西アルディアの砂漠の中を、ひとつの陽炎が揺らめいていた。 ──否、陽炎ではない。本物の人影だった。 だが、小さな影である。 踏み出す事すらままならぬおぼつかない足取りが、やがて止まった。 その身体が大きく揺らぎ、砂の中に倒れ込む。 ぴくりとも動かぬ身体には容赦なく太陽が照りつける。 視界を覆う一面の砂もまた熱を帯びており、このままゆけば人影は渇ききって命を落とすはずだ。 意識がなかったことがせめてもの救いだろうか。 小さな人影が、うわごとのように何かを呟いた。 その言葉さえ砂にのみ込まれ、やがて灼熱の中に静寂が訪れた。 ──声が、聞こえる。 高い声。あれは、女の子だろうか? そして、もうひとつの声。何かを言っている。 複数の低い声が、遠くで何かを叫んでいる。 少女らしき声が何事かを告げた。気配が遠ざかる。止めようとする声は、もはや彼女の耳には届かない。 やめろ、行くな、一緒に逃げるんだ!…リ…っ!! |
まず、視界に入ったのは、少し煤けた色合いの天井だった。左右の壁も、同じような色をしている。 「…白く…ない…?」 ──白って、なんだ? 口にしてから疑問がわいた。跳ね起きる。 「どこだ、ここ……」 自分の寝ているベッド。中央にテーブル。テーブルを挟んだ向こうにソファ、机と戸棚。…きちんと整頓された部屋。 見憶えは、ない。 わけがわからず、もう一度室内を見回していたその時、一人の青年が姿を見せた。 まずベッドに目をやり、彼が目覚めていることを確認する。 「気がついたのか」 感情のうかがえぬ声を発し、青年は彼に近づいた。 端正な顔立ちの男である。少年という年齢ではないが、まだ若い。身につけている服は黒を思わせる沈んだ色だった。 青年が彼に近づく。ほとんど物音がしない。地に足がついていることは確認しているのだが、足音が聞こえなかった。 近づく青年に対し、彼は警戒するような視線を返す。傍目には、睨んでいるようにしか見えない。 「俺はシュウ。ハンターだ。ここはインディゴスの俺のアパート。西アルディアの砂漠で倒れていたおまえをここに運んだんだ」 自分を睨みつけたままの少年に必要最低限の情報を告げ、青年──シュウが尋ねた。 「おまえの名は?」 「…エルク…」 「エルク、というのか」 青年の表情が少しだけやわらぐ。 それだけで、ずいぶん印象が変わった。青年のかもしだす厳しさは変わらないものの、近寄りがたい雰囲気が少しだけ薄れている。 エルクがわずかに警戒を解く。 「何か食べられるか?」 「別に…」 それよりもエルクには気になることの方が多い。だが唯一質問できる相手のシュウは、彼に背を向けて部屋の隅に移動した。 エルクは何やら行っている彼の背中をただ眺めていた。訊きたいことはいくつかあったが、言葉をかけるきっかけがつかめない。 少し経つと、シュウは湯気の立ったカップを両手に戻って来た。片方をエルクに差し出す。 「これくらいなら飲めるだろう」 「…ありがと」 受け取ったカップには、ホットミルクが満たされていた。先程はこれを作っていたのだろう。 カップを両手で包み込むように持つ。その温もりに安堵感を覚え、エルクはホットミルクを口に運んだ。 温かい。 ひと心地つくと、エルクはシュウを見た。 「…なんで助けてくれたんだ?」 「死にたかったのか?」 「──」 即答できず、エルクは沈黙した。 シュウは彼を見つめている。 エルクの視線が下がった。湯気の立つ真っ白な液体が視界に入る。 ──白。どこまでも白い色。眩しさすら感じられる色…。 真っ白い色合いの中に、微妙な影が現れる。 そして影はさざなみを経て大きな波を呼ぶ。まるで、今のエルクの心の中のように。 「死にたく…ない。死ねないんだ。オレは……っ」 「エルク」 名前を呼ばれたことよりも、肩に置かれた手によって、エルクは我に返った。 「わかった。もういい。おかしなことを訊いてすまなかったな」 ふと見ると、ミルクがカップからこぼれていた。シーツに小さな染みが出来ている。 我知らず震えていたらしい。その振動がカップに伝わり、ミルクがこぼれてしまったのだろう。 「ご、ごめん、あの…」 「気にするな。これぐらい洗えば済む」 「…ありがとう」 シュウの表情は変わらない。けれど、エルクは何か暖かいものを感じたような気がした。その手の温もりによるものだろうか。 少し落ち着いたらしい少年に、シュウは別の問いを発した。 「行くあてはあるのか?」 「行く…あて…?」 「おまえが身を落ち着ける所だ。無くては生活できないだろう」 どこへ行くつもりだったのだろう? ──どこから来たのだろうか…? 心臓の音が頭の中をこだまする。まるで耳元で怒鳴られているようだ。音の間隔が短くなってゆく。何かに急き立てられるように。 「どこ…何が…オレは……」 「エルク?」 「…オレ…何もわからない…」 エルクの耳には己の言葉すら届いていないらしい。 シュウは目を細め、そんな少年を凝視していた。 |
