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ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス
(191-189法務官、182,168執政官、164監察官)228?-160
彼は共和政ローマに於ける貴族のなんたるかを体現した、恐らく最後の人でし
た。彼は祖先の遺風を守り、質素な生活をし、清廉で公金を私せず、宗教儀式を
厳粛に執り行いました。しかし、彼自身は迷信の類は信じない豊かな教養を持っ
た人で、ギリシア世界の文芸に敬意を払い、子弟の教育に熱心で、「ローマ一の
子供好き」と言われ、物惜しみしない、言わばバランスの非常に取れた人物でし
た。
さてパウルスは、文武両道に秀で、実際に功績も挙げていたのですが、当時の
ローマでは当たり前となってきていた民衆の機嫌取りや、凝った弁舌や、賄賂を
撒いたり、政治的な裏取引をする、といったことに疎かったので、早期に一度執
政官となった後は、もう一度執政官に立候補してみたものの票は得られず、それ
で政治の表舞台からは引き込んで、子弟の教育に情熱を傾けていました。
時は前172年、アンティゴノス朝マケドニアの新しい王ペルセウスの対ローマ工
作が明らかになった事から、第3次マケドニア戦争が始まります。しかし当時の
ローマ執政官の選ばれ方はポエニ戦争以前と違い、上に述べた様な事で選ばれる
様になってきていた為、執政官は押し並べて無能で、惨敗に次ぐ惨敗。自滅する
ばかりの恰好で(なにしろ相手側のペルセウスも有能とは言えない人物(笑))、
ローマでは執政官の無能を非難する声が高まり(自分達が選んでるんだが……こ
こらへんは今の日本も同じかもしれん)、ローマ軍を統率すべき人間としてパウ
ルスに白羽の矢が立てられました。しかしパウルスは当時60歳近くになってお
り、これを固辞しますが民衆はもう最初からパウルスしかいないと決めかかり、
自宅の前に連日押し寄せる有り様。また知人達の説得もあって、パウルスは執政
官職を引き受けることにします。しかしパウルスは民衆に釘をさす事も忘れませ
んでした。
「自分が最初執政官になった時はその職を求めたのであるが、今度執政官の職に
就いたのは諸君が将軍を求めたのである。従って私は諸君に対して恩恵を約束す
る義務はない。別の人を使った方が戦争の遂行が良く出来るとお考えになるなら
ば、私はいつでも指揮権を辞退する。自分を信頼して下さるならば、今度の戦争
に就いてどの地点で陣営を張るべきだの、どの拠点を押さえるべきだののお喋り
はやめていただくか、もしくは助言の為に是非ともマケドニアに一緒に行軍して
頂きたい。そうでないならば、支配者を支配しようとすることを止めていただか
ねば、再度ローマは笑うべき醜態を見せることになるだろう。」
この言葉を聞いて、民衆はかえってパウルスに対する畏敬の念と将来に対する
大きな期待を抱く様になり、自分達が阿諛追従の輩を棄てて率直にものを言う気概
のある将軍を得た事を喜びました。
そして民衆は華々しく行列をしてパウルスを家まで送っていきましたが、まだ
子供であった娘のテルティア(後に大カトーの息子に嫁ぐ)が涙を流しているの
を、この父親が見つけました。そこで娘を抱き上げて何を悲しんでいるのかを尋
ねたところが、娘は父に抱きついて接吻し、
「お父様、うちのペルセウスが死んだのを御存知ないの。」
と言いました。娘は家で飼っていたそういう名前の子犬のことを言っていたので
す。そこでアエミリウスは、
「これは運がいい。この前兆を受け入れよう。」
と言ったということです。
さて、実際幸運に恵まれてマケドニアへの航海は何事も無く無事にすみ、デル
フォイから上陸して北上し、テッサリアのオリュンポス山の麓でペルセウス率い
るマケドニア軍とのにらみ合いになります。マケドニア軍は質・量とも一級であ
り、おまけに強固な要塞線に守られている為、うかつには手が出せなかったので
す。そしてペルセウスの戦略は、そのケチさと消極性の為、「じっと待つ」とい
うものだったのです。
ここでは多くの若者が活躍しました。迂回路の存在を知ったパウルスが迂回部
隊を編成しようとすると、コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム、後に
大カトーに対抗して「私はカルタゴ存すべしと思う」と言明する様になる人物と、
