帰 郷


 生まれてまもない赤ん坊を腕に、優凪は沈んだ表情を浮かべていた。
 赤ん坊は眠っているので、あやす必要がない。
「何を考えているんだ?」
 最近元気のない妻の様子に、朗駕が心配そうな顔を見せる。
「朗駕」
 思いのほか強い彼女の声に、彼は作業を中断した。
 子供を見つめたままの優凪の正面に座る。
「何だい?」
 優凪が顔を上げた。真正面から夫の目を見据え、言う。
「私、パラノイアに戻ります」
「……」
「この子…将清が、私と同じ血に目覚めてしまう前に。将清には人間として生きて欲しい…だから、この子を」
「俺も行く」
「朗駕!?」
 思いがけない言葉に、優凪は思わず声を上げた。
 途端に赤ん坊が泣きだす。彼女は慌てて小さな我が子を優しくあやした。透明な静かな声で、ある旋律を謳って聴かせる。
 母親の歌と暖かい腕に安心したらしく、赤ん坊はすぐに寝息をたて始めた。
 子供が眠ったのを確認してからも、優凪は最後までメロディを謳い終え、そしてようやく夫に向き直った。
「朗駕…」
 戸惑いを隠せない優凪に、朗駕は控えめな笑みを返した。
「君を一人にして行けないよ。第一、俺は嘘が下手なんだ。それなら俺が残る意味がない」
「朗駕、でも…」
「俺の友人で、一人信頼できる奴がいる。あいつなら託せると思う。でも」
 彼は立ち上がった。赤ん坊の前髪をかきあげつつ、問う。
「本当にいいのか?」
 優凪は腕の中の赤ん坊を見た。
 閉じられている無垢な瞳。時折浮かべる無邪気な笑み。そして、今確かに感じられる暖かなぬくもり。
「ええ。将清が人間として、パラノイアとのしがらみを知らずに育ってくれるなら…」
「…わかった。将清は友人に預けよう。多分、あいつなら立派にこの子を育ててくれるはずだ」
「ごめんなさい、朗駕」
 うつむき、目を閉じた優凪の頬に、彼は右手を差し伸べる。
 目を開けた彼女に、朗駕は笑みを返した。
「君の決めたことなら、俺はいい。君が後悔しないならね」
「…ありがとう…」


 朗駕の知人は、研究職にたずさわっている。
 彼と同じく中流家庭の出だが、才能に恵まれ、早くから研究所に勤めていたと聞く。
 呼び鈴を鳴らすと、当人が顔を見せた。
「朗駕!?久し振りだな!しばらく顔を見せずにどこにいたんだ?」
 顔を輝かせ、気さくに話しかけた彼は、友人の背後の女性の姿に目を止めた。
「…あれ、おまえ」
「ん、まぁ、結婚したんだ。彼女は優凪。優凪、彼は和音。幼なじみなんだ。この前結婚したんだってさ」
 優凪は微笑み、深く頭を下げた。
「はじめまして、優凪といいます」
「あ、はじめまして。その、とにかく中に入れよ。立ち話もなんだろ?」
 和音が玄関の扉を全開にし、二人を招き入れた。
「あなた、お客様ですか?」
 声と共に早足の足音が聞こえ、一人の女性が姿を見せた。眼鏡をかけた、生真面目そうな女性である。
「玲子、僕の幼なじみだよ。紅茶を4つ、頼むね」
「はい、少々お待ち下さいね」
 向けられた笑みは、思いのほか柔らかなものだった。第一印象よりも随分と好感の持てる笑みである。
「おまえが奥さん連れて来るとは思わなかったよ。おまけにかわいい子供まで連れてさ。ま、入れって」
 快く迎え入れる和音の言葉に、二人の表情が僅かな翳りを見せた。


