昏迷の彼方


 目黒技術研究所。
 昨年起こった爆発事故で閉鎖されてから、訪れる者のない建物だ。
 本来ならばすぐに後処理が行われるはずだったが、東京が占拠されたことにより、研究所そのものが放置されたままになっている。
 ところが、その建物から何故か悪魔が出現するようになっていたのだ。
 直樹の調査に同行した薫は、研究所の調査のために地下へと降りた。地下をくまなく調査したところ、電力供給システムが元凶だと判明したため、薫はハンディ・モニターで爆発の詳細を調べているであろう直樹に連絡を入れた。
「直樹、俺だ。どうやら悪魔は地下の電力供給システムから出現しているらしい。5分後に電源を落とす。撤収の準備をしてくれ」
 マイクで必要事項を伝える彼の周囲には、いくつかの悪魔の死骸が転がっていた。
 生きている研究所との取り合わせは、不釣り合いであるにも関わらず、不気味な調和をかもしだす。
『……れ!…だ……が……』
 耳元の機械から届く仲間の声は、断片的でまったく意味をなさなかった。言葉を聞き取る事を諦め、薫は再度注意を促す。
「電波の状態が悪いようだ。すまないがよく聞こえない。5分後に電源を落とす。撤収準備を…」
 不快な音と共に電波が途切れた。薫は小さく息をつく。だが、こちらの内容は伝わったらしいので、彼は供給システムをチェックすべく機械に歩み寄った。
 ──刹那。
 片腕を切断され、動かなくなっていたはずの悪魔が跳ね起き、奇声を発して襲いかかる!
 背後を振り返りはしたものの、それ以上の行動ができない。
 殺られるか、という思いが一瞬頭をよぎった、その時。
 轟音が響いた。
 血飛沫と共に悪魔の胸に開いた穴を確認し、薫は愛刀を抜きざま眼前の悪魔を一刀のもとに斬り伏せた。今度こそ、絶命した骸が地に落ちる。
 そして、倒れ伏した悪魔の背後には、銃を構える女性が立っていた。
 目の覚めるような金髪。理知的な蒼い瞳。見慣れぬメタリックなピンクのスーツは、制服らしく思われた。その裾から垣間見える黒いタイツに覆われた細い足のラインは、白のショートブーツまでの短い部分だけが確認できる。胸元につけているコンパクトな機械が少し目を引くが、薫はすぐに彼女自身へと意識を向けた。
 厳しかった彼女の表情がやわらぐ。それを見て、薫はようやく言葉を発した。
「…助かった。ありがとう。だが君は何故こんな所に?」
 制服の美女はその言葉に誘われたように微笑んだ。やわらかで綺麗な笑みである。
「礼儀正しいのね。どういたしまして。答えは視えたからよ。あなたも早く用事を済ませて脱出して」
 言い終わらぬうちに、その姿がかすむ。
 消えると直感し、薫は思わず声を上げた。
「君は誰だ?」
 彼女は薫を見、少しだけ首をかしげた。軽く礼をするように。
「カレン」
 そして、完全に姿が消えた。
 

