ガイウス・マルキウス・コリオラーヌス ?-488? コリオラーヌスのことに就いては、シェイクスピアが「コリオレーナス」という題でこの人のことを扱った劇を書いているので、そちらで知っている人がいるかもしれません。 彼は早くに父親をなくし、母親のもとで育ちましたが特に武勇に優れ、戦いで戦果をあげて母親の喜ぶ顔を見るのが最大の幸せでした。 彼は前499年のレギルルス湖畔の戦いなど、ローマ軍において常に第一級の戦果をあげつづけ、17年間ローマ軍の第一人者でありました。彼がコリオリの町を陥落させる時に奮った信じられない程の勇敢さと、味方を気づかう心とをローマの人々が賞賛し、多大な報奨を送ろうとしたのを彼が辞退したので、ローマの民衆は彼が断ることの出来ない報酬として、コリオラーヌス(コリオリの勇者)という副名を与えた程です。 しかし彼はその武勇を最も尊ぶ性格からか、元老院が民衆の騒擾に対して譲歩することに強硬に反対していました。民衆はこの人の徳性に多大の尊敬の念を抱いていたので、劇的な対立を生み出すことはなかったのですが、コリオラーヌスが執政官に立候補した時に、その影響力の大きさを民衆が恐れた為、彼は執政官に選ばれずに終わってしまいます。その事に激怒した彼は、身体を不可侵なものとされていたアエディリス(按察官)の体を殴り、民衆との間に激烈な衝突状態を作りだしてしまいました。元老院は懸命に彼を庇おうとしたものの、護民官の策略により有罪、永久追放の刑を受けた彼は、しばし迷った末、自分が常に敵として戦ったアンティウムの王、トゥルルス・アッティウスのもとへ身を寄せ、ローマに攻め込んで復讐することを誓います。 コリオラーヌスとトゥルルスはウォルスキー族を率いてローマ領へ侵入し、次々に町を攻略していきます。ローマのすぐそばまで迫ったコリオラーヌス軍にあわてたローマ側はコリオラーヌスの有罪を取り消し、帰還を許すことに決定、使者を遣わしましたが、コリオラーヌスは反対にウォルスキー族が失った領土を返還し、ローマ市民権を付与することを要求し、交渉は決裂。ローマは絶望的な状況下で戦争を決意し、大きな動揺が起こります。女たちはユッピテル神殿の祭壇に伏して祈りを捧げていましたが、その中からコリオラーヌスの母親ウェトゥリアと妻ウォルムニアはコリオラーヌスを説得しようと決意します。 城壁からウォルスキー族の陣営に向かってくる母と妻と子供たちの姿を見て驚いたコリオラーヌスは感情を抑えることが出来ずあたかも狂気の如く我を忘れて席を立ち、こちらに向かってくる母を抱擁しようとした時、老母の気持ちは愁訴から怒りに変じて言いました。 「そなたの抱擁を受ける前に、はっきりさせて貰います。私は敵のもとに来たのですか、それとも息子のところに来たのですか。そなたの陣営で私は捕虜なのですか、それとも、母なのですか。そなたの亡命の様を見たり、その次には敵になったそなたを見たり、こんなことの為に私は長い人生、幸薄い老年を生き長らえて来たのでしょうか。そなたを生み、育んだこの地が荒掠されてもそなたは平気なのですか。どれほど敵意に充ち、復仇を念じてやって来たにしても、国境を越える時、怒りが失せはしなかったのですか。ローマを目の当たりにした時、『あの市壁の内に我が家と家の神々がある。母と妻と子供らがいる』と、思ってもみなかったのですか」 母親の説得にもずっと沈黙を守っていたコリオラーヌスでしたが、最後に母親が自分の死体を越えてローマへ進軍するようにと身を伏せた時、 「母よ、何ということをするのか!」 と叫び、母を立ち上がらせ、右手を強く握って言いました。 「あなたの勝ちです。しかしその勝ちは祖国には幸福でも、私には破滅です。あなただけには負けて去ります。」 こう言ってコリオラーヌスは軍をおさめて去りました。ウォルスキー族の中には不満に思う者も少なくありませんでしたが、皆コリオラーヌスの権威よりもその人格に敬服してこれに従いました。 その後すぐにコリオラーヌスは、トゥルルスの放った死客によって暗殺されてしまいます。しかし、コリオラーヌスの死は多くの人に悼まれ、アンティウムでもローマでも最大級の尊敬のしるしを受けた葬儀と喪が行われました。 ベートーヴェンの「コリオラン序曲」もこの物語をモチーフにして作曲されたものです。その悲劇性は深く、名曲の一つの数えられています。 次は、実はちょっと情けない伝説的英雄、キンキナートゥスです。 |