──振り下ろされた刃。 避けきれなかった身体に、衝撃が走る。 灼けつくような熱さを感じた。痛みよりも熱が神経を駆け抜ける。 身体が熱い。むせ返る程のひどい臭いに、息が出来ない。 灼かれたのかと錯覚する中で、腕にしたたる温かな液体が、己の身体を染め上げていくのがわかった。 息苦しいほどの臭いは、鉄のサビにも似ていた。喩えるなら、身体に焼けた鉄を押しつけられた…そんな所だろうか。 自分が斬られたのだと認識するまで、わずかに時間を必要としたのは、それが有り得ぬ事だと確信していたためか。 「……そんな…どうして…?」 唯一無二なる御方に仕え、その責務を全うすべく、救世主として生きていた。 なのに何故、その自分がここで殺されねばならないのか。 自分に駆け寄ってきたのは、見知った顔の少年だった。 生前、共に旅をし、助け合った少年。 彼は常に進むべき道を模索しているようだった。 迷いに満ちた彼を放っておくことが出来ず、何とか目を覚まさせようとした…。 しかし、幾度も彼と話したものの、結局は理解されず、刃を交え…倒れたのは、彼自身だったのだ。 身体が揺れた。幾度も揺れた状態により、真哉が彼を抱き起こし、揺さぶっているのだと気づく。 道を分かち、交わることが出来ぬまま、ここで決着をつけるために対峙していた相手。 そう、この少年は千年王国建設を阻む、神の意志に背く存在だ。 しかし、彼自身は神の命じるまま、救世主として生きていたのではなかったのか。 神の加護があると確信していたからこそ、他者が誤っているのだと。自分と同じ道を進むよう、説いてきたはずだった。 幾度も呼ばれる名前。その声よりも、今は自分の身に起こっていることが信じられない。 「僕は…神に…選ばれた……はず……」 救世主となったのは、人に教えを説くため。 そして、この場で戦い、礎となるためだったというのだろうか。 そう、彼は選ばれたのだ。──生贄となるために。 圭一は目を見開いた。 全ては神の思し召しだと、そう言ったのは己自身。 それを体現したのもまた、圭一自身だったのだ。 「…そうか…ぼくは……」 必死になって彼の名を呼ぶ声に、圭一はようやく重い瞼を開いた。 勝利したはずの少年が、涙を流している。 自身が全てを失おうとしているかのように傷ついた瞳で見つめられ、圭一はそれが己に向けられたものだと理解する。 「…いけにえに…すぎな……かっ……」 「圭一っ!!」 もはや、声は届かない。 何かを言っているのはわかっても、言葉の意味を判別することが出来なくなっていた。 |
――ケイイチ……。 かすかに聞こえる、けれどもはっきりと意味が伝わる声。 おぼろにかすむ頭の中で、彼は声の主を探ろうとした。 『じゃあ、明日、新宿アルトで十時半ね』 軽やかで浮き浮きした声が、先程彼の告げた時間と場所を繰り返す。 『そうだ。この間おいしいケーキのお店見つけたの。圭一は甘いもの大丈夫だよね?』 電話の向こうにいる相手の表情を想像し、彼は思わず笑ってしまった。 それを耳ざとく聞きつけ、少女が聞き返す。 『何?』 『いや、別に。楽しそうだなと思って』 『……圭一は、楽しくないの?』 ふ、と電話の向こうが静まり返った。 一瞬の間を置いて返されたのは、意外にもひどく小さかった。元気のない、頼りなげな声である。 打って変わったその様子から、彼女の抱く不安が伝わる。相手に見えないと解っていながらも、圭一は首を横に振った。 『もちろん、僕も楽しみだよ。今は麻弥のはしゃいだ声が聞けるのが嬉しいな』 再びの沈黙。不自然な間が続き、彼は相手の名を呼んでみた。 『麻弥?』 『〜〜もう、圭一ってば口がうますぎるよ〜〜〜』 どうやら嬉しさと恥ずかしさで口ごもってしまったらしい。そんな少女の顔を想像した彼は、自然と口元に笑みを浮かべていた。 『じゃあ、明日』 『うん、また明日ね』 いつもと変わらない約束。 けれど、それが果たされることは、なかったのである。 ──圭一……。 |
懐かしい声に誘われるように、彼はゆっくりと目を開けた。 淡い輪郭はおぼろげだ。けれど、今の彼にははっきりとその姿を捉えることができた。 『麻弥……?』 圭一の口が淡く言葉を紡いだ。現世に身を置く大半の者には聞こえるはずのない、けれども彼の望む相手には確実に伝わる声で。 少女の顔が歪んだ。 だが、苦悶のそれではない。 少女の瞳から、涙がこぼれ落ちる。有り得ぬはずの現象だが、これはむしろ彼女の感情のあらわれなのだろう。 嬉しさと安堵の入り交じった表情で、少女は彼の胸に顔をうずめた。 『圭一……!!』 震える肩にそっと手を伸ばす。以前は透けてしまったはずの身体の感触を得られたのは、自らもまた同じ存在になったがゆえなのだろう。 