引いてしまうだろう。しかし、たしぎはその辺りを理解しているので、遠慮しつつも結局はしっかりとゾロを引っ張っていくことになるのだが。
 普段ならばここで大きく頷くはずの彼女だったが、今日は少し違っていた。
「それもなんですけど、もうひとつ、お願いしたいことがあるんです」
「何だよ、一体」
 たしぎは顔を上げると、やや小首をかしげてゾロの顔を仰ぎ見た。
 少し時間を置いて、口を開く。
「実は…」


 無地の濃紺の浴衣を身にまとい、深い紺の角帯を浪人結びに締めると、我ながらそこそこ様になっているような気がする。
 祭りの当日、夕陽が沈んでから間もない宵の口、ゾロは部屋で浴衣に着替えていた。
 これは、たしぎが見立てたものである。
 一緒に浴衣で夏祭りに行って欲しい、という「お願い」を了承したのは昨日のことだった。
 そして、つい先程、浴衣を手渡されたのである。
 
 ――これを着てほしいんです。

 そう言うと、たしぎはゾロへ深い紺地の浴衣を差し出した。浴衣の上には同じく紺の角帯がのっている。
 ゾロは興味深げに彼女と浴衣を見比べた。
 たしぎがゾロに何も言わずに彼の服を見立てたのは、初めてだったのではないだろうか。
「この間、見つけて、その…あなたに似合いそうだと思って、買ったんです。…気に入らないかもしれませんけど…」
 最後は少しばかり不安そうに小声で呟いた彼女だったが、ゾロは短く応えた。
「いい色なんじゃねェか?」
 たしぎが顔を輝かせる。
「ありがとうございます。そう言ってもらえて、良かった…」
 嬉しそうに笑う彼女につられて、ゾロも小さく笑った。
 こういう表情を見せると、たしぎは年齢よりやや幼く見えるのだ。
 ゾロは浴衣を受け取ると、彼女に背を向けた。
「着替えてくる。おまえもさっさと着替えろよ」
「あの、一人でも平気ですか?」
「…俺のことより、おまえ帯締められんのか?」
「だ、大丈夫です!練習しましたから!!」
 両手に握り拳を作って断言した彼女に不安を感じつつも、ゾロはひとまず部屋を後にしたのだが。
 浴衣の着付けを終えたゾロは、少し時間をおいて、下の部屋に戻った。
「用意できたか?」
 尋ねつつ部屋に入ると、たしぎは姿見の前で文庫結びにまとめた帯の様子を確認していた。
 顔を上げた彼女は、ゾロの姿を認めると、嬉しそうに微笑む。
「似合いますね、ロロノア」
「お…おう」
 素直な賛辞を受けたものの、うまく言葉が出てこなかったのは、たしぎの浴衣姿に見とれていたためだ。
 たしぎは紺のぼかしに青い朝顔を散らした浴衣を身にまとい、赤い帯を文庫結びに締めていた。右手に下げていた巾着はさわやかな水色だ。
 ――こいつは青が映えるな。
 青から藍の色彩に身を包んだたしぎの姿が眩しく感じられ、ゾロは目を細めた。
 あ、と声を上げて、たしぎは身を翻す。
 テーブルの上にのせてあった団扇を手に取った彼女は、ゾロのもとへ戻ると、片方を彼に差し出した。浴衣の袖口から覗く細い腕の白さが、目に鮮やかに映る。
 浴衣姿のせいだろうか、普段よりゆったりしたその仕種が落ち着いて見えるのだから不思議なものだ。
「どうぞ」
「用意がいいな」
 ゾロが団扇を取ると、たしぎは少し照れた表情を浮かべた。
「一式用意していたんです」
 浴衣や帯、巾着に団扇そして草履。それらを店先で眺めつつ、吟味するたしぎの様子を想像し、ゾロは口元に笑みを浮かべた。
「行くか」
「はい」


