元のページに戻る
レア・シルウィア
レア・シルウィア

◆最も標準的なレア・シルウィア伝説

 後代伝えられる標準的なレア・シルウィア伝説とは以下の様なものです。

 トロイア戦争から落ち延びたアエネアス(紀元前11世紀頃?)はイタリアに行
き着いて一生を終えた。その息子アスカニウスは新天地アルバ・ロンガを築き、
その王統13代目のプロカに二人の息子、兄ヌミトルと弟アムリウスがあった。弟
アムリウスは兄ヌミトルの王位を奪い、その男児を悉く殺したが、娘のレア・シ
ルウィアに就いては命を奪う事まではせず、一生処女として神に仕える事にな
る、ウェスタの巫女に無理矢理してしまった。

 ある時水汲みに河に出たレア・シルウィアは風の心地よさに寝入ってしまい、
そこをたまたま通りがかった軍神マルスが彼女を犯す。彼女が子を宿した事はア
ムリウスにも知れ、生まれた男児双子はアムリウスの命令によって河に流されて
しまった。しかし、別の地で成長した双子の息子達は自分達の出生の秘密を知る
に至り、アムリウスを倒し、アルバ・ロンガの王位を祖父ヌミトルに返した、と。
その後兄弟はまた新天地にて永遠の都となるローマを建設するに至ります。


◆レア・シルウィアは凌辱されたのか?

 で、私はてっきり、レア・シルウィアは知らずに寝ている間に軍神マルスに犯
されたのだと思っていたのです。この際、なんで犯されているのに起きないでい
たのかとゆーと、それは神の御わざであるからとゆー事にしといて(笑)、なん
で相手が軍神マルスだと分かるのかというと、レア・シルウィアがそういう風に
夢に見たからだという事で説明がついております(ホントか?(笑))。

 ところが、ティトゥス・リウィウスの原典のその部分を読んでぶっとびました。

   巫女は力ずくで犯されて双子を生み落とすと、本気でそう思いこんだもの
  か、あるいは、神が[破戒の]罪の下手人なら、まだしも名誉であった為か、
  素性不確かな子の親はマルス神だと告げる。
                   −『ローマ市建設以来の歴史』1.4.2.

 これを読むと、まるでレア・シルウィアは自分から破戒(つまり、巫女は処女
でなければならないので)をしたかの様にとれます。私はリウィウスという著作
家は非常に現実から浮いたロマン的な事を書く人(『古代ローマ人名事典』によ
れば、「意識的な現実逃避の精神」)だと思っていたので、びっくりしていまい
ました。

 しかしまあ、リウィウスは、浮いたりとはいえ、帝政期の歴史家(B.C.64〜A.D.
12?)ですから、いくら何でも「処女懐妊」という事を神によるものと書くのを
潔しとしなかったのでしょう(ちなみに新訳聖書はほぼ同時期ですな(笑))。

 因みにハリカルナッソスのディオニュシオス(前1世紀後半の歴史家)によれ
ば、この事件はアムリウスが姪を巫女にしてから4年後に起きたものであり、異
説としてレア・シルウィアを犯した可能性のある相手の一人として、アムリウス
その人の名を挙げております。プルタルコス(2世紀前半の歴史家)もこの説を
挙げています。


 最後に、詩人オウィディウスによるこの事件の描写を書きとめておきましょう。

   ウェスタの巫女シルウィアが、ある朝、祭具を洗い清める為の水を汲みに
  出かけた。小道がなだらかな坂になって下っている土手にやってきた彼女は、
  頭に載せていた粘土製の壷を下ろし、疲れたので自分も地べたに座り、胸元
  はだけて微風を入れ、乱れた髪を直した。そうして休んでいる間に、柳の影
  や小鳥達の歌や、水の軽やかなせせらぎが乙女を眠りへと誘った。甘い眠り
  が、絶えきれなくなったまぶたにそっと忍び込み、そして胸に当てていた手
  が気だるげに離れ落ちる。乙女を見ていたマルスは想いがつのり、彼女を我
  がものにし、この愛の窃盗を神力によってごまかした。眠りが去った乙女は、
  身体を重く感じた。即ち、既に胎内には都ローマの建設者が宿っていたので
  ある。
    −『祭暦』3.11-24(『ローマ神話の発生』松田治 現代教養文庫 P40)


◆彼女はアエネアスの16代後か?

