偽りの夢 メシア教徒たちの神聖なる大聖堂、カテドラル。 長い時間をかけた建設を無事終えたまでは良かったが、神を迎え入れるはずだったこの大聖堂へ、それを阻むカオス勢力とガイア教徒たちの侵入を許してしまったのである。 広大なカテドラルは、メシア教徒とガイア教徒が内部を二分する形となっていた。 双方が手を出せぬままの危うい膠着状態に陥った現在、メシア教徒に代表されるロウ勢力とガイア教徒に代表されるカオス勢力は、微妙なバランスを保っている。 そんな中、品川からここカテドラルへと移ってきた『彼』は、続々と集いつつあるメシア教徒たちに神の言葉を伝え、人類の代表として大天使たちの命を受けるという多忙な時を過ごしていた。 滅多に一人になることはなかったが、たまにそういう時間が出来ると、彼は側に仕える者を下がらせ、あてがわれた部屋に籠もるようになっていた。 今し方、そういった時間を得た彼は、一人で部屋に残っているのだ。 本来休息をとるための時間であるはずだが、彼のそれはただ行動の狭間というだけの意味しか持たない。為すべき事は多々あるのだ。休んでなどいられるはずもない。 それでもメシア教徒の信者たちがメシアたる彼を気遣うため、せめて形だけでも休息をとっているように見せるべく、一室に引き籠もっているという意味もあった。 自分があるのは神の御力。その意に添うことだけが己に課せられた役目なのだ。 ふ、と眼前の空気がゆらめいた。 やがて、『それ』が一人の少女の姿をとる。彼にはもう見慣れた少女だった。 肩の上で切りそろえられた髪。ブラウスにタイトスカート、上着の替わりに少し厚手の服を羽織っている。涙にぬれた大きな瞳が、悲しげに彼を見つめていた。 その口が言葉を紡ぐ。 『ケイイチ、思い出して……』 彼が困惑と訝しさをおりまぜた表情を向けた。 「君は、一体誰なんですか?」 少女が涙を流す。 しかし、彼にはその理由がわからない。だから、困惑する。 けれど、彼女を見ていると、どこか暖かい気がするのだ。魂が温度を持つわけがないのだが、そう感じられる。 理由はわからない。 彼がそっと手を伸ばす。実際に触れることは叶わないが、少女の頬の涙をぬぐおうとするその仕種に、彼女は驚いた顔を見せる。 「どうすれば、泣きやんでくれますか?」 少女は切ないほど一途な瞳で彼を見つめている。そして、頬に当てられた彼の手を両手で包み込むように握りしめた。 しかし、本当に触れているわけではない。 それがひどくもの悲しく感じられる。 突如、少女の姿がかき消えた。 だが、彼は驚きはしなかった。原因はわかっているのだ。 空に浮いた右手をそっと下ろしたところへ、ノックの音が響く。 少女と相対しているうちに、我知らず柔らかくなっていた表情が、冷たく凍る。 ノックに応えた彼は、既に普段の感情を伺わせないメシアの顔となっていた。 扉を開けたメシア教徒の青年が、うやうやしく頭を下げる。 「メシア様、お時間です。大聖堂へお出まし下さい」 「わかりました」 彼――圭一は立ち上がる。 そして、役目を果たすため、大聖堂へと向かった。 |
四方に配置され、生み出す結界によって街を守護していた四天王が打ち倒された直後、トウキョウは大洪水に見舞われた。 高くそびえ立つカテドラルと高層ビルの一部、都庁や東京タワーを除いたすべてが、一瞬にして水没したのである。 多くの人間が犠牲となった結果が、今、彼の眼下に広がっていた。 しかし、水底に沈んだ街は、不思議なことにひどく美しいもののように見える。 無論この大洪水によって、街で生活していた大半の人々が犠牲になったのは周知の事実である。また、一度破壊された街が容易に以前の姿を取り戻すはずもなく、ゆるやかな復興の途を辿りつつも、すさんだ街の薄汚れた様相は変わることがなかった。 しかし、その姿もまた、大破壊を乗り越えて僅かに生き残った人々が、必死に生きてきた証だったのだ。 それが一瞬にして崩れ去った。 だが、水面というフィルターを通して見える街は、決して手に届かない故か、作り物めいた美しさを見る者に感じさせる。 