 直樹と薫がそれぞれに考え事をしつつパルチザン本部にたどりつくと、そこは戦場と化していた。終わりを迎えた、敗戦の場として。
 敵の奇襲。智晴がまだ戦っている。それを2人に伝えた仲間が絶命した。
 頭に血が上った。もはや止められない。
 薫は直樹をその場に残し、本部内に駆け込んだ。
 各室の状況を見て回ると、いたる所に仲間の屍があった。昨日まで、否、ほんの4時間ほど前まで作戦を練り、共に語り、励ましあった者たちの変わり果てた姿が、薫の思考を冷静な状態に引き戻す。
「カオ…さ…」
「勇也!」
 廊下に倒れていた身体が動いた。薫は彼に駆け寄り、唇を噛む。かなりの深手だ。助からない。
「すみま…」
「喋るな。俺の責任だ。こういう事態は予測しておくべきだったんだ」
「敵…リーダーが…みずか…ら…」
「…リーダー?まさか…」
 脳裡に、ひとつの名が浮かんだ。昨年、突然に悪魔を率いて東京を占拠した1人の男。
「荻原…が?」
 ゆっくりと彼が頷いた。直後、その身体から力が抜ける。
「勇也!!」
「に…げて…下さ……カ…オ…」
 言葉が途切れた。わずかの間、薫は目を閉じる。
 そして、薫は静かに彼の身体を床に横たえた。
 直後、ハンディ・モニターの電源を入れ、直樹に連絡を入れる。智晴は直樹と合流していたらしい。
「敵の指揮官は荻原という男らしい。俺はそいつを仕留める。直樹、智晴を連れてすぐに脱出しろ」
「やめろ、薫!あいつは強い、お前も戻れ!」
「いいから早く行け!!」
 割り込んできた智晴を一喝し、薫はハンディ・モニターの電源を切った。
 この建物内で薫が回っていない場所は作戦会議室のみだ。そして、そこに指揮者がいることを彼は疑わなかった。
 抜き身の刀を手に、開け放たれていた扉の中に入る。
 室内にいたのは1人の男だった。
 薫の気配に、その人物がおもむろに振り返る。
 自分に向けられた視線から、直感した。この男が指揮者だ。
 男は濃い茶色の髪を大雑把なオールバックにしていたが、それだけに端正な顔の中の射るような鋭い瞳がきわだっていた。白いスーツにベージュのコートを身につけたその身体からは、隙というものが感じられない。大抵の者ならば、一目見ただけで圧倒され、まともに立ち向かうこともできないだろう。
 薫はその男を睨んだまま、室内に足を踏み入れた。
 頭の中が妙に冴え渡っている。だが、これが危ういバランスの上に保たれていることにもまた気づいていた。
 しかし、それは意識の隅に追いやられる。
「君がリーダーの橘薫か」
 抑揚のない声からは、ひとつの組織を壊滅させたという様子は微塵も感じられない。それゆえに、相手に恐怖感を植えつけるのだ。
「君の勇名は聞いている。どうだ、その力、私のもとで使ってみないか?」
「ふざけるな!」
 激しい拒絶に、男はふと笑みを漏らす。
「そう言うと思っていたよ。君の実力は認めよう。しかしまだ若いな」
 失笑、苦笑というべきだろうか。そんな表情を浮かべた男に対し、薫は口では言い表せないほどの怒りが湧きあがるのを感じていた。刀を握る右手に我知らず力が入る。
 そこへ、一人の人間が現れた。
 サングラスをかけた金髪の青年は素早い身のこなしで荻原のもとに歩み寄る。
「荻原様、……との報告が入りました。いかがいたしましょう?」
「…そうか、厄介だな…では行くぞ」
「待て!」
 きびすを返しかけた荻原へ、薫の激昂した声が飛ぶ。
「このまま逃げるつもりか?貴様の相手は俺だ!」
 荻原の冷静な視線と、薫の怒りに満ちた視線が交錯した。
 眼前の黒一色のいでたちの青年から視線を外さず、荻原は傍らの男に命じる。
「ベイツ。逃げた2人を始末しろ!」
「はっ」
 軽く頭を下げ、ベイツと呼ばれた男が足早に部屋を出ようとした。
 咄嗟に薫は動きかけた。この男が智晴と直樹を狙っているとわかっていながら、見逃すことはできない。
 だが、結局薫は動けなかった。
 室内に残った人物からの鋭い殺気を感じ取ったためである。
「薫とやら」
 荻原の声が、彼の意識を引き戻す。
 すらり、と剣を抜き、荻原は無造作に構えた。
 薫は荻原に向き直り、愛刀を両手で握り締める。
「よかろう、相手になってやる。…かかってこい」
 

 古びた壁面。壊れた改札口。穴の開いた壁に、明らかに使い物にならない線路。
「…ここは…」
 新橋駅、か…。
 戻ってきた、という実感はあまり湧いてこなかった。一度しか訪れたことがないせいかもしれない。
 目を閉じて何かを考えようとしたが、脳裡に浮かんだのはパルチザン本部が襲撃された、あの時のことだった。
 荻原との一騎打ちは、薫の完敗だった。
『覚悟はいいな』
 追いつめられた薫に放たれた声。つい先程まで刃を交えていた相手は、ほとんど息を乱していなかった。それに対し、薫は立つことすらままならぬ状態だったのだ。
 だが、この言葉の次に襲ってくるはずの痛みは、遂にやってこなかった。
 荻原の驚いた声に、失いかけていた意識が浮上する。
 そして、認識した。自分の前に投げ出された、おそらくは本部内での最後の生存者の姿を。
「…勇也…?」
 彼の顔は薫に向けられていた。そして、つい先程と同じ言葉を、今度は明確に発したのである。
「逃げて…下さい、薫…さん……」
 彼はそのまま床に崩折れた。咄嗟に薫がその身体を抱き起こす。
 眼前の敵のことを一瞬忘れ、薫は仲間の名を呼んだ。
 しかし、応えはない。荻原の渾身の一撃をその身に受け、勇也はもはや意識が失われつつあるようだった。
 けれどもその腕が微かに動いた。薫の腕を押す。その行動から、口で言うよりも強い意思が伝わってきた。
 逃げられるものか、と感情が叫んだ。
 今ここで死にゆく仲間の心を無駄にできるのか、と理性が問うた。
 逡巡は一瞬のことである。
 残った力を振り絞り、薫は少し離れた窓を破って外へ出た。
 心の中で、共に戦った仲間たちに詫びながら。
 荻原が追ってくる気配は、なかった。