 後代レア・シルウィアと呼ばれている彼女の名前ですが、元々はイリア(イー
リアー)という名前で伝えられていました。イリアという名前は「トロイア(=
イリオン)の女」と解釈出来ます。即ち、元々彼女は、トロイアから脱出して来
たアエネアスの娘だと考えられていたのです。後代では彼女はアエネアスの16代
後になるわけですから、相当の隔たりがあります。

 アエネアスの娘を彼女(即ちロムルスとレムスの母)としたのは、前3世紀〜
前2世紀の作家エンニウスでした。つまりこの場合、トロイア戦争とローマ建設
の間には2世代くらいの差しかない事になります。しかし、伝説に伝えられるト
ロイア戦争は当時から見ても900年以上昔の事とされており、それに比べてロー
マの建設は大体500年前より前にさかのぼる事が出来なかったのです。そこで、エ
ンニウスと同じ頃にギリシア・ローマ双方の歴史家の間でこの問題に関する反省
が起こり、年代の再計算が始まりました。ローマ建設年を、ティマイオスは前814
年(これって、伝説上のカルタゴ建設年と同じなんですけど)とし、ファビウス・
ピクトルは前747年とし、ポリュビオスは前750年とし、ピソ・フルギは前751年と
し、ウァロは前753年としました。後代、ウァロの説が採られ、ローマ建国年は
前753年4月21日とされているのは、ご承知の通りです。因みにこのアヤしげな
年代計測に伴って、ウァロの親友にして数学者のタルティウスという人はロムル
スに就いての出来事の年代を計算し、プルタルコスによると「きっぱりと男らし
く」(笑)、ロムルスが母の胎内に宿った(つまりレア・シルウィアが凌辱され
た)のは前772年12月23日(……寒くないのか?(笑))であり、出生は翌年9
月21日の日の出の時刻であると発表したという事です(『ロムルス伝』12)。

 と、いうわけで、元々イリアとされていた彼女の名前ですが、トロイアとそれ
ほどのつながりがなくなった事からこの名前は棄てられ、ローマの作家達は彼女
に「レア」という新しい名前を与えました。ドイツの古典学者ローゼンベルクに
よれば、この名前はギリシア神話に於けるレア女神から採られたのであろう、と。
また、アスカニウスに始まるこの王族の氏族名はシルウィウス氏族とされていた
ので、ローマの女性の名付け方の法則に基づいて、彼女にはまた「シルウィア」
という名前も付加される事になったのです。


◆レア・シルウィア、その後

 もう一度「最も標準的なレア・シルウィア伝説」の項を読んで貰うと分かりま
すが、レア・シルウィアがその後どうなったのか、書いていません。それという
のも、私自身どうなったのか記憶になかったからです(笑)。実際、レア・シル
ウィアの伝説上の役割は双子の兄弟ロムルス、レムスを生んだ時点で終わってし
まっており、それ以降の事は伝説の上ではあまり省みられなかったのです。しか
し、レア・シルウィアはローマ市民に人気があり、後代、様々な異説が作られま
した。一つの説では、双子が流されると同時にアムリウスに投獄され、獄中で死
んだ、或いは暗い日々をしのいでやがて双子に救出された。もう一つの説では、
彼女は川に投げ込まれたが、その時ティベル河神が水中より現れて彼女を迎え、
妻とした、という事になっています。


 次は、ロムルス、レムス兄弟を拾って育てたとされる、アッカ・ラレンティア
を扱います。

構成・文:DSSSM:dsssm@cwa.bai.ne.jp
イラスト:CHAMI