かいな
腕に抱く夢




 クールの渾身の一撃がスフィンクスの翼を引き裂いた。
 永久の目が見開かれる。力無く倒れるスフィンクスを痛ましげに見つめていた彼の耳に、押し殺した悲鳴が届いた。
 純白の翼を持つ大天使が膝をつく。
 大天使ミカエルの顔が永久に向けられた。その瞳が今にも泣き出しそうな表情を捉える。
 直後、純白の羽根を撒き散らしつつ、ミカエルの姿が消滅した。
 大天使の長の消滅は、世界の行く末の確定を意味する。
 ハルマゲドンを望んだ天使たちの悲願は潰えたのだ。
 宙を舞っていた羽根が全て地に落ちるまで、誰も動かなかった。
 ──長い戦いの結末は、悪魔の勝利と天使の敗北という形を迎えた。
 だが、刹那には戦いが終わったという実感が湧いてこない。
 先程の激しい戦いの余韻もさることながら、何よりも……。
 やがて、大天使を倒した魔王は、深く息をついた。ゆっくりと残された少年を振り返る。
 敵を屠ったクールもまた、味方を失った少年を見つめていた。
 彼は、頭を垂れて佇んでいる。
「永久……」
 刹那は弟の名を呼んだ。しかし、後が続かない。
 天使の選択を受け入れた永久は、天使側に残された唯一の人間なのだ。
 永久は、ふらりと足を踏み出した。
 翼をもがれ、絶命したスフィンクスの傍らに膝をつく。
「やっぱり、兄さんにはかなわないんだ……」
 言いつつ、少年は寂しげにスフィンクスの鬣をなでた。
 力無く肩を落とした弟の姿は、ひどく弱々しい。 
「永久」
 うなだれていた少年が、顔を上げる。
 小柄なその姿が普段より更に小さく感じられ、刹那は泣きそうになった。
「もう……いいんだ。終わったんだ。帰ろう」
 口に出した言葉をかみしめる。
 そう、一緒に帰るのだ。そのために、今まで魔界を旅してきたのだから。
 しかし、差し出された手に、永久が泣き笑いのような表情を返した。
「駄目だよ、兄さん。だって……」
 ぐらり、と永久の身体が揺れた。そのまま、スフィンクスの上に倒れ込む。
「永久!!」
 刹那は弟に駆け寄り、その身体を抱きかかえた。
 名前を呼びながら身体を揺する。しかし、全く反応がない。
「父さん、クール!」
 二つの影を振り仰いだその時、刹那の身体が淡い光に包まれた。
 白く輝く光、凛とした気配を伴う高貴な輝き……。
 光はすぐに収まったものの、刹那は己の中に奇妙な違和感を感じ、両手に永久を抱いたまま自分の身体をざっと見渡した。
 しかし、特に変わったところはない。
「天使の力だ」
 深い声に弾かれたように刹那が顔を上げる。
「父さん……?」
 もの問いたげな視線を受けつつ、ルシファーは片膝をつくと永久の額に手を伸ばした。
「お前が我らの代弁者として立っていたように、永久は天使達の代弁者となった。お前たちは、おのおのがデビルとエンゼルの血を引いている為、その瞬間に、それぞれの長たる我らと強い魂の結びつきを得たのだ。故に、ミカエルの消滅は永久の死に繋がった。永久の生まれ持っていた力は親であるミカエルの元へ還元される筈だが、ミカエルが消滅した今、血の繋がりを持つお前の中にその力が受け継がれたというわけだ」
「……死んだって……嘘、だろ?」
 後半の話はほとんど刹那の頭に入らなかった。ただ、死という言葉だけが明確に刹那の脳裏に刻まれている。
「なんで……なんで、永久が死ななくちゃならないんだよ?」
「…………」
「だって、永久は誘拐されて……確かに魔界で天使の代弁者になっていたけど、でも……」
「この戦いでは、皆、それぞれ己の信念に命を賭していたのだ」
「だけど永久が死ぬなんて!」
「先程の戦いに敗れたならば、お前が死んでいたのだぞ」
 虚を突かれたように、刹那の叫びが途切れた。
「……だけど……」
 死というものを、こんな形で目の当たりにするとは思っていなかった。
 刹那は唇をかむ。
 最初から、諦めれば良かったのだろうか。
 神社で永久と対峙したあの時、幼い少年は既に天使と共に進むことを決めていた。
 天使の起こそうとしたハルマゲドンを、ただ黙って見ていれば良かったというのだろうか。
 ――言葉が出てこない。
「刹那。お前は魔界や地上世界の一掃を望むのか?」
 ひどく静かな、声だった。
 刹那は無言で首を横に振る。