実際には薄汚れた壁や割れたガラス、倒壊した建物ばかりだというのに、水はそれらを浄化して見せることが出来るのだろうか。 一瞬にして多くの生命が失われたのは、大破壊に次いで二度目になる。 大破壊の時は、それを目の当たりにせずに済んだために、現実味を感じなかった。しかし、同じ時間の上で起きた災害に対しても未だ実感が伴わず、彼はただ眼前に広がる大海原を眺めていた。 金剛神界から帰還した後、三人で旅していた短い間に、街で生きていた人々の姿を見た。 ……遙か彼方の記憶のように感じられるけれども。 もしも、皆が神を敬い信じていたならば、このような悲劇は免れたのだろうか。 彼はそっと目を伏せた。 「神を信じ、救いを求めていたならば、差し伸べられる手があったものを……」 「死んだ奴らの中には、そのメシア教徒もいたんじゃねぇのか?」 侮蔑も露なその声に、彼――圭一は振り向いた。鋭い眼差しは、能面のような表情に冷徹さを醸し出す。 「阿修羅王のもとへ去ったのではなかったのですか?」 「そりゃこっちの台詞だな。大天使様の所に行ったんじゃなかったのかよ」 「君には関係ないでしょう」 感情の伝わらない声を、少年――司は鼻で笑う。 「大したもんだな、カミサマってのは」 「神を侮辱することは許しません」 「主人を嘲る輩は捨て置けねぇってか」 圭一の冷たい視線を嘲り言い捨てると、司は眼下に広がる水面へと目を向けた。 「三十年の復興もこうなっちゃぁ無意味だよな。ま、俺たちは少し前に戻ってきただけだけどよ」 「それらもすべて、お考えあってのことでしょう」 「……本気でそう思ってんのか?」 どこか寂しげで悲しみをにじませた圭一の声音に、司が眉をひそめる。 「本気とは?」 圭一が冷徹といえなくもない顔で彼を見やった。 突然現れた司がガイア教徒の中でもかなりの位置にあることは、圭一の耳にも届いている。共に旅していた頃とは出で立ちも変わっていたが、それは圭一も同じ事だ。 司の背後にそびえ立つのは、白亜の巨大な聖堂、カテドラル。長く噂でしか聞いたことがなかったこの建造物は、今の圭一の活動拠点である。 しかし。 眼前の景色は、手を伸ばせばすぐに届くものであるはずだが、薄い膜がかかっているように、現実味が感じられない。そんな錯覚に、圭一は内心でわずかに戸惑っていた。 理由が、わからない。 司が舌打ちをした。 「変わったな、お前」 忌々しそうな彼の口調に、圭一もまた不快感を露にする。 「それはお互い様でしょう。君はあの時、人間ではなくなったではありませんか」 「……ああ、確かにな」 司の一瞬の沈黙に圭一は怒りの気配を感じたのだが、間を置かずに彼が発した声は、思いの外冷静だった。 「俺は悪魔の力を手に入れた。だが、おまえも人間じゃない」 「どういう意味です」 「言葉通りだよ。意志を持たない人形は人間とは言わねぇだろ」 圭一の瞳が鋭さを増した。 刹那。 「っ!」 司は地を蹴り、その場から飛び退いた。 彼の元いた場所を衝撃波がえぐる。そのままでいたならば、無事では済まなかっただろう。 「ご挨拶だな」 剣呑な顔を向けた司を横目に、圭一は冷たく言葉を継ぐ。 「破魔を唱えなかっただけありがたく思うことですね」 人間にはほとんど効果の見られない魔法だが、人外の存在となった司にとって破魔の魔法は脅威となる。まともに食らえばただでは済まない。後遺症を伴うダメージを受ける可能性もあるのだ。 「そうかよ。じゃあ、きっちり返しておかねぇとな」 司の腕を炎がまとう。直後、その炎が圭一に襲いかかった。 素早い身のこなしでそれを避けた圭一は、変わらぬ視線を司に向けている。 その瞳に苛立ちを感じたのか、司は忌々しげに言葉を吐いた。 「面倒だ、ここで決着をつけてやる。あの時の借りも返してなかったな。…どのみちメシア教徒は根絶やしだ」 好戦的な司の台詞に、圭一は敢えて異論を唱えなかった。 「いいでしょう。僕も救世主として、君たちのような悪魔をのさばらせることはできません」 司が刀を抜く。 圭一は呪文を詠唱し、同時に指で宙に魔法陣を描き出そうとした。 司の口元に、好戦的な笑みが浮かぶ。 「減らず口も今の…」 不意に、司が口を閉ざした。 