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何の前触れもなく突然現れ、面会を求めてきた熾天使に対し、ベルゼブブがもの憂げに応じた。 「相手を間違えているんじゃないの?ルシファーならシオウルよ。あたしの毒にあたりにでも来たっていうならともかく、汚れなき熾天使様の来る所じゃないわよ」 どこか剣呑なその物腰に動じる様子もなく、彼はただ言った。 「私はあなたにお会いするため、このアルクァへ参りました。──アクシズの覇権を手にするおつもりはありませんか?」 「…なんですって?」 昆虫の如き左手を頬に寄せ、彼女──ベルゼブブが問う。 「外的干渉を許すアクシズのメガロポリスにおいて、現在軍がサタンと契約を結び、キラー衛星による地上の浄化を目論んでいます。正確には浄化はサタンの目的であって、軍はキラー衛星によって政府を抑え込んでいる、というものですが。その政府が強大な力を望んでいるのです」 ベルゼブブの居城の壁は血を思わせる深い紅だが、そこに立つ熾天使の純白の翼はあまりに不釣合に感じられる。しかしその口から発せられる言葉は、むしろこの城の雰囲気にそぐうものだ。 「所詮、望む力を使いこなせる者などおりません。彼らを接点にアクシズへの道を開くことができると思うのですが、如何でしょう?」 話の内容は彼女の興味をひくに値するものだったらしい。ベルゼブブは黙って耳を傾けていた。 少し間を置き、問いかける。 「何故あたしに話を持ってきたの?熾天使ならルシファーの方が身近なはずよ」 「彼の御人はアクシズの支配は望まれません」 「…成程、ね」 ベルゼブブが蠱惑的な笑みを浮かべた。彼女の妖艶な美しさは、すべて毒を思わせる。その虜になった者には他に類を見ない美しさであろうと、異なる者にとって毒は毒でしかない。 「で、あんたの目的は?」 発散させているかのように感じられる毒を無視しているのか、熾天使は無表情である。 「アクシズの破滅を」 「嘘ね」 「……」 言下に切り捨て、ベルゼブブが彼を見る。 「アクシズが消滅なりパラノイアの支配下に入るなりすれば、アムネジアも被害を受けるわよ」 「では言い直しましょう。人類の破滅です」 「面白いけどそれでも影響を受けるじゃない」 「トライアドから切り離せばよいことではありませんか」 ベルゼブブが目を細めた。 「人間さえいなければアムネジアは軛を断ち切るというの?」 「足かせにしかならぬ存在など不要です」 「へぇ。熾天使が人間を見捨てるの?」 「望まぬ者への助けなど無駄以外の何物でもありません」 弾けるようにベルゼブブが笑った。 「天使も利口になったじゃない。見切りをつけて己が身の保全を考えられるとは思わなかったわ」 嘲笑に応じることなく、彼は眼前の魔王に問うた。 「ご返答は?」 ベルゼブブはひとしきり笑った後、楽しそうに彼を見た。 「いいわよ。ただし、あんたが条件をのんでくれるなら」 「何でしょう?」 彼女は左手を熾天使に差し出した。 そして、艶然と微笑む。 「あたしと契約を結びなさい、カマエル。条件はそれだけ、どう?」 彼女の言う契約は、配下になれということだ。 これをのめば、彼は自らアムネジアと決別することになる。実質的にアムネジアへ帰れないわけではないが、裏切った上で彼の地を踏むことは、彼自身が許さないはずだ。 しかし、彼は躊躇しなかった。 ベルゼブブの手をとり、その場に膝をつく。 「──熾天使カマエル、これより魔王ベルゼブブが眷族となる旨、誓約申し上げる」 ベルゼブブが立ち上がった。 「熾天使の美しさがどう変わるのか興味深いわね。──ついていらっしゃい。契約後、アクシズとの交渉はあんたに一任するわ」 「…よろしかったのですか?」 カマエルをアクシズへ送った後、ベルゼブブの元へ現れた堕天使、否、魔王ベリアルが問う。 「あの男が人間を切り捨てようと企んでいるのは事実よ。熾天使らしからぬ思考だけどね」 「裏切られる可能性もありますが」 「だとすればあの男の行き先はアクシズだけよ」 「……」 無言のいらえは逆に何かを訴えるように感じられることがある。 