 朗駕と和音が最後に会ったのは、かれこれ3年前だった。そのため二人の話は尽きることなく、女性たちは当り障りのないことを話していたが、やがて玲子が赤ん坊にそっと触れた。
「かわいいお子さんですね。何ヶ月くらいですか?」
「1ヶ月です」
「お名前は?」
「将清、というんです。…変でしょうか?」
 少し目を見開いた玲子に、そろりと優凪が問う。玲子はにっこりと笑った。
「少し古風かもしれませんけど、男の子らしい名前だと思います」
「ありがとうございます」
 優凪が嬉しそうな表情を浮かべた。
 玲子は、赤ん坊を羨ましげに見つめている。
「しっかしおまえいつの間に子供まで作ったんだよ」
 和音の口調は感心半分呆れ半分といったところだが、目が笑っている。
「生まれたのは1ヶ月前なんだ」
「ふーん、1ヶ月ってこのくらいの大きさなんだなぁ」
 どこか憧憬の入り混じった声だったが、朗駕はそれに気づいていなかった。
 膝の上で両手を組み合わせ、ようやく彼は口火を切る。
「今日訪ねたのは、頼みがあったからなんだ」
「頼み?」
 鸚鵡返しに和音が問うと、朗駕は頷き、一呼吸置いた。
「この子を…将清を、預かってもらえないだろうか」
 和音と玲子が揃って彼を見た。
 そして、優凪を。
「預かるっていうのは、2、3日とか1ヶ月とか、そういう意味じゃないんだな?」
「今日から先、この子を育てて欲しいんだ」
「冗談だなんて言ったら殴るぞ」
「本気だ」
「和音!」
 玲子の静止よりも一瞬早く、カズネの右拳が朗駕の左頬に入っていた。
「朗駕!」
 優凪が朗駕に駆け寄ろうとし、止まった。彼が来るなと目で合図したのだ。
 赤ん坊が泣き出し、慌てて優凪があやし始める。しかしこの場の空気を感じ取ったのか、泣き止む気配がない。
「本気なら尚更だ。育てられないなら子供を作るな。子供の立場はどうなる?」
「待って下さい!彼じゃありません、私が言い出したんです!」
「優凪」
「どうしてもこの子を育てられなくて…誰か信頼できる方に預けられたらと、そう思ったんです」
 赤ん坊の泣き声の中、和音が朗駕に向けていた視線をその妻に向けた。
「優凪さん。子供を手離すという意味が本当にわかっているんですか?もう二度とあなたの手に抱くことはできない。様子を知る術はない。いえ、それよりも、立場を放棄するということが親に許される行為ではないということを、知っているんですか?」
 すぐにでも伏せられるかと思われた優凪の目は、しかしそむけられることはなかった。
「すべてを承知していても、私はこの子を育てられないんです」
 更に続けようとした和音は、自分の腕をつかんだ手に、言葉を殺がれた。
「和音。それ以上言う必要はないでしょう?」
 芯の通った妻の口調に、彼は口を閉ざした。
 玲子は夫に笑みを向け、優凪に近づく。
「抱かせて下さい」
 泣き止まない赤ん坊は、優凪の手を離れ、玲子の腕に抱かれた。
 ひと月ではあるが、優凪は子供が生まれてからほとんど手放した事がない。一度泣き出してしまったら、自分があやさなくては赤ん坊が泣き止まないせいである。父親の朗駕が抱いても、何故かぐずったまま泣き続けるのだ。
 それが逆にいとおしくて、我が子が泣き止むまでは、いつも小さく歌を謳って聴かせていた。朗駕に教えてもらった、地上での子供の眠りを守る子守り歌を。
 けれど、今の優凪は声が出せなかった。まるで身体が石になってしまったかのように、動く事ができない。耳に響く我が子の泣き声は、ただ彼女の耳を素通りして、心の中に響いていた。
 最初は赤ん坊をうまく抱き上げられなかった玲子だったが、やがて抱き方が安定してくると、その泣き声は少しずつおさまっていった。
 玲子の腕の中の赤ん坊がやがて静かになり、寝息をたて始めると、ようやく室内に静寂が戻った。
 けれど、静かすぎるその部屋で、何故か優凪の耳には赤ん坊の泣き声がはっきりと残っていた。
「いい子ですね、とてもかわいい…。この子には、あなた方のことは話さなくても構わないんですか?」
 眠る赤ん坊を見つめながら、玲子が尋ねる。
「…はい。決して話さないで下さい。あなた方が実の両親だと、そう教えて欲しいんです」
「わかりました。将清は私たちの実子として育てます」
 愛おしげに子供を抱く玲子を見、優凪は空いた両手を組み合わせ、力を込めた。
「和音さん、玲子さん…将清を、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げ、優凪は部屋を飛び出した。


 玄関からかなり離れた所で、優凪は泣いていた。
「優凪」
 朗駕がその名を呼ぶと、優凪は彼に駆け寄り、腕の中で激しく泣き出した。
「…わかっているつもりだったの…なのに、私…」
「つらいのは当たり前だ。正直、俺もこれほどつらいとは思っていなかったよ」
「朗駕…」
 優凪が少し落ち着いた頃を見計らって、朗駕は言った。
「和音と玲子さんはね、半月前に子供を亡くしたんだ」
「え…」
「早産だったらしい。その後遺症で、彼女は子供が産めなくなった。だがらよけいに怒ったんだ。だが玲子さんは君の様子を見て、生半可な気持ちで子供を手離すと口にしたわけじゃないとわかったそうだよ。それで引き取る決意をしたと言っていた」
「……」
 返す言葉が見つからず、優凪は何も言わなかった。
「あの二人になら任せられる」
「ええ。私もそう思うわ」
 優凪は懐から小さな光を取り出した。
 朗駕を見返す。
 彼の表情を見、優凪は精神を集中した。
 “明けの明星"が、か細い光を放つ。生体マグネタイトに満ち溢れているその光に同調し、優凪が力を放出する。
 二人の姿が淡い光に包まれ、やがて消えた。


