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 マルクス・フリウス・カミルス
(403監察官(他1回)、401,398,394,386,384,381執政官権限軍事護民官、                 396,390,389,368,367独裁官)?-365



 カミルスは有能にして高潔極まりない人物で、ケルト諸族の侵入からよくローマを再興し、「ローマ第二の創建者」と呼ばれた人物です。が、時々マヌケです(笑)。

 彼は一度も執政官になっていませんが、それはこの頃のローマがその職を執政官権限軍事護民官(3〜6名)を以てかえていた為で、それを考えれば執政官権限軍事護民官6回、独裁官5回というのは驚嘆に値します。

 カミルスは先ず戦争において名を挙げ、監察官になって更に声望を得ました。また、ウェーイイーという当時ローマ最大の敵エトルリア人の最大の町を攻略する為に独裁官に任命され、これを攻略します(396年)。

 その後、ファリスキー族との戦いに執政官に選ばれた彼はファレリイーの町を包囲することになるのですが、この町がまたとんでもなく堅固な代物で、さすがのカミルスを手をこまねいていました。ところがファレリイーの町の或る教師が、生徒を連れて城壁を出、カミルスの陣営にやって来て、自分の預かっている子供達を人質にして町を明け渡させる事をカミルスに提案したのです。

 これを聞いたカミルスは「ひどい事をする奴だ」と思い、かえってその教師を縛りつけ、子供達には棒や鞭を与えてこの裏切り者を打ち懲らしながら帰る様にさせました(笑)。

 これを見たファレリイーの町の人々は、カミルスの正義心に驚嘆、賞賛し、寧ろローマと友好関係を結ぶことにします。そこでカミルスはファリスキー族全体と友好関係を結んで引き揚げたのですが、しかし、ローマ軍の兵士達は前々からファレリイーの略奪をあてにしていたので、カミルスの処置に納得せず、「カミルスは民衆を憎み、貧民に利益を与えることを惜しんでいるのだ!」と告発に及びます。しかもいきり立った民衆はどんなことからでもカミルスを有罪にしようとし、他に二つの(故のない)罪状を持ち出し、カミルスを激しく 弾劾しました。

 カミルスは友人達に「正当な理由もないのに恥ずべき咎を被るのを見逃さないでくれ」と頼んだのですが彼らが、「裁判には助力出来ないが、罰金を課せられたら一緒に支払う」と答えたので怒りのあまり国外に亡命する決心をします。

 彼は家族に別れを告げ、ローマ市の門まで来てユッピテル神殿の方に向かって祈り、言いました。
「もし正当な理由もなく私が亡命することになったのだとすれば、ローマの人々はやがて後悔して、カミルスがいれば良かったと思う様になるだろう。」

 そしてカミルスはローマの南にある、アルデアの町へ亡命しました。

 この後すぐにカミルスの呪いを正義の神が取り上げ、ローマの町に対して恐ろしい程の忘恩の報いを果たすことになるのですが、そんなことを露ほども知らないローマの人々はカミルスの名誉が傷つけられ、亡命の道を辿ったことを喜びあい、欠席裁判の上で一万五千アースの罰金を課します。

 さて、前400年頃に始まったケルト諸族の移動のうち、ブレンヌス率いるガリア人はイタリアに侵入し、激烈な勢いでローマに迫ります。アリアの戦いで大惨敗を喫したローマはあっさりと陥落。幸運にも死守されたカピトリウムの丘を除いては、ガリア兵の虐殺と破壊と略奪とにまかせるままとなります。

 アルデアに亡命していたカミルスはアルデアに近づいたガリア兵をアルデア軍を率いて散々に打ち破っており、このことを伝え聞いたアリアの戦いの生き残りでウェーイイーの町に逃げていたローマ兵達は嘆きあって言いました。

「なんという立派な将軍をローマから追放し、アルデアの町はこの将軍の武勲を以て飾られ、その将軍を生んで育てたローマの町は滅び去ってしまったのだろう! 我々は無能な将軍達の為に他の町に閉じこもってローマが滅びるのを見過ごさざるを得なかったではないか! さあ、アルデアに遣いを出して我々の頼るべき将軍を取り戻そう! さもなくば、武器を取ってあの人の所へ駆けつけようではないか! 祖国がなくなって敵に支配されていては、カミルスが亡命者でもなく我々が市民でもなくなった。」

 そうしてそれらの人々はカミルスに指揮を執ってもらえるように頼みました。しかしカミルスはこう答えます。
「そのようなことは、カピトリウムにいる市民達が法律に従って自分を選ぶようなことにならなければ承諾は出来ない。私はあの人々が祖国を守っていると考えるから、あの人々が命令するならば喜んで服従するが、不賛成ならば自分は余計な手出しはしたくない。」

 これを聞いた人々はカミルスの敬虔の念と公正な態度に感服しました(そーかぁ?)。

 問題はカピトリウムの丘がガリア軍によって包囲されていて、そこに近づくことさえ容易ではないということでした。しかしこの難事をポンティウス・コミニウスという若者が可能にします。ガリア兵に気づかれない様にカピトリウムの丘に達し、カミルスの勝利と自分達軍人の意向を説明し、すぐさま開かれた元老院でカミルスを独裁官に任命してもらったのです。そして再度の幸運に恵まれて、その指令をローマの外にいるローマ人に伝えることが出来ました。

 カミルスはすぐに出撃し、ローマ及びガビイーの戦いでガリア軍を殆ど全滅させ凱旋。凱旋式を行ったカミルスの様子は、さながら神々自身がローマへ帰ってきたかの様だったといいます。

 しかしこのガリア人のローマ占領は、建国以来360年かけて平定した周辺諸族の再度の挑戦を引き起こし、ローマの再建設と共にそれらの諸族との戦いにカミルスは獅子奮迅の働きを半ば強いられることになります。

 すなわちその後も執政官権限軍事護民官に3度、独裁官に3度任命され、前366年にはカミルスはもう80歳に達しようかという年になっていましたが、再度ガリア人が攻めてくるというので独裁官に選ばれ、アニオー川の会戦でこれを破ります。

 その次の年に疫病がローマを襲い、数知れぬ民衆と共に高級役人の大多数が倒れました。カミルスもこの年に命を終えましたが、ローマの民衆はその頃病気で死んだ全ての人に示さなかった様な哀悼の意を表したといいます。


 まだまだ述べ足りなかった彼の高潔さを表すエピソードが数多くあります。彼はこの当時当たり前すぎる程当たり前であった「略奪」行為にも、心を痛めていました。恐らく彼は当時のローマ人としては率直に過ぎる傾向があったのでしょうが、それにも関わらず(それだからこそ?)良く人生を全うしました。

 次は、ローマと激烈な戦いを繰り広げた戦術の天才、エペイロス王ピュロスです。

DSSSM:dsssm@cwa.bai.ne.jp