 夏祭りとはいえ、具体的な由来までは聞いたことがない。穢れ祓いの意味があるという話を聞いたような気もするが、当時は興味を持たなかった。
 昔から、この日は町をあげての祭りが開かれる。
 町外れにある神社では多くの夜店が軒を並べ、普段は静かな境内も、年に一度の賑わいを見せるのだ。
 また、今日だけは、子供たちも夜更かしを許されるので、夜店で遊んだりお菓子を買ったりと、楽しそうに境内を走り回り、笑いさざめく声が社の外まで響く。
 御輿の練り歩きを遠目に見やり、ゾロとたしぎは夜店を冷やかしながらそぞろ歩いていた。
 さすがに祭りというだけあって、今日は浴衣姿の者が多い。見慣れない装いで道行く人の姿は目に新しいのだが、ゾロの視線はおのずと傍らを歩くたしぎに向けられる。
 御輿や夜店、道行く人、といった何かに目を留めると、たしぎの短い髪が揺れるのだ。そのたびに襟足から細いうなじが覗く。普段カジュアルで動きやすい軽装が多いせいか、団扇をそよがせる仕種や、時折足下に注意を払う様子などに、ひどく女らしさを感じてしまうのだ。
 不意に、たしぎがくすくす笑い出した。
「何だよ」
 悪戯っぽい表情で、たしぎがゾロの顔を見上げる。
「さっきの射的、惜しかったですね」
「…肌に合わねェんだ、ああいうのは」
「でも、ムキになってたじゃないですか」
 先程の夜店での出来事を思い出し、ゾロは憮然となった。
 二人で夜店を冷やかしながら、たまに興味を引く店で輪投げや射的に挑んだのだが、これがなかなかに難しい。
 いざ、たしぎと始めてみると、彼女の方がうまかったのである。
 たしぎは既に景品をふたつも手に入れていた。マスコット人形と、小さなブリキの置物だ。後者が話題の射的で彼女が当てた景品だが、どちらも巾着の中に収まっている。
 ゾロの場合、標的に当てることはできるのだ。しかし、台座から落とせなかったり、三回当てるところで一度ミスしたりと、結局景品を取るまでには至らなかった。
 普段、勝負事になるとつい熱くなってしまうのだが、今日は夏祭り。射的や輪投げは出店の余興であり、競う相手はたしぎである。遊びに興じるだけでも面白かったし、何より嬉しそうな彼女の様子で、ゾロは充分に楽しんでいた。
「あ!ロロノア、風船釣りしましょう!!」
 たしぎがゾロの浴衣の裾を引く。
 先程から元気に夜店を回るたしぎの様子に、ゾロは仕方なさげに苦笑すると、引かれるままに数歩を歩いた。
 …と。たしぎの歩みが止まる。
 彼女の目線は、目の前の出店に飾られていた品物に注がれていた。
 ゾロの視線がたしぎのそれを追う。
 そこにあったのは、一本のかんざし。
 かんざしの先には、薄い桃色のとんぼ玉が飾られていた。一目見て、たしぎに似合いそうだと思ったゾロが問う。
「欲しいのか?」
 この声に、たしぎは我に返った。
 顔を上げると、慌てて否定する。
「いえ、私まとめ髪できませんから、かんざしは挿せないんですよ」
 確かに、肩に届くかどうかという彼女の髪では、結わえてかんざしを挿すことが難しそうである。
 ゾロは改めて店先に目をやったが、たしぎは彼の浴衣の袖を引っ張って急き立てた。
「さ、行きましょう。次は頑張って下さいね」