「本当に、これで良かったのか?」
 二人が現れたのは、万魔殿の中だった。
 そこでは、以前ほどの力に満ちているわけではないが、既にその姿を取り戻したルシファーが待っていたのである。
 自分たちに倒されたその瞬間に、ルシファーはこの光景を予期していたのかもしれない。そう、朗駕が思った時、
「はい」
 優凪が頷いた。
「将清がパラノイアの血に目覚めることなく、人間として生きてくれることが、私の望みです。お父様」
「そなたも良かったのか、朗駕よ」
「はい。…俺は、優凪と共に生きます。この世界で」
 二人は、もはや誰にも断ち切れぬであろう強い絆を感じさせていた。
 そして、朗駕は予感していたのかもしれない。近い未来、我が子が通る道筋を。
 万魔殿の主ルシファーは、二人に穏やかな表情を向けた。
「ならば、何も言うまい…」


 昨今、暗い話題しか出てこない研究所内で、小さな騒ぎが起こっていた。
 他と比べて活気の少ない場所である。自然と騒ぎは所長の耳にも届いていた。
 興味を抱いた彼が向かった先では、1人の所員が周囲の5、6人の所員に小突かれ、からかわれている。
「どうしたんだ、一体?楽しそうだな」
 所長の姿に、その場の全員が慌てて頭を下げる。
「そう固くなるな。で、どうしたんだ?」
 所内でも話のわかる人間として知られる彼の言葉に、その場の所員たちは1人の所員を見た。どうやら彼が今日の中心人物らしい。
「…その、実は息子が生まれまして」
 はにかんだ顔で所員が答えると、途端に所長は破顔した。
「それはおめでとう。良かったな」
「ありがとうございます。でも、その…こういうご時世に騒ぐのはまずいかとも思いまして…」
 日頃から謙虚な彼の言葉に、所長がその肩を叩いた。
「こういうご時世だからこそ、子供は宝だ。新しい命の誕生は祝うべきだろう。遠慮することはない。──今日は早く返ったらどうだ?夫婦水入らず、いや子供と3人で祝うといい」
「ありがとうございます!」
 礼を言い、頭を下げる所員に向かって、所長はふと尋ねた。
「名前はもうつけたのか?」
「はい。将清、といいます」
 ふ、と所長の表情が変わった。
 僅かに驚いたような表情は、だがすぐ笑みに取って変わる。
「そうか。荻原君もようやく息子ができたとは、良かったな。わたしなどそろそろ孫ができるかもしれん」
 そう言うと、彼は元来た道を戻り始めた。
「あの、武内所長!」
「どうした?」
 呼び止めたものの後が続かず、荻原和音は口ごもる。 そんな彼の様子に、武内は再び笑みを浮かべた。
「今日は午後から帰っていいぞ。早く奥さんと息子さんに会いにいくといい」
 ありがとうございます、という彼の声を背に、武内直樹は今日の出来事を妻や親友にどう話そうかと考え始めていた。

                   
──了


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<あとがき>

 これは次の話の前振り…に近いと思います。
 魔神のルシファー様、大好きなんです〜(笑)。魔王ルシファーも好きですよ、もちろん!
 戦闘前のセリフからも、ルシファーは他の魔王とは一線を画している所があると思っていたんですが、やっぱり!でした。ライトエンディングは必見です!!是非見ましょう!
 また、魔神1のヒーロー&ヒロインは、パラノイアに帰ったために息子を地上に残したと思うんです。そうでないと、二人が自分達の手で子供を育てない理由の見当がつかなかったんですけど…。
 その辺りを考えて出来たのがこの話でして、本編をもう一つ考えています。こちらはまだ頭の中&メモ状態ですので、日の目を見るのはしばらく先になりそうです(汗)。
 魔神Uのナオキのニュートラルエンディング後ですが、私は彼が父の後を継いで研究職に就くような気がしています。奥さんはもちろんアヤちゃん(笑)。ある意味最強カップルかも。
 またここにちらっと某キャラが出ていますが…「if…」イチオシなんです、主人公×レイコ(笑)。