ベルゼブブが配下の魔王に目をやった。 「言いたいことははっきり言って。あたしの性格はわかってるわね?」 「私は、あの熾天使が信用なりません」 「だから契約で縛ったのよ。天使は汚れを厭うわ。それも本能的に。どれほど側に置きたくても、許したくてもできない相談よ。その証拠がシオウルじゃないの?」 堕天したルシファーは、決して自らアムネジアへ足を踏み入れることはない。ミカエルもまた然りである。 目指すところは近いはずなのだ。しかし決して手を取り合うことはない。道を分かってしまった以上、ミカエルはルシファーを受け入れることができないのだから。 しかし、互いに認めあっているのは事実である。 「まぁそれぞれの思惑次第で状況も変わるけれど、カマエルなら無用の心配よ。それよりあんたはゲーを離れていいんでしょうね?今はあたしたちが優位とはいえ、祖神たちはパラノイア各所を狙っているのよ。小さな亀裂は一枚岩を壊しうる元凶になる」 「その点はご心配なく」 「そう。なら、いいわ」 言うと、ベルゼブブは中空を眺めた。 「…面白いことになってきたじゃない」 呟きに応えはなかったが、ベリアルが頭を下げたことが彼女にはわかっていた。 パラノイアの要所を押さえる魔王や堕天使たちが慕うベルゼブブは、彼女自身の野心の成就に向け、行動を起こしたのである。 |
最高評議会への交渉に、支障は何一つ出なかった。 カマエル──ベイツが考慮していた方策を施す必要が皆無だったのだ。拍子抜けしたというよりも、ここまで堕ちたか、という感情を抱いた。 ベルゼブブは嘲りも露だったが、評議会メンバーがそれに気づいたかどうか。 ベイツはこの功績により、評議会において諜報部の肩書を手に入れた。これで評議会内での足場を確保したことになる。 またベルゼブブはバエルを評議会に送り込んできた。評議会は異を唱えるどころか歓迎したと聞く。 これで、現状は膠着した。 評議会と軍部、双方が強大な悪魔をバックに様子を窺っている。 ──問題は、この後だった。 既に選んだ人間を、いかにしてこの時代に喚ぶべきか。 ミカエルの望んだ事態を収束させる人間として、カマエルは武内直樹という人間を選んだ。偶然とはいえ“DIO”を開発した科学者の息子である。武内博士自身が一番の適任者なのかもしれないが、彼はA.D.1995において研究所の爆発に巻き込まれて死亡している。 また武内直樹に“DIO”についての知識を得させる必要もある。 その上でこのA.D.2052の現状を見せた時、彼がどう行動するのか──真にミカエルの望む流れを作り出しうるか。 更に彼が“DIO”を使いこなせれば申し分ないのだが…。 時間軸を超えるため、FASSのシステムをディスクに収めてある。実物は実質的に所持できず、向こうで新たに造らなければならないのだ。 どの時代に行くべきか、というのも問題だった。 東京の治安が悪化してからでは、肉体的に不都合が出る可能性がある。しかしそれ以前では平和ボケした頭の中に、事態の重大性が理解できるだろうか。 その時、彼の見ていた画像モニターの画面切り替わった。警報装置が作動したようである。 現在ベイツは諜報部の彼専用のモニター室にいる。 ここでは、C.A.D.の国家機関情報管理室、もしくはその端末機を設置しているコンピュータへの侵入者がいた場合、すぐに警報で知らされる。またここでなければ侵入者を知ることができない。 彼自身はこの部屋と繋がっているハンディモニターを所持しているので、侵入者に関しては確実に認識できる。しかしそれ以外の人間には、侵入者を察知する術がない。この評議会に入り込んだ直後、彼がそのようにプログラムを設定し直した為である。 この時代、この状態では行動を起こす者など有り得ないとは思ったが、万一を考えて布石を打っておいたのだ。 端末機から読み取ることができる情報は、データ管理室の本体から見れば微々たるものである。また、本体への接続自体が遮断されており、それ以上の情報は引き出せない。