 堕落しているという見解で街を破壊した天使たち。その行いは許せなかった。
 みんながそれぞれに生きる世界になってほしいと思った気持ちに嘘はない。
 だが――
「こんな結果を望んでいたんじゃない……」
 刹那は永久の亡骸を抱きしめた。
 その胸に顔を埋める。
「……一緒に、帰りたかっただけだ……」
 刹那の身体が小刻みに震えた。
 まだ温もりの残る弟の身体は、もはや二度と動くことはない。
 それが、信じられなかった。
 力無く目を閉じた顔に、いつもの少し拗ねた表情が重なって見える。
 永久がよく兄に見せた不満げな顔は、甘えの裏返しだった。
 幼い頃に母を亡くした刹那たちは叔母夫婦に引き取られた。仕事で多忙な叔母夫婦はよく家を空けていたが、それはそれで仕方のないことだった。特に不満を覚えているわけではない。
 だが、それゆえに刹那と永久にはこの世で二人きりの兄弟という気持ちが大きく、互いにしか見せない感情がある。永久の拗ねた表情も、そのひとつだった。
 不意に、刹那は力の発露を感じた。 
 永久の額に触れたルシファーの手から、なにがしかの力が発せられる。
 直後、弟を抱いていた刹那の両腕がはじかれた。
「な……!?」
 彼の腕を拒絶した弟の身体は、横たわっていた姿勢のまま、地面に落ちることなくその場に浮かんでいる。
 ありえない光景に呆然とした刹那は、すぐにその原因となった存在を仰ぎ見た。
「父さん!?」
「永久の周囲と我々の空間を切り離した。仮死状態のまま肉体の劣化を防がねばならんだろう。私にできるのはここまでだが」
「どういう……事?」
 かすかに宙に浮いたままの永久の姿を一度見やり、改めて刹那は父である大魔王へ視線を移す。
 ルシファーの深紅の瞳が息子のそれを捉えた。
「今お前の中に在るエンゼルの力は今後不要なものだろう?」
 わけがわからないまま、刹那は頷く。
「ならばその力、永久に返せば良い。失った力を取り戻せば、再び命の炎を灯すことができる。但し」
 刹那の瞳に希望が宿る。だが、ルシファーは安易な期待を抱く間を与えなかった。
「今お前の中に在るエンゼルの力は、ミカエルの手で永久へと注ぎ込まねばならぬ。永久の力は本来の主であるミカエルにしか扱うことができないのだ」
 刹那の表情が翳った。
「でも、ミカエルはさっき倒したじゃないか」
「我ら魔王もそうだが、ミカエル程の大天使ならば死ぬことはない。一時的に姿を失う事はあるが、時が経てば再生できるのだ」
「じゃあ……」
 息子の瞳に再び湧き起こる微かな期待をルシファーは否定しなかった。
「そうだ。甦ったミカエルを説得出来れば、永久を救えるだろう。ただ、彼がお前の元に姿を現す条件が揃わねば、それも叶わぬ事になる」
 刹那は思考を巡らせた。
 姿を取り戻したミカエルを召喚する条件。
 特定のデビルを呼び出す方法……?
 一瞬、何かが刹那の記憶をかすめた。
「刹那」
 横合いからクールが口を挟む。
「ファイアーランドで手に入れたラジエルの書に、何か書かれてるんじゃないか?」
「そうだ、ラジエルの書!!」
 刹那はパソコンを開き、これまで要所要所で入力していたデータから、ラハブの解読したラジエルの書を検索する。
 四つの文章を読み上げ、刹那はすぐに解答を選び出した。
「ラグナロクを願いし二人のデビルをしたがえて美しい調べが流れる場所で天使のふえをふき鳴らす時、大天使はよみがえるだろう」
 刹那はモニターから顔を上げ、ルシファーを見上げる。
「ミカエルを示しているのは、これじゃないかな」
「おそらくな」
「でも、その前に手順を踏まなくちゃいけないみたいだ」
 ラジエルの書の中に記された、もうひとつの事柄を示すメッセージを頭に叩き込む。大天使を召喚するために必要な存在と、彼を仲間にする方法だ。
 鍵は、ディープホールだった。
 刹那自身、幾度もその名を耳にしている。数多くのデビルの口からあまたの恐怖と共に紡がれた場所だった。
 刹那は再びモニターを見直し、パソコンの電源を落とした。
 そして、立ち上がる。
「行こう。ラグナロクを起動させるんだ」
 オルゴールルームを見据える刹那の表情は、決意に満ちていた。



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