前のページに戻る
元のページに戻る
 ルキウス・ユニウス・ブルートゥス(509執政官)?-509


 ブルートゥス(英語読みでブルータス)というと、カエサルを暗殺した(彼一人が殺した訳ではないが)ブルートゥスがつとに有名ですが、そのブルートゥスは、マルクス・ユニウス・ブルートゥスといって、このルキウス・ユニウス・ブルートゥスの遠い子孫にあたる人物です(といってもこれはかなり疑わしいとされていますが、まあ、子孫だった方が面白いじゃないですか)。

 彼は共和政ローマを確立するのに最も力のあった人物で、その伝説の故に、その子孫と目されたマルクス・ユニウス・ブルートゥスは共和政を守る為の精神的支柱として担ぎだされたのでした。

 ルキウス・ブルートゥスは当時の王タルクィニウス・スペルブスの甥であったのですが、そのスペルブスに兄を殺されており、自分の身を守るため、彼自身は非常に勇敢で有能だったにもかかわらず、わざと愚鈍であるようなふりをして青年時代を過ごしました。彼の家名となった「ブルートゥス」はそこから付いた名で「無感覚の」という様な意味です。

 彼の本来の性格としては、信念によって決然として行動し、厳しい処置をも厭わない人物であった、とされますが、また天性冷酷であった、とも言われています。

 ともかく苦難の青年時代を送った彼の、決然とした国政運営の手腕はルクレティア凌辱事件を機に一気に爆発することになります。

 民衆を説得し、王家のローマ追放を決定した彼は抜群の素早さでスペルブスを出し抜いて軍隊の説得にも成功し、実質上ローマは共和政を宣言。独裁者を再度つくることのないよう1年任期の執政官を2名置くこととし、選ばれてその任に就きます。

 しかし共和政が固まらない内に、スペルブスはローマの内部崩壊を画策し、外から手をまわして内乱を起こさせようとしました。そしてその反乱計画に参加したものの中に、ブルートゥスの二人の息子もいたのです。事前に察知されて裁判の席に引き出された二人の姿に、大多数の人は頭を垂れて沈黙し、コラーティヌスは涙を流し、プブリコラは何も言いませんでした。少数の人が(少なくとも処刑にはならないよう)追放を提案しました。

 しかしブルートゥスは二人の息子の一人一人を名指しして言いました。
「さあティトゥス、さあティベリウス、お前たちは何故告発に対して弁明をしないのだ。」

 3度同じ様に尋ねましたが、二人は何一つ答えません。ブルートゥスは衛士に顔を向けて言いました。
「これ以降のことはあなた方の仕事だ」

 衛士は二人の若者を掴んで着物を引き裂き、両手を後ろに回し、鞭で体を打ちました。皆、それを正視する事が出来ませんでしたが、ブルートゥスだけは二人の息子が打たれるのを目を背けず、倒されて首を落とされるところまで見届けました。



 その後、ローマに内乱を起こさせることに失敗したスペルブス率いる軍隊(借り物)とローマ軍がアーンスウィアの原で激突しました。スペルブスの息子であるアールーンスとその従兄弟であるブルートゥスは軍勢の中にお互いの姿を認めると、敵意と憤怒を抑えきれず一騎討ちを挑み、激しいやりあいのすえに、互いに刺し違えて死にました。

 長い間隠されてきた決然とした信念が姿を表したのは、僅か1年足らずに過ぎませんでした。しかしブルートゥスの激しい生きかたによってローマは共和政を打ち立て、その後の仕事を「人民の友」プブリコラに譲ることになります。

 次は、そこまでやるか「人民の友」プブリウス・ウァレリウス・プブリコラで す。

DSSSM:dsssm@cwa.bai.ne.jp