しかし、評議会内部のコンピュータに直接接しなくては、その情報すら得られないのだ。 データ管理室に手を出せる者はまずいないのだが、端末機を設置しているコンピュータルームへの侵入は不可能ではない。ただ少し手強い悪魔が配置されているので、あえて手を出す者はいないはずだった。 画面に映っているのは、一人の秘書官である。 ベイツ傍らのカーソルを叩き、画像の消去を命じた。これで画面上の彼の侵入の痕跡は消せるはずだ。 作業を終えると、彼は足早に部屋を出た。 悪魔に関しては補充すればすむことである。人間を見張りに立てていれば、侵入の痕跡を消すのは難しい。それもまた悪魔を見張りに立てた理由の一つだった。 警報の電波は捉えにくい周波数になっている。しかし常識的に考えれば、警報が作動していることは侵入者も承知の上のはずである。 にも関わらず、この秘書官は警報に注意を払うことなく情報を引き出していた。 警報に気づいていないならばただの愚か者である。あえて無視しているならば、自分の正体を隠すつもりはない、ということだ。 ──この男は、後者だ。 直感だったが、ベイツは真実だと確信していた。 この状況を打破しようとする者がいたとは、心外だった。彼が警備システムに手を回したのはあくまで万一を考えたためであり、実際に使う必要が生じるとは思っていなかったのだから。 そして姿を隠さなかった彼が、何らかの賭けに出ることも推測できる。賭けの対象が現在なのか過去なのか、答えはすぐに導きだされるだろう。 コンピュータルーム周辺には、悪魔の死体が幾つも転がっていた。どれも手際のよい行動だったらしい。室内の男の腕の高さをベイツは確認した。 この予定外のファクターが、渦を作り出す。 ベイツはコンピュータルームの扉を開けた。 戒厳令の施かれている現在、評議会ビルに立ち入ることは難しい。しかしその中で、ビル内の一室にてコンピュータを操作している者がいる。 解除できるプログラムをすべて解除し、ある程度の情報を引き出せたところで、彼はデータをダウンロードした。 男が隣室へ足を向けようとした、その時。 「この状況でここへ現れるとは度胸がありますね、荻原秘書官」 即座に室内の人影が反応した。 戸口に立った男は己に向けられた銃口を一瞥し、続ける。 「長官秘書の貴方にしては、愚かしい行為では?」 「……」 「長官のお言葉に従えば、貴方個人が害を被ることもないでしょう」 「恨み言はあの世で聞く」 構えた銃の引き金に力が込められようとした瞬間、標的となっていた人物が懐から何かを取り出した。 「これが“DIO”の実物です」 荻原の動きが止まった。 男の手にあるものは、なんの変哲もない薄い手帳のように見えた。だが布には有り得ない硬質の輝きが、荻原の目を捉える。 「これを調べるも利用するも結構です。お好きなように」 泰然と言葉を継ぐ男に対し、荻原は初めて問いを発した。 「君の目的は何だ?」 侵入者を他者へ報せる手段はいくつかある。だが、男がそれを行った形跡がない。今後も有り得ないという保証はないが、得られる情報は集めたいというのが荻原の本音だった。 男はサングラスを外し、澄んだ瞳で彼を見た。 「私は評議会や軍がどうなろうと構いません。街がどのようになろうとも一切感知するつもりもありません。ですが…」 わずかの間、言葉の流れが止む。 「現状が好ましくないこともまた事実です。私自身は自発的に関与したくはありませんので、現状打破を考える人間を探していた…というわけです」 「諜報員はそれに都合が良いということか」 「貴方が真に流れを変える、ということであればご協力いたします。如何ですか?」 張り詰めた空気の中、時間だけが流れる。 やがて、荻原が銃を持つ手を下ろした。 「…流れを変える、か。大層な言葉だが、HELIOS発射の回避と上層部への悪魔による干渉の排除はそれに繋がるのだろうな」 ひどく落ち着いた荻原の言葉だった。 「ベイツ、私はこれよりA.D.1995へ向かう」 「…目的は何でしょうか、荻原様」 「“DIO”の抹消と…開発者の殺害だ」 |