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 エペイロス王ピュロス 319/8-272?


 エペイロス王ピュロスはハンニバルをして「アレクサンドロス大王に次いで優れた将軍」と言わしめた戦術の天才です、が、実際には彼は戦争はそれこそ本当に死んでしまう程やったものの、大した勝利を得ている訳ではなく、多くの敗北を喫しています。しかし彼は敗北するとますます希望をもって戦争に向かっていく様な、非常に豪胆な人物でした。

 彼はエペイロス王家の長男(といっても弟はなし)として生まれましたが、2歳の時に父が殺されて(側近の者によって)隣国へ亡命、12歳の時エペイロス王位を回復したものの、17歳の時に反乱が起こって再度、今度はアレクサンドロス大王の後継者達の一人、デメトリオスの所へ亡命し、更に人質としてプトレマイオス1世の元へと送られます。

 しかしそこでプトレマイオス1世の娘アンティゴネーを娶り、その能力で名を挙げ、財産・勢力を増して再度エペイロス王に復帰します。その王位は父を殺したネオプトレオスとの共同統治だったのですが、自分が暗殺されそうになったのを利用して逆にネオプトレオスを暗殺し、単独の王となります。

 ピュロスはアレクサンドロス大王を尊敬し、他の後継者達がアレクサンドロス大王の服の色や親衛隊や首の曲げかたをマネているのを、彼だけは自分の武力でそれをまねようとしていたので、人々は驚嘆し、彼に対する声望は上がっていきました。彼はまた、非常に豪胆、さっぱりした人物で、自分の悪口を言い触らす者が自分の国に居た時、人々がこれを放逐すべきだと考えていたところ、彼は「ここにいさせて少数の人々の間で私の悪口を言わせる方が、方々歩き回らせて全ての人間に向かって言わせるよりもましである」と言って、放っておきました。また、ピュロスは優れた人物に対してはそれに相応しい尊敬の念を抱き、丁重に扱った人物でもありました。

 ピュロスはその後他の後継者と一緒にデメトリオスと対立し、マケドニアに侵入してリュシマコスと共にマケドニアを分割統治することになりますが、後にリュシマコスに破れ、エペイロスに帰って来ます。さて、ここでするべき戦争がなくなってしまい、暇を持て余したピュロスだったのですが、タレントゥムの人々がローマに対して戦って欲しいと要請してきたので、彼は慶び勇んでイタリアに渡ります。そこで彼は、タレントゥムの人々の堕弱さには心底がっかりしたものの、ローマ軍の頑強さに驚愕し、「余にこの様な兵一個軍団があれば、世界征服も夢ではない」と感嘆。ヘラクレアの戦い、アウスクルムの戦いでローマ軍を破りはしたものの、ローマと講和を結ぶ望みはなく、また自分が連れて来た軍勢が、割に合わない程の損害を受けていたため、彼は戦勝の慶びを述べた部下に対して、「もう一度戦ってローマ軍に勝ったとしても、我々は全く壊滅するだろう」と感慨せざるを得ませんでした。このことから、「採算の採れない勝利」のことを「ピュロスの勝利」というようになります。



 彼は気落ちしたものの、シキリアからの来援要請に再び新しい希望に燃えて、更に西へと進みます(278-276)。ピュロスはシキリアをほぼ制圧することになるのですが、ギリシア諸市が裏切った為にタレントゥムへ帰還。再度ローマと矛を交えたものの、今度はベネウェントゥムの戦いで敗北。エペイロスへ帰ります。 彼は多くの勝利を得たのですが、更に大きな野望の為にそれらの勝利を寧ろフイにしてしまったのでした。

 彼はエペイロスに帰ったものの、懲りずに新しい名声を求めてアンティゴノス2世の支配するマケドニアへ侵入します。その戦いには半ば勝利し、そのままスパルタへ進軍。スパルタ相手に彼は散々手こずりますが、途中でアルゴスへ目標を変更。アルゴスでアンティゴノス2世の軍との戦闘中、町の建物から戦闘を眺めていた女性が投げた瓦に当たって落馬し、首を落とされて死にました。アンティゴノスは祖父(アンティゴノス1世)と父(デメトリオス)と今またピュロスの運命の変転に涙を流し、ピュロスを丁重に葬りました。

 彼のちょっかいによってローマは像部隊の存在を知り、またイタリア全体を統一することになります。しかし彼もまた、ローマにとってその存続を脅かす程の強敵だったことは間違いありません(ローマには存続の危機が10数回あるけど(笑))。

 次回は、エペイロス王ピュロスが最も信頼した部下キネアスです。

DSSSM:dsssm@cwa.bai.ne.jp