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マルクス・ポルキウス・カトー・ケンソリウス
(195執政官、184監察官)234-149
共和政ローマ史に燦然と輝く絶大なる能力を持った政治家且つ演説家。彼は新
人でしたがその弁舌の力と清廉に関する峻厳さがローマ市民に恐れられると共に
愛され、カトー(経験を積んだ人)という副名を得ました。また、小カトーと区
別して、「監察官のカトー」(ケンソリウス:監察官として有名だった為)と呼
ばれます。小カトーはこれに対して「ウティカのカトー」(ウティケンシス:ウ
ティカで自殺した為)と呼ばれました。
彼は当時ギリシャ化していくローマの中にあって頑固にローマの伝統を守り、
質素倹約を旨とし、祖国の為に体を鍛え、また豪快な弁舌によって柔和で堕弱化
していくローマ市民をこきおろしました。
その倹約の仕方はあまりにもけち過ぎてプルタルコスから非難された程で、自
分が着るもの食べるものに関する節制はともかく、奴隷が年をとってあまり働け
なくなるとこれを売り飛ばし、ヒスパニアで自分自身が散々乗り回した馬を、ロ
ーマに帰る時に船賃惜しさに置いていきました。
彼は政治家、演説家として特に有名ですが、軍事的な能力にも秀でていました。
若くしてハンニバル戦争に従軍したのを初めとして、ヒスパニアの鎮圧に功績を
挙げ、またアンティオコス大王をテルモピュライの戦いで破ったのは、彼の献策
によるものであり、時の指揮官グラブリオも、またローマ市民も彼の絶大なる恩
恵を感謝したといいます。
そして演説。豪快で粗野、しかし清廉にして正義を重視する彼の弁舌は次々と
裁判を巻き起こし、また自分でも次々に告発されました(笑)。色々な話が残っ
ていますが、彼が監察官の時の話を。彼は当時名声を得ていたマニリウスという
人を元老院から除名したのですが、その理由は「彼が公衆の面前で妻を抱擁した
から」というものであり、それに付け加えて彼は言いました。
「私は大きな雷が鳴っている時でなければ、妻を抱擁したりしない。だから雷が
鳴りはじめると気分がうきうきするわい。」
しかし彼は妻に先立たれる事になりました。その頃一人息子はもう大きくなっ
ており、体は弱かったもののローマでの評価も高く、大カトー自慢の息子であり、
アエミリウス・パウルス・マケドニクスの娘を嫁に貰っていました。
男やもめになってしまった大カトーは若い女奴隷をこっそり自分の家に出入り
させましたが、その際その女奴隷が息子夫婦の部屋の前を通り過ぎ、それを見た
息子は何も言いませんでしたが、何となく苦い顔をして横を向いたのを、大カト
ーは見逃しませんでした(笑)。
そしてこの事が息子夫婦に喜ばれないのを察すると、彼は友人達とフォルムへ
出掛け、自分の秘書のサローニウスがその場に加わったのを見ると、大きな声で
「おお、サローニウス。どうだ、君のところの娘の婿は見つかったかね。」
と話し掛けました。サローニウスが、
「いえいえ。大体私は前もって貴方に知らせずに娘を嫁にやったりはしません。」
と言うと、大カトーは言いました。
「丁度私はお前に恰好の婿を見つけてやったが、ただ困った事に年齢の点は感心
しない。他に非のうちどころはないけれど、あまりに年を取りすぎているのだ。」
そこでサローニウスは、
「いや、貴方の推薦する方ならば、何の問題がありましょうか。是非とも娘を、
貴方のお薦めになる人に遣ることにしたいと思います。」
と頼みました。すると大カトーは少しも躊躇せずに言いました。
「では、私がその娘を貰おうと思う。」
「えっ」
驚いたサローニウスでしたが、カトーが本気に頼んでいるのを知ると喜んで承
知し、二人はすぐさまフォルムへ行ってその縁組を公表しました。
婚礼の事を聞いたカトーの息子は父に、
「何か私が失敬な気を悪くさせるような事をした為に継母を迎えるのですか?」
と尋ねました。するとカトーは大きな声で言いました。
「とんでもない。お前のやることには全て満足している。非難する事は一つもな
い。ただ、自分はもっと子供を拵えて国家にお前の様な立派な市民を残そうと思っ
ているのだ。」
実際残念なことにこの大カトーの長男は血筋を残すことなく早世します。そし
てこのサローニウスの娘との間にもうけた子供の家系が、のちの小カトーの家系
となるのです。
その他のことは今までも結構書いたのでいいでしょう。あといちじくの話とか
もあるにはありましたが。しかしどうもまとめかたがうまくない。
次回は第3次マケドニア戦争の戦勝者アエミリウス・パウルス・マケドニクス
です。今回出てきた娘の話も出てきます。
DSSSM:dsssm@cwa.bai.ne.jp