薄闇の静寂



 薄い暗がりの中、緩やかに一筋の細い煙が立ち上る。
 煙の元は細身のパイプだった。華奢な形のそれは、持ち主の優美な雰囲気を引き立てている。
 パイプの主は、鮮やかな紅を引いた唇から、そっと煙を吐いた。
 あたかも、溜息をつくかのように。
 物憂げな仕種は、彼女が思索に耽っている事をあらわしている。
 長年連れ添っているケルベロスは、女主人の癖を誰よりもよく知っていた。
 故に、黙して控えている。彼女が言葉を紡ぎ出すまでは。
 だが何よりも、彼は静寂であり空虚でもあるこの時間を楽しんでいたのだ。
 かすかな溜息が漏れた。
 物憂げな瞳を彼に向け、女性は身にまとう雰囲気に相応しい艶やかな声を発する。
「目加田と花田が逃げたのよ」
『センターの科学者たちがか?』
「約束が違うと言い残して、ね」
 彼女は流し目を向け、微笑んだ。
 ケルベロスはその視線を軽く受け流し、傍らへと歩み寄る。
『おかしな事を言う。マダムは約束を交わしていたのか?』
「いいえ、もともと私はセンターに盾突く気はないのだから」
 東京を襲った大洪水の後、カテドラルが建設されたこの地には、現在TOKYOミレニアムと呼ばれる建物が存在する。
 センターと中心にアルカディア、ホーリータウン、ファクトリー、そしてヴァルハラの四つのエリアから成り立つこの区域は、外界に比べて格段に悪魔の出現が抑えられていた。
 中でもセンターは選ばれたエリートしか存在を許されない、外界から隔離されたエリアなのだ。
 当然ながら、すべてのエリアはセンターの監視下に置かれている。
 傍目には勝手気ままに見えるヴァルハラエリアだが、これもセンターあっての繁栄なのだ。センターへの恭順は最優先事項である。それを理解し実行できるが故に、彼女はヴァルハラを任せるに足る人物だと判断されたのだ。
 そして、自由を最大限に利用する。
 故に、ヴァルアラエリアは、TOKYOミレニアムにおいて最も賑わう街でもあった。
『引き渡されるとおののいたか』
 ケルベロスは女主人の傍らに腰を下ろす。
 彼女は楽しそうに声を立てて笑った。
「あら、私がそのようなことをすると思って?」
『あの二人はそう感じたんだろう。マダムを良く知らない輩だ』
「そうね。花田はそうかもしれないわ」
 含みのある物言いに、ケルベロスが顔を上げる。
『目加田を知っていたのか?』
 彼女はケルベロスに視線を移し、ただ婉然と微笑んだ。
「……花田は少し危険なのよ。幸い、スラムに逃げ込んだことはわかったわ。早急に手を打たなくてはね」
『俺が行こう』
「いいえ、あなた一人では駄目よ。本当は私が行きたいところだけど」
『久しぶりにマダムの勇姿を拝みたいな』
 彼女は懐かしげに目を細め、紫煙をくゆらせた。
「そうね……センターができるまでは、あなたと共に戦っていた。死と隣り合わせの日々が懐かしいわ……」
 思い出を振り払うように、彼女は軽く首を振る。
「あなたと共に在ることのできる人間はこの館にはいないのよ。――私を除いて。とはいえ花田を連れ戻す件に猶予がないのも事実……」
 彼女の声が途切れた直後、彼らの背後に設置されていた室内の巨大スクリーンが映像を結んだ。
 若い執事が頭を垂れた姿が映し出される。
「どうしたの?」
「失礼いたします。先程コロシアムより連絡が入りました。新チャンピオンが決まったとのことです」
「確かレッドベアーだったかしら?」
 彼女は優勝候補とされていた男の名を口にする。
「いえ。そのレッドベアーは決勝戦で敗れました。ホークという男です」
 耳慣れぬ名に、彼女は初めてモニターに顔を向けた。
「ホーク?」
「岡本ジムの新星という触れ込みでした。新入りらしく、履歴も残っておりません」
「そう。挨拶に来たら繋げて頂戴」
「承知いたしました」
 スクリーンの画像が消えた。再び室内に沈黙が降りる。
 パイプから上る煙に目をやり、彼女は楽しげな笑みを浮かべた。
「優勝候補が敗れるなんて、珍しいわ」
『どの程度の腕前かな』
「気になるの?」
 珍しく他者への興味を口にした彼に、どこかからかうような言葉が投げかけられる。
 ケルベロスは低く笑った。
『マダムも気になるんだろう?』
「そうね……。珍しい事には惹かれるものだわ」
 彼女はモニターを一瞥し、ゆっくりと息をつく。
「ケルベロス。チャンピオンが来たら、スラムへ行って頂戴。花田を連れ戻して」
『ああ』
 頷き、彼は女主人の足下にうずくまる。
 そんなケルベロスの背をなでながら、彼女は再び煙をくゆらせ始めた。





──了


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<あとがき>

 80000HITのキリリク小説です。
 ラブ話にはちょっと遠いんですが……二人ならこんな雰囲気かな、と思いました。
 ゲームにおいて、マダムと初対面の際は「ヴァルハラの人のため」という言葉が真実かを計りかねましたが、後半のイベントでの台詞から、これが本心だったんだと思えました。
 彼女がヴァルハラの創始者だったのかはわかりませんが、私はそうだったと解釈しています。
 センターの思惑を利用して、人間らしさ溢れる活気ある街を作り上げたのではないかな、と。
 あのケルベロスを従えているんですから、並々ならぬ人物でしょう(笑)。