圭一は、少女を抱きしめた。 脳裏にゆっくりと蘇るのは、腕の中の少女と育んだ大切な思い出。 『ごめん、麻弥……君のことを忘れていたなんて、僕は……』 何故、忘れていられたのだろう。彼が吉祥寺で真哉と出会ったのは、この少女の姿を捜し求めていたためだったのに。 新宿へ移動してからも、結局彼女の姿を見つけられず、金剛神界の中で過ごしたわずか数日で大破壊後の三十年を飛び越え、ようやく再会できたのは六本木だった。 しかし、その時受けた衝撃はあまりに大きく、圭一は二度と六本木に足を踏み入れることが出来なかった。 ──会う勇気が、なかったのだ。 その後、圭一は彼女の求める『反魂香』を探すという名目で再会を引き延ばし……そのまま命を落としたのである。 彼女は、ずっと待っていたというのに。 そして、死して尚、彼の元に留まっていたのだ。 『ごめん……』 圭一の腕の中で、麻弥がかぶりを振った。そして、顔を上げる。 『いいの。思い出してくれたから』 そして、少女は小さく微笑んだ。 ……最後に彼女の笑顔を見たのは、いつのことだったろう。 大破壊と転生を経た、あまりに長い時間……。 少女にそっと微笑みかけ、圭一は視線の先を転じ、真哉を見た。 つい先程まで両腕に友の亡骸を抱え、慟哭していた少年は、呆然と彼を──彼らを見つめている。 どうやら、彼にも幽体となった二人の姿が見えているらしい。 「圭一……」 『僕が見えるんですね、真哉君』 「……ああ、見える。麻弥も、いたんだな……」 少女もまた真哉を見た。そして、小さく頷く。 『すみませんでした、真哉君』 真哉が目を見開いた。 「覚えてるんだな?麻弥の事も、昔のことも……」 圭一は無言で頷く。 『今、肉体を失って初めて思い出したんです』 真哉は口ごもり、わずかに躊躇して、もう一つ問いかけた。 「メシアだった頃の事は……」 気遣う少年に、圭一は目を伏せた。 『覚えています。復活したあの時から、つい先程のことまで、すべて…。すみませんでした、真哉君』 真哉は力無く首を横に振った。 「謝らないでくれよ。本当は、僕の方がずっと謝りたかったんだ。あの時、僕を庇わなかったら…圭一は死なずにすんだのに」 力無く呟く声に悔恨をにじませ、真哉は俯いた。その腕には、緋に染まった圭一の骸を抱いている。 もはや戻ることのかなわぬ自身の骸を見下ろし、圭一は首を横に振った。 『いいえ。僕はそのことを後悔していませんよ』 「圭一……」 『むしろ、君に……余計につらい役目を負わせてしまいました。決して癒えない傷を与えてしまったことが、申し訳ないんです』 記憶があったなら、止まることが出来ただろうか。 操り人形として踊らされることなく、彼自身の生を全うできただろうか? 『司君は、気づいていたんですね』 何に、とは言わなかったが、麻弥に向けられた圭一の瞳がそれを物語っている。 麻弥は瞳を曇らせた。 『あの人、見えてたと思う。私に気づいてくれてたから……』 麻弥の肩に手を乗せたまま、圭一は呟いた。 『──司君の言葉は正しかったと思います。ずっと側にいてくれた麻弥に、僕が気づかなかったなんて……』 「あいつは、あいつなりにわかってたんじゃないかな。だから尚のこと、メシア教徒を、大天使たちを憎んだんだと思うんだ」 親友を気遣う真哉の言葉が圭一の心に響く。 無論、それだけではないはずだ。 だが、圭一が生前知っていた司なら。 母を失った真哉へ司が見せたぶっきらぼうな優しさを思い出す。そして、あの時、圭一に向けられた言葉を。 『そう…ですね』 圭一は顔を上げた。そして、真哉に微笑みかける。 『ありがとう、真哉君』 「圭一……」 『僕の偽りの命の鎖を断ち切ってくれたことに、感謝しています』 だから、自分を責めないで欲しい、と続けようとした言葉は飲み込んだ。 口に出せば却って相手を傷つける言葉を、敢えて言う必要はない。 『君は、自分の信じるままに進んでください。何物にも捕らわれることなく、思うままに』 泣き出しそうな真哉へもう一度軽く笑いかけ、圭一は腕の中の麻弥へと視線を落とした。 『待たせてごめん、麻弥』 『もう、いいの。たくさん待ったけど、ちゃんと来てくれたから』 伝えるべき想いを出し切った直後、ゆっくりと圭一の意識が拡散を始めた。 それは、傍らの少女も同じだったらしい。 圭一は麻弥の背に手を回し、彼女を優しく抱きしめると、最後に真哉達を見た。 『ありがとう』 最後の言葉は、彼の耳に届いただろうか。 確認することは出来なかったが、彼ならば感じ取ってくれるだろう。 そんな確信を得られることを嬉しく思いつつ、圭一はゆっくりと目を閉じた。 |
──了
<あとがき> |