前のページに戻る
元のページに戻る
クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェルルコスス・クンクタトル
   (233,228,215,214,209執政官、230監察官、
              221,217独裁官、元老院首席)275?-203

 ファビウス・マクシムスは対サムニウム戦争の英雄、ファビウス・マクシムス
・ルルリアーヌスの孫として生まれました。「マクシムス」という名は、そのル
ルリアーヌスの時に得た名で偉大なファビウス一族の中でも最も偉大な(最大の)
という意味です。

 彼は子供の頃から慎重な性格で、熱っぽい性格の人が多い古代ローマ人の中で
は愚鈍と考えられた様です。彼は物静かにしていることを好み、子供同士の遊び
にもむやみに加わることをせず、また目から鼻に抜ける様な理解の仕方ではなく、
じっくりゆっくりと物事を習得しました。しかし長ずるにつれて、彼の慎重さ、
堅固さ、確実さが人々の目にも明らかになっていったといいます。


 彼はハンニバル戦争が起こった際にはもう50歳になろうかという年であり、
過去に数回最高司令官を務めて大きな戦果を挙げていたこともあって、元老院の
中でも上席に位置していました。そして彼がハンニバル軍のことを聞き及んだ時
に、最初から選択したのがいわゆる「ファビウス戦略」でした。

 これはハンニバル軍の兵力がそれほど多くなく、また資金も少ない上に、その
補給、補充も難しいことから、寧ろローマは自重し、同盟軍に援軍を送ってその
破壊と離反を防ぐ手立てだけをしておいて、寧ろハンニバル軍がその兵力と資金
を遣い果たして自滅するのを待つ、という作戦でした。具体的にはハンニバルの
気勢に対しては時間稼ぎを行い、ハンニバルの兵力・資金が少ないのを見越して
それ以上の兵力・資金を同盟市に送り、ハンニバル軍の最強の戦力たる騎兵がそ
の力を発揮出来ない様に山地に陣営を置き、敵が動かなければ自らも動かず、敵
が移動すればそれに或る程度の間隔をおいて追跡し、敵が戦を仕掛ければ避け、
敵が戦をしたくなければ敵に仕掛ける様子を見せる、といった様なものでした。

 これはハンニバルにとっては非常にイヤな戦略であり、かなりの効果を挙げ得
たのですが、いかんせん失うものも多く、また敵からも味方からもその弱腰の態
度が非難を浴び、軽蔑され、「ぐずぐず屋」「遷延家」などという意味の「クン
クタトル」というあまりあり難くない副名を得る様になってしまいます。

 しかし彼の戦略はミヌキウス、ワルローの大敗北で見直される事になります。
カンナエの戦いの敗報が届いた直後、全てのローマ市民が絶望と大混乱の中にい
る時、ファビウスだけが一人静かな足取り、落ちついた顔付き、親切な話振りで
町中を往来し、女々しく嘆くことを止めさせ、元老院の招集を促し、未来に対し
て希望を抱き、最大限の努力をローマが行うことを決議させました。その時になっ
て初めて人々は、この人が何一つ危険が無いと思われた時に警戒を厳に呼びかけ
たのは彼の神か精霊にも匹敵する洞察力の為であることを悟って、ローマの残り
の希望をこの人に繋ぐことにしたのです。

 ところがその後のファビウスには目立った戦果がある訳ではありません(笑)。
最大の戦果たるタレントゥム奪回も、彼の功績であるというよりはローマ全体の
功績に帰すべきものです。しかしその状態にローマを導いたのが、ほかならぬ彼
の態度とその戦略であったことは、間違いありません。

 彼はハンニバル戦争の期間中、名実共にローマの第一人者であり、元老院首席
をも務めましたが、その彼に挑戦する若き将軍がローマの中から現れました。そ
れが大スキピオです。彼はアフリカに上陸してカルタゴ本土を攻撃すべきだと主
張し、多くの賛同者を得ました。ファビウスはこれに、その戦略の違いからか、
はたまたこの若造が何を言うかという対抗心の為か、嫉妬心の為か、強硬に反対
し、大スキピオのやろうとすることに対して、大カトーと共にしつこく妨害を加
えました。彼の人生の最後の数年間は大スキピオの妨害の為に殆ど使われました
が、大スキピオはアフリカに強引に渡り、そこでも大戦果を挙げつづけます。そ
して大スキピオはカルタゴに戻って来たハンニバルとザマで戦い、勝利を挙げる
ことになりますが、ファビウスはその勝利を聞くことなく、ハンニバルが船に乗っ
てイタリアを去った頃、病気に罹って死にました。彼の葬儀を行うにあたっては、
これを国葬とせず、ローマ市民の尊敬を表す為に全ローマ市民が少しずつ出し合っ
たお金で行い、民衆が自分の父親を葬る時の様にした、ということです。


 次回から、ちょっと趣を変えて、3本勝負で「大スキピオ 対 大カトー」を
やりたいと思います。

DSSSM:dsssm@cwa.bai.ne.jp