 ──何故、あの時荻原は、自分に止めを刺さなかったのだろうか…。
 

 その後、薫は単独で荻原の足取りを追った。
 そして情報収集する内に、新橋駅の不可思議な話を耳にした。
 最終的に荻原の拠点である永田町へ行くつもりだったが、この一件も何か関わりがあるかもしれないと考え、薫は新橋駅を経由するルートを選んだ。
 ところが、その新橋駅から、この世には有り得ない荒涼とした土地へ投げ出されたのである。
 状況が全く把握できなかった。
 戻ってきた今も、起こった出来事を完全に理解できたわけではない。
 ただ、あの場所が東京ではない…いや、この世界にはありえない地だと感じた。
 それを知らしめるものなども何一つなかった。だが、空気が違ったのだ。
 人間を拒絶する。否、人間だけではない。力無き者、意志の弱い者すべてを拒絶する。そして、抗えない者は何かに呑み込まれてしまうような…そんな錯覚にとらわれた。
 そして、そこで出会った妖艶な女。
 彼女は突如出現した薫に驚くことはなく、求めるものを問うてきた。
 脳裡に浮かんだのは、荻原との戦いだった。その時に感じた圧倒的な力量の差。今の薫が何より欲しているもの…。
 彼の答えに、女は蠱惑的な笑みを返した。
 そうして“儀式”が行われた。
 想像を絶する苦痛の後、薫は自分の内に新たなる力が芽生えているのを感じたのだ。
 その後、女は他の事を一切問わず、彼をこの地へと送り返した。
「──復讐、か」
 口にして、ようやく気力が湧いてくるのを感じ、薫は立ちあがった。外へと向かう。
 駅を出てから、奇妙な事に気づいた。
「……?」
 ビルが破壊されているのである。ビルだけではない。陸橋、高速道路、国道、街灯、看板…ありとあらゆる建造物が、どこかしら壊されている。
 訝しむ彼の視界に、人影が映った。年配の男だ。
 わずかに迷ったものの、意を決して薫は男に声をかけた。
「すみません」
「あ?何だ」
「あのビルなんですが、いつ頃壊れたのか覚えていませんか?」
「ビルって言うよりも、この辺り一帯一度にやられただろう。あれは…10年くらい前か」
「10年前というと…」
「AD2014。いやAD2013だったか、その辺りだったはずだ」
「ありがとうございます」
 言葉を継ごうとしていた男を遮り、薫は足早に彼から離れたが、内心の動揺を抑えることなどできるものではない。
 ──30年後の東京…!?
 たかだか30年でこれほど街が荒廃するということが、薫には信じられなかった。
 しかし、冷静に考えてみると、悪魔の侵攻による影響とするならば、ありえない事ではない。
 薫は軽く頭を振った。
 ──とにかく、今は1996年に帰る手段を見つける事だ。
 不思議と2度と帰れないという考えは浮かんでこなかった。
 薫がこの時代へやってきたこと自体、本来ありえぬ事である。だが『荻原』という男の存在が、ありえぬ事態を現実と化させた。
 そう、彼が1995年に東京を制圧した時から、歯車が狂い始めたと言っていい。
 薫は顔を上げた。まず、今は帰る手段を探す事だけを考えるべきだ。
 ともかく、この付近から調査を始めようと、薫が品川に足を踏み入れた時だった。
 まず、気配を感じた。即座に街中のあちこちへと目を走らせる。街中に配置された多数の悪魔の姿が確認できた。
「…ロキよ、行け!侵入者を始末しろ!」
 聞き慣れた声に、薫は我が耳を疑った。ここは2024年である。
「…智晴?…おまえ…か?」
 驚愕する薫に向けられたのは、彼が握り締めていたナイフだった。見覚えがある。智晴が以前から愛用していたものだ。
「殺せ!邪魔者は抹殺しろ!」
「智晴!目を覚ませ、俺がわからないのか!?」
 叫んでみたものの、近づく事ができない。多数の悪魔に囲まれている智晴の位置まではあまりに遠く、あたかも彼らの内心の距離を示すかのようなのだ。
「智晴!パルチザンの事を忘れたのか!?直樹のことは、俺の事は!妹の事も忘れたのかっ!おまえは何故パルチザンに入った!?目的すらも忘れ果てたのか!!」
 薫の声は智晴の心には届いていないらしい。彼は表情を変えることなく、周囲の悪魔に下知した。
「侵入者を殺せ、生かして帰すな!すべてを消し去ってしまえ!」
 薫は舌打ちと共に身を翻した。背後に悪魔達が迫る。
 ──これで、おまえは望みの力を手に入れた──
 蘇る女の声。身体に宿った新たな力。
 立ち止まり、追ってきた悪魔に右手をかざす。体内から湧きあがる力が右手に宿り、凝縮され、熱を持つ。
「…アギ!」
 刹那、右手に炎が上がった。炎は悪魔めがけて襲いかかり、その身体を呑み込む。
 燃え上がる仲間の姿に、追っ手の悪魔が一瞬、怯んだ。
 その隙を逃さず、薫は身を翻して逃走した。
 

◆NEXT◆