片方の目をすがめる様子は訝しげで、その眼差しは圭一──否、彼のやや隣に向けられている。 不自然に動きを止めた司を見返す圭一もまた不審げな表情を浮かべた。 やがて、司が苦虫をかみつぶした顔で刀を下ろす。 「怖じ気づきましたか」 冷ややかな圭一を睨めつけ、司は吐き捨てた。 「お前を倒したところで意味がねぇんだよ」 先程までの司のむき出しの敵意が消えていた。いつしか圭一も魔法陣を描いていた指を下ろしている。 長く感じられる沈黙の後、ひとつの質問が彼の口をついて出た。 「……どういう意味です?」 司は一瞬鋭い痛みを感じたように眉を寄せたが、そんな己自身に苛立ったように、言い捨てる。 「焦る必要はないさ。このカテドラルはいずれ俺たちが支配するんだからな」 「負け惜しみと取られても仕方のない言葉ですね」 静かであるが故に気持ちを逆撫でする圭一の口調に、司がやや声を荒げた。 「今のお前じゃ意味がねぇんだよ。……あの時の借りを返すならな」 圭一の表情が動いた。 しかし、質問の暇を与えることなく、司は姿を消す。 圭一はしばし彼のいた場所を見つめていたが、やがてきびすを返した。 「確かに、時間がないことは事実ですね。ミカエル様にご指示を仰がなくては…」 そして、メシアの表情を貼り付けたまま、圭一もまたカテドラル内部へと戻っていった。 上滑りする言葉、心に届かない声。 カテドラルでその姿を見て以来、頭を離れなかった疑問の答えは、思いがけぬ形で現れた。 司が刀を抜いたあの時、圭一の傍らに突如出現した少女の幻。 『……ケイイチ……』 少年の名を呼んでいたが、当の本人はそれに気づく様子もなく、司の挑発を受けて戦う素振りを見せていたのだ。 ──圭一が捜し求め、六本木でようやく再会できた少女。 名前は、マヤと言ったか。 出会った時、牢に囚われていた少女の身体は、屍鬼と化していたのだ。おそらくあの後、少女の肉体を偽りの生から解き放つことができたのだろう。 だが、何故彼女は圭一の側にいるのか。 そして、救世主となった圭一の変貌。 ……導き出された結論は……。 「ふざけやがって」 低い声がこう呟いた直後、強い力で何かを叩く音が辺りに響いた。抑え切れぬ怒りを滲ませ、司は中空を睨みつける。 「所詮てめぇらにとっては人間なんざ玩具でしかないんだろうよ」 遙かその先、カテドラル最上部には、神の忠実なる僕たる大天使が降臨しているのだ。 「貴様らの思い通りになってたまるか。……必ず潰してやる。何もかもな」 見えぬ敵にこう宣言すると、司は階下へと足を向けた。 |
都庁で争っていた二大勢力それぞれの長、ヴィシュヌとラーヴァナ。 神の降臨を待ち望む大天使たちは魔神ヴィシュヌへ、それを阻止しようとする魔王たちは天魔ラーヴァナへ、双方が助力しようとしていたのだが、それらは全て、ただ一人の人間の手により、覆されたのである。 その者の名は真哉。彼は悪魔を従える力を持つ、悪魔使いだった。 そして、彼はメシア・圭一の生前の友であり、仲間でもあった少年だ。それは、今、圭一の前に立つカオスヒーローこと司も同様である。 だが、今の彼らの間には、決して越えられぬ深く広い亀裂が生じていた。 LAWにもCHAOSにも属さない、イレギュラーな存在となった少年。 多くの敵を屠りながら尚、迷いを抱えた瞳を持つ者。 己の持つ力に戸惑い、苦しんでいるであろう少年。 ──道なき所に道は存在しえない。 在るべき道を進むのが人間の生きる姿なのだと、それに気づくことが出来たなら。 彼もまた、苦しみから解放されるはずである。 神の教えに身を委ねれば……。 「違う」 真哉は悲しげに、けれどきっぱりと言ってのけた。 「僕はメシア教の教義に納得することは出来ない。今までも、これからも」 「それは君が神の本当の姿を知らず、声を聞くことが出来ないからです」 「そうじゃない」 優しく諭そうとする圭一へ、真哉は頭を振った。 「僕は何もかもを他人に預けて、肩代わりしてもらいたいとは思わない。そんなものが欲しいんじゃない」 「真哉君?」 「一緒に旅をしていた圭一なら、良く知ってるはずだ。