 たしぎの応援に励まされたのか、次の風船釣りはうまくゆき、ゾロは二つの風船を釣り上げることができた。
 店を出たゾロは、喜ぶたしぎに「腹が減った」と食べ物を催促し、自分はちゃっかりベンチで休憩に入っていた。
 どこか子供っぽい彼の行動につい笑ってしまったが、たしぎは適当な店でたこ焼きとイカ焼きを買った。店先で少し待たされたので、小走りでゾロの待つ場所へと戻ってきたのだが、当の本人の姿が見当たらない。
 まずたしぎの頭をよぎったのは、違う場所に出てしまったかもしれない、ということだった。
 ゾロの方向音痴は有名だが、たしぎもまた方向音痴なのである。自慢ではないが、初めて訪れた街では確実に一度は迷う。
 今住んでいる町にはもう慣れたが、いつもと雰囲気が変わっている夜の境内、場所を間違っていないとは断言できない。
 たしぎは慌ててその場で回れ右をして、ゾロと別れた地点がこの場所に間違いが無いかを確認しようとした。
 その時。
「何ふらふらしてんだ?」
 右手から聞き慣れた声が掛けられた。即座にたしぎはそちらを向く。途端に安堵の表情を浮かべたが、すぐに口をとがらせた。
「ロロノア!もう、どこに行ってたんですか?」
「ああ、わりィ、ちょっと気になるモンがあってな」
「気になるもの?」
 ゾロは聞き返すたしぎを促し、並んでベンチに腰を下ろした。
 その動作で手に提げていた袋が音を立てる。たしぎは一瞬忘れていた食べ物の存在を思い出し、早速袋からイカ焼きを取り出そうとした。
「たしぎ」
「はい?」
「つけてみろ」
 言いつつ、顔を上げたたしぎにゾロが差し出したのは、飾り櫛だった。
 ガラス細工の櫛の上部に、オレンジ色の花がみっつ、咲いている。
 夜店につるされた提灯の明かりの中、ほんのりと輝いて見える透明な飾り櫛。
「…これは…?」
 驚くたしぎに、ゾロは笑って見せた。
 彼の笑みは何もかも解っている、と。そう言っている。
「それなら、おまえの髪にも挿せるだろ」
 見る見るたしぎの頬が赤く染まった。
「あ…ありがとうございます…」
 身につけられないから、と一度は諦めたのに。
 まさか代わりになるものを探してくれるなんて…。
 ゾロに袋を預けて、たしぎは早速、飾り櫛を挿してみた。巾着から手鏡を出して、そっと様子を見てみる。
 黒髪に添えられた透明なオレンジの花は、夜店の明かりに照らされて、優しく輝いていた。
「いいんじゃねェか?」
 櫛を挿すたしぎを見つめていたゾロが言うと、更に顔が赤くなったので、たしぎはつい俯いてしまう。
「ありがとうございます。……とても、嬉しいです」
 と、言ったものの。なかなか顔が上げられない。 
 そこへ、たしぎの目の前に、たこ焼きが一舟、差し出された。
 目を丸くしたたしぎは思わずゾロの顔を見る。
「お前の分」
「…ありがとうございます」
 どう反応していいかわからず、それでもまず礼を言うたしぎへ、イカ焼きを手にしたゾロがにやりと笑う。
「こっちはやめとけ。せっかくの浴衣を汚しちまうだろ」
「…あ、ずるい!」
 一瞬きょとんとしたたしぎは、澄まし顔でイカ焼きを食べ始めたゾロの言葉を理解するや、たこやきを手に抗議する。
「汚したりしません!あなたの分はちゃんと二人前買ったんですよ。そのイカ焼き、私も楽しみにしてたんですからね!」
 ゾロはあっという間にイカ焼きを一本平らげると、くつくつと笑い出す。
「…ロロノア?」
 そら、とイカ焼きの入った袋を差し出し、ゾロはしれっと言ってのけた。
「あんまり俯くな。顔上げてる方が似合ってんぞ」
 途端にたしぎは真っ赤になったが、結局、何も言い返すことができなかったのである。


