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ガイウス・クラウディウス・ネロ(207執政官、204監察官)?-?
彼は先ずハンニバル戦争に於いて、ヒスパニア(スペイン)方面に登場します。
ハンニバル戦争の前半、ハンニバルの後衛地にして本拠地であるヒスパニアは、
ハンニバルの弟のハスドルバル=バルカとマゴ、そしてギスコの子ハスドルバル
が守っていました。そしてその方面には大スキピオの父であるプブリウス・コル
ネリウス・スキピオとその兄のグナエウス・コルネリウス・スキピオが長らく派
遣され、一定の戦果を収めていたのです。しかし211年に情勢は激変します。スキ
ピオ兄弟が、それぞれ別の戦いでハンニバルの弟達によって撃破され、二人とも
死んでしまったのです。
その穴を埋めるべく、急遽このガイウス・クラウディウス・ネロがヒスパニア
に派遣されました。積極果敢な彼は、すぐさまハスドルバル=バルカに対して戦
闘を挑みます。追い詰められる側になったハスドルバル=バルカは講和を提案し、
クラウディウス・ネロはそれを受け入れることにしますが、講和条件の内容を交
渉しようと夜明けにハスドルバル=バルカの陣営に行くと、そこはもぬけの空で
した。彼はまんまと一杯食わされた訳で、このことによってかどうかは分かりま
せんが、すぐにヒスパニアには後の大スキピオ(この時まだ26歳)が派遣され、
彼はローマに召還されてしまいます。
大スキピオはヒスパニアに於いて、カルタゴ軍の拠点たるカルタゴ−ノヴァを
陥落させ、ヒスパニアのカルタゴ軍を弱体化させてしまいます。唯一或る程度の
軍勢を保持し得たハスドルバル=バルカはハンニバル軍との合流を決意し、ハン
ニバルが辿ったアルプス越えを敢行しました。
ちょうどその年に執政官になっていたクラウディウス・ネロはハスドルバルと
ハンニバルとの合流を阻止すべく南イタリアでハンニバルの北上を阻止し、同僚
執政官のマルクス・リウィウス・サリナトルが北イタリアでハスドルバルを待ち
受けていました。
ハスドルバルの動向を掴みかねていたローマ軍(これはハンニバルも同じでし
た)でしたが、クラウディウス・ネロ軍の前哨がハスドルバルからハンニバルへ
の手紙を携えた使者を捕まえたのです。内容を読んだクラウディウス・ネロは、
急遽サリナトルの応援に北イタリアへ急行することを決意します。ハスドルバル
の軍勢はアルプス越えにも殆ど被害を受けておらず、サリナトル軍だけでは到底
勝ち目のないことを知ったからです。
彼は七千の兵を率い、強行軍につぐ強行軍で北に向かいました。ハンニバルは
これに全く気づかず、寧ろハスドルバルとの合流はもっと後のことになるだろう
と考えていたようです。クラウディウス・ネロはサリナトル軍と合流し、ハスド
ルバルと激突します。ハスドルバルは斜形陣を以て戦闘を有利に進めたものの、
クラウディウス・ネロの率いる部隊が側面に回り込んでカルタゴ軍を大混乱に落
とし入れた為、総崩れとなり、ハスドルバルも戦死しました。クラウディウス・
ネロはハスドルバルの遺体を探させ、首を胴体から切離し、医者に剥製にさせま
した。彼はすぐさま南イタリアの陣営に戻り、ハンニバルの陣営にハスドルバル
の首を投げ込ませました。ハンニバルはこの頃、目を病んでいましたが、弟たる
ハスドルバルの首を見て、
「ああ、カルタゴの命運極まれり! 神は我等を見捨て給うた!」
と叫んだといいます。
しかし、彼の名前ってローマ皇帝の第3代、第4代、第5代と順番が同じです
ね(第3代のカリギュラは、ガイウス・カリギュラ)。しかもいずれも酷い皇帝
(笑)。「ネロ」と書くのも「クラウディウス」と書くのもためらわれたので、
全部「クラウディウス・ネロ」で通してしまいました。
次は(やっと(笑))「ローマの楯」と呼ばれ尊敬されたクンクタトルです。
DSSSM:dsssm@cwa.bai.ne.jp