あの頃の圭一ならそんな事は言わない。…無駄だって、わかってるはずなんだ」 「何を…」 共に旅をしていた頃。もはや、遙か遠い過去のように感じられる、記憶。 確かに、救世主として生きている今とは、価値観も変わっているはずだ。 あの頃は、メシア教の教義を深く理解していなかった。別のことで、頭が一杯で……。 ──別の、事……? 自分が旅をしていた目的は、何だった? 思い出せない。 ──否、今は、そんなことに囚われている時ではない。 この少年は、ヴィシュヌを殺めた。神の降臨を妨げた者──排除すべき存在となったのだ。 「ともかく、君がヴィシュヌ様を殺めたのは変えようのない事実です。君のその力……正しい使い方を知ってもらえなかったのは残念です」 「正しい使い方?」 圭一の言葉の何かが真哉の逆鱗に触れたらしい。彼は表情を一変させた。 「お前をそんな風にしたメシア教徒に肩入れしろって言うのか!?」 怒りも露わな真哉の様子に、圭一は困惑を隠せない。 「君が何故怒るのか、僕には理解できませんが……仕方ありません。もはやこれまでです」 「圭一!」 真哉の魂切る叫びにも似た声を背に、圭一はカテドラルの奥へと姿を消した。 |
「メシア様の仮面は剥がれない、か」 「司……」 「六本木で、死んだんだってな」 「……ああ」 「カミサマがその心を憐れんで、生き返らせたってか」 揶揄もあらわな司の言葉に、真哉は唇を噛む。 司が片方の目をすがめた。 「真哉」 先程とはやや異なる声音に、真哉が顔を上げる。 司は圭一の佇んでいた場所に目を向けたまま、言葉を継いだ。 「お前、気づいてたか。あれ……」 「え?」 顎をしゃくる司の視線の先を真哉のそれが追う。 しかし、そこには何もない。白亜の壁が広がるばかりだ。 司は鼻を鳴らすと、投げやりな口調で言う。 「いや、何でもねぇよ。大体、仲良く話してる場合じゃなかったよな」 この言葉に、真哉が我に返った。 司は怒りを隠そうともせず、真哉を睨め付ける。 「まさかラーヴァナを殺すとは思わなかったぜ」 「司……」 「今更仲良しごっこができるとでも思ったわけじゃねぇだろ。昔のよしみで今まで大目に見てきたが、それもこれで終わりだな」 真哉が目を伏せる。 「後悔したくなかったんだ。どちらにも協力する気はない。納得できないことには従えない」 これは、真哉の本音だった。メシア教はもとより、ガイア教徒の言葉にも疑問を感じている彼にとって、どちらも肯定することはできない。それゆえに導き出された答えだ。 「言うじゃねぇか」 意外なことに、司が笑みを返してきた。 これまで、口にすることを避けてきた言葉だけに、断言することは躊躇われたのだ。司の進んだ道を拒絶したことにより反発を受けると覚悟していたが、むしろ司はどこか楽しげでさえあった。 「いつも答えを避けてたな、おまえ」 「……」 「圭一にでも言わせりゃ、優しいってのかもしれねぇが、ただの臆病者だ。自分の意見を持たずに何もかも迎合して終わりなんてふざけてるだろうが。お前のそういう態度がムカついてたんだよ」 「…司…」 「ハナから白黒はっきりさせりゃ、こんな厄介なことにはならなかったろうぜ」 「……」 「──お前も俺も、な」 真哉が目を見開く。 ……この言葉は、かつての仲間を突き放せずにいた己自身に向けられているのだろうか? 都合のいい解釈なのは百も承知だった。だが…。 ふ、と司が口元を歪めた。 「まぁ、いいさ。これでお前も相応の覚悟はできたってわけだ。なら、今度会う時には、それを見せてもらうぜ。あのラーヴァナさえ凌駕したお前の力をな」 「司……」 皮肉げな笑みを口元に浮かべ、司はそのまま姿を消した。 その場に取り残された真哉は深い息をつく。 彼の二の腕に、暖かなものが触れた。 「真哉」 それまでのやりとりの間、一切口を開かなかった少女──舞夜が、そっと少年の顔を見つめている。 真哉は一度だけ固く目を閉じ、ゆっくりと開いた。 その瞳に浮かぶのは、ひとつの決意。 「行こう、舞夜」 「ええ」 力強く頷く少女の手を取り、彼はカテドラルの奥へと進んでいった。 その手で、全ての決着をつけるために。 |