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 プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ
                 (509,508,506,504執政官)?-503



 「プブリコラ(人民の友)」と呼ばれた彼は、共和政ローマが確立される前後に於ける、ローマの第一人者でした。ローマがまだ王政であった頃から弁舌と資力を以て有名であり、弁舌をもっては正義の為に尽くし、資力をもっては困窮する人達に惜しみなく援助を与えた、といいます。

 こういう人がスペルブスから何の被害も受けなかった、というのはなんだか信じがたい話ですが、しかしそのことの為に彼が共和政確立の為に多大の協力をした後も、スペルブスに対する敵意の少なさから、ローマの指導者には選ばれませんでした。人民はスペルブスに対抗する為に、スペルブスと最も対立する人達を指導者に選んだからです。

 このことにウァレリウスはがっくりきたものの、その後も反乱の芽を事前に摘むなど、共和政の土台を固めることに寄与。コルラーティヌスが国外退去した後には補欠執政官となり、アーンスウィアの戦いでブルートゥスが死んだ後は勝利を得たローマ軍を率いて豪華な凱旋式を行います。また、同僚となるべき補欠執政官選挙を行わずに単独の支配者であるかの様に振る舞っていました。しかしこの様なウァレリウスの振る舞いに民衆は、「ウァレリウスは単独の支配者たろうとしているのではないか」と嫌悪の感を抱き、ウァレリウスが丘の上に建っている自分の大きい家からフォーラムを見下ろしながらおりてくる態度を非難します。

 この非難を友人から聞いた彼はところが、怒るでもなく、弁明するでもなく、職人を集めて自分の家を一夜にして解体してしまいました。そして自分は友人の家に住まわしてもらうことにしたのです。この行為に民衆は感服、驚嘆し、また自分達のいわれの無い中傷の為に壊された家を人間であるかのように悼み、ウァレリウスが家なしの人のように他の人の家に住むことになったのを悲しみました。全くやることが極端です。

 また同時に、多くの人民の為の法律を制定し、ために「プブリコラ」と呼ばれる様になります。

 彼はその後も6年間に4度執政官となり、ポルセンナの軍と和平を結び、後に大きな氏族となるクラウディウス家(これってローマ皇帝のユリウス=クラウディウス朝の系譜かなあ)を迎え入れるなど、大きな仕事をやりとげ、503年に惜しまれながら死にました。

 プブリコラっていう人はなんだか良く分かりませんね。根はすごくいい人なんだけど顕示欲を抑えきれなかった、という面があるのでしょうか。また、思い切りの良さはこの人の大きな魅力だと思います。

 次回は、ローマ人でありながらローマを危機に陥れたコリオラーヌスです。プブリコラの妹のウァレリアが活躍します。

DSSSM:dsssm@cwa.bai.ne.jp