 一通り夜店を回ると、かなり夜も更けてきた。
 それぞれに祭りを堪能した二人は、どちらが言うともなく帰ることにしたのだが、ここでゾロが口を開いた。
「回り道してくか」
 彼にしては珍しい提案に、たしぎは不思議そうな顔をする。
「構いませんけど…迷ったりしませんか?」
「…おまえ、この町で俺が迷うと思うのか?」
「でも夜道ですし、勝手が違うんじゃ…」
「ガキの頃から走り回ってた町で迷うわけねェだろうが。おまえこそはぐれんなよ」
 言うと、さっさと歩き出すゾロを、たしぎは早足で追いかける。
「二人っきりで歩いてるのに、どうやってはぐれるんですか」
 夜の一本道とはいえ、今宵は満月、明るい月の光が大地を照らしている。
 今、この人通りのない道を歩くのは、ゾロとたしぎの二人だけだ。
 道を間違える可能性がないとは言い難いが、はぐれることはまずないだろう。
 たしぎの言葉に、ゾロは苦笑する。
「そういや、そうか」
 昼間よりも幾分涼しい風を感じながら、ゾロとたしぎは夜道をそぞろ歩いた。
 祭りの喧噪も遠のき、二人が歩く道を取り巻く水田や畑からは、虫や蛙の鳴き声が聞こえてくる。
 この辺りは人家もまばらで、一面に田畑が広がっているのだ。神社自体が町のはずれに位置しているため、町に戻るにはやや歩くことになる。
 満月が夜道を照らすせいだろうか、周囲の様子ははっきりと見えるのだが、たしぎにはあまり覚えのない道だった。
 一人で歩くには少々心許ないが、傍らを歩くゾロの姿を見ると、安心できる。
「降りるぞ」
 しばらく歩いていた二人の前に、細い分かれ道が見えたところで、不意にゾロが言った。
「え、あの、ロロノア?」
 ゾロはさっさと細い道を進んでゆく。わけが解らないまま、たしぎがやや慌ててその後を追った。
 次第に増えてゆく丈の高い草の間を進みながら歩くうちに、視界の隅を小さな光が横切った。
「え…!?」
 一瞬、それを人魂と見誤り、たしぎの心臓が跳ね上がる。
 不意に、視界が開けた。
 眼前に広がっていたのは、水草が生い茂る川原である。
 そして、月明かりに照らされる中を、小さな無数の光が飛び交っていた。
「…螢…?」
 そういえば、初夏の川辺では螢を見られることがある、という話を聞いたことがあった。
 しかし、たしぎが実際にそれを目の当たりにしたのは、初めてのことだったのだ。
「見るのは初めてか?」
 前を歩いていたゾロが振り向く。
 たしぎは目の前の景色に見惚れながら、頷いた。
「話には聞いてましたけど…。こんなふうに見るのは初めてです」
 団扇の柄を両手で持ったまま、たしぎはじっとこの景色に見入っている。
 川を取り巻く水草の間を縫うように、小さな無数の光が飛んでいる。
 その景色はひどく幻想的で、今の状況を忘れてしまいそうになった。
 耳に届くのは、かすかに流れる水音と、虫の声。
 とても静かだと、思う。
「綺麗…」
 自然と口をついて出たこの言葉に笑う気配を感じ、たしぎは隣に立つ男を仰ぎ見た。
 驚く彼女の様子を楽しそうに見ていたゾロと目が合う。
「よくここへ来ていたんですか?」
「ガキの頃だけどな。偶然ここを見つけて、何度か来たことがあったんだ」
 偶然という言葉に、今度はたしぎがくすりと笑う。
「何だよ」
「迷ったんでしょう?」
「ガキの頃の話だっつってんだろ」
 途端に不機嫌になったゾロの様子が、たしぎの目にはひどく子供っぽく映る。
「でも、おかげでこんなに素敵な場所を見つけられたんですね」
 まァな、と応えると、ゾロは再び周囲を飛ぶ螢に視線を戻した。
 たしぎも再び川面を見てみる。
 先程は気づかなかったが、丸い月が水面に映っていた。
 月明かりとは異なる小さな光は、思い思いに飛び、あるいはとどまり、川辺にいくつもの明かりを灯している。
「…とても、綺麗…。こんな景色が見られるなんて、思いませんでした…」
 そっと、たしぎが言葉を漏らした。
 周囲の静寂を破らぬよう、小さな声で。
 たしぎの肩のすぐ近くを、螢がかすめて飛んだ。
「ああ。…変わらねェな、ここは」
 応えるゾロの声も、どこか安堵した様子である。
「…また、見に来たいですね」
 独り言のようなたしぎの言葉に返された、もうひとつの声。
「そうだな。また一緒に見に来るか」
 たしぎが隣に立つゾロの顔を見あげた。
 ゾロは穏やかな表情を向け、彼女に笑みを返す。
 たしぎは静かに微笑んだ。
「はい…」

 夜空に輝く月が位置を変えても、二人はしばらく川辺で螢を眺めていた。



──fin

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<あとがき>
 7月の半ば頃から、電車で浴衣姿の人を見かけるようになりまして、なんとなく浴衣の本を探してみたんです。
 そうしたら。書店で見かけた本を開いたとき、「たしぎに似合いそう!」と思う浴衣が載っていたんですよね。こういう浴衣を着て、一緒に夏祭りを見に行くゾロとたしぎの姿を想像しているうちに、話の大筋が浮かびました。形にするまでに少し時間がかかりましたが、夏の間に書くことが出来てほっとしました(笑)。
 二人とも和服が似合うと思いますので、日本の風物詩に自然に溶け込むことができるような気がしました。
 出来たら秋にも、またこういう話を書いてみたいですね。