そしてパウルス自身の長男でファビウス家に養子に行っていたファビウス・マク
シムス・アエミリアヌスが志願し、軍功に胸を膨らませて進軍します。迂回は密
告にあったもののペルセウスが慌てて向けた部隊を撃破し、首尾よく後背に出た
ためペルセウスは退却します。再度仕切りなおしとなった両軍はピュドナの地で
激突しました。
ピュドナの戦いは激烈なものでした。マケドニア騎兵にとっては不利な山腹と
いう地形であったものの、アレクサンドロス大王以来のファランクスはすさまじ
い攻撃力を発揮し、ローマ軍は徐々に押されていきます。ローマ軍右翼では不利
を何とか挽回しようと、サルウィウスという指揮官が旗手から軍旗をひったくり、
それを押し寄せるマケドニア軍の真っ直中に投げ込みました。およそローマ軍及
びイタリア同盟軍にとって軍旗を失う以上の恥辱は地上に存在しません。兵士達
は必死になって自分らの軍旗を取り戻そうと、切り結ぶ事さえ忘れて突進し、槍
と槍の隙間に体を押し込んで、獣の様に吠えながら突撃を敢行しました。
しかし、この無茶苦茶な蛮勇をもってしても、訓練と規律の行き届いたマケド
ニア軍の戦列を崩すことは出来ませんでした。
しかし起伏のある山腹で戦った事は、マケドニア軍にとって致命的なものとな
りました。ファランクスが混乱をきたし、ところどころに隙間が出来ていること
を見てとったパウルスは、ローマ軍が当時可能にしていた小部隊運用の柔軟性を
生かし、隊長達に隙間を攻撃する様命令を下します。さしものファランクスも隊
列を乱したその隙間から横槍に攻撃されては脆く、崩壊を始めます。戦いは小部
隊同士の戦いとなり、そうなればローマ軍の優位は揺るぎ様もなかったのです。
この時大カトーの息子で将来アエミリウスの婿となるマルクスは混戦の中で自
分の刀を失ってしまいます。彼は生きていながら獲物を敵の手に渡しては永らえ
る道がないと考えて戦場を駆け巡り、友人達に助力を求めました。そこで若い勇
敢な者達が大勢集まって一斉にマルクスを先頭に立てて敵の中に攻め込み、激し
い戦いによって敵を退けて空いた場所を探し、やっとのことで死体の間に刀を見
つけた時には非常に喜んで勝利の歌を歌い、尚一層華々しく敵に攻め入りました。
勝利を得て大追撃を行い、喜びにあふれるローマ側の陣営でしたが、パウルス
だけが悲嘆に暮れていました。この戦争に従軍していた二人の息子のうち下の方、
プブリウスの姿がどこにも見当たらなかったのです。プブリウスは生まれつき勇
敢で、年若いうちから人々に感服され、将軍としても政治家としてもさぞや優れ
た人物になるであろうと、多くの人からも思われていたのでした。パウルスが当
惑して非常に心を痛めているのを全軍が察知し、夕食の最中でしたが人々は飛び
立って明かりを持って走り回り、塹壕を越えて死体の間を探しました。陣営には
憂愁が、平原にはプブリウスの名を呼ぶ声が支配しました。
ところが夜遅くなってから、捜索の手も殆ど尽きた頃、プブリウスは二、三人
の仲間と一緒に戻って来て、一度は死んだものとあきらめたパウルスと、陣営の
人々を喜ばせました。このプブリウスこそが、大スキピオの養孫となり、カルタ
ゴとヌマンティアを破壊してローマ最高の有力者となるプブリウス・コルネリウ
ス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス・ミヌス・ヌマンティウス、即ち
小スキピオでした。
この戦いでマケドニア軍は大損害を被り、見切りを付けられたペルセウスは後
に部下の裏切りによってパウルスの下にくだります。パウルスはマケドニア国民
に対しては寧ろ恩恵を与えてその地を去り、しかしペルセウスから得た膨大な戦
利品を少しも私することなく国庫に収めた為、ローマの民衆は前43年まで税金を
払わなくても良くなった程でした。
彼は民衆にも、かつての敵方からも尊敬され、愛され、病気で引きこもった後
も民衆の、パウルスの姿が見たいという願いにおされて儀式に出席し、もみくちゃ
にされた後家で静かに寝ているうちに、息を引き取りました。
彼は財産を殆ど残さず、葬式は質素なものになりましたがしかし、その時たま
たまローマに来ていたイベリア人もリグリア人もマケドニア人も、体の丈夫な若
者達は代わる代わる柩を担って運び、老人達は後に従ってパウルスを自分達の祖
国の恩人で救世主だとして感謝しました。
最後は、パウルスに敗れた、情けないマケドニア王、ペルセウスです。
DSSSM:dsssm@cwa.bai.ne.jp