自分を見失いかけた少年をなんとか眠りにつかせ、シュウは彼を拾った状況を思い出していた。 灼けるような砂漠。照りつける太陽。 岩蔭もまれな一面の砂の中、力を失い死を待つ人影がそこにいた。 仕事の帰りだったとはいえ、少しでも道を外れていれば発見することはできなかっただろう。運が良かったと思う。 シュウは意識の無い少年を飛炎まで運び、応急処置を済ませると急ぎインディゴスに戻り、その足で闇医者を呼んで容体を診てもらったのだ。 間一髪だった、とその闇医者も言っていた。 熱砂の中で行き倒れていたこと。 当時の服装。 ──そして、記憶喪失だという状況。 この少年が何らかの事件に関わっていることは、自明の理である。 事件自体もまた表沙汰にされない類のものだろう。 どこを取り上げても、彼が真っ当な生い立ちであることは考えがたい。 ハンターという職業は、カタギの仕事とはいいづらいまでも、好んでわけのわからぬ厄介事を抱えこみはしない。 それが賢明な判断であり、当然のことなのだ。 ──賢明かつ当然な判断、か。 声に出すことなく心の裡で呟き、シュウは立ち上がった。 深い眠りから目覚めると、その気配を察知したらしい部屋の主がベッドに近づいた。 「気分は?」 昨日の青年が自分の顔を覗き込んでいた。 「…普通、だと思う」 あんな状況でも熟睡できた自分は、かなり神経が太いかもしれない。 「さすがに腹が減ったろう。少し待っていろ」 彼の態度は変わっていない。一見そっけないが、そうではないことがエルクにはおぼろげに理解できている。 ──だからこそ。 上半身を起こし、エルクはベッドから下りようとした。 そこへ制止の声が飛ぶ。 「寝ていろ。一週間眠りっぱなしだったんだ。立つこと自体が難しいぞ」 構わず足を地につけようとした時、視界が揺れた。咄嗟に両手で頭を押さえ、めまいが収まるのを待つ。 「…まだ身体が弱っているはずだ。無理をするな」 先程よりも近い所から、シュウの声が聞こえた。 自分を気遣う言葉。 「…オレ、やっぱりわからないんだ」 まだ頭はぐらぐらしていたが、それだけはきちんと口にしておきたかった。 「何も思い出せない。名前だって本当にそうなのかわからねぇし、はっきりした手懸かりらしいものもないんだ」 「そうか」 いらえは短い。 しばしの沈黙の後、エルクはシュウを見上げた。 「…気味悪くねぇのか?」 シュウもまた、エルクのまっすぐな瞳を見返した。 「思わんな」 断言されてしまい、エルクは二の句が継げなかった。シュウが短く問う。 「何故そう思う?」 「なぜって…」 「何も覚えていないのだろう。根拠はあるのか?」 「…わかんねぇことは気味悪いじゃねぇか」 じっとしていると不安がつのる。何かをしていなくては落ち着かない。沈黙が怖い。一人でいるのが怖い。何も覚えていないから。 「今までのこと何一つ覚えてないんだぜ?自分がどういう奴か、今まで何やって生きてきたのか全然わからねぇ奴なんか、なんで信用できんだよ!」 疑問に正答はありえない。すべては忘却の彼方である。 欲しても手は届かない。むしろますますあやふやになってゆく。 いっそすべて無くなってしまえばいいと思いたくなるはずなのに、何故かそう考えられない。死にたくないという欲求だけは、心の中でくすぶっているのだから。 エルクが声を荒げても、シュウは表情を変えなかった。 こういう場合、人間の反応は主に二つに別れるだろう。相手の冷静な言動で我に返って落ち着くか、触発されて逆上するかである。 エルクは後者だった。 「少し考えりゃ怪しいことはいくらでも思いつくだろ。何も覚えてねぇってことは、何やったっておかしくねぇだろ!そんな危険な奴、なんだって助けたりするんだよ!」 エルクが大きく息を吐いた。唇をかみしめ、シュウを見る。 少年が2回ほど呼吸するのを待ち、シュウが口を開いた。 「…確かに俺はおまえの過去を知らん。だがそれはおまえも同じ事だろう」 何かを言いかけたエルクを制し、彼は続ける。 「おまえの恐怖は、自分が他人を傷つけることを恐れるが故のものだ。他人を傷つけてはいけないと今のおまえは理解している。そういう心を持っている人間は、信用に値するはずだ。記憶がないということは、見方を変えれば今現在の自分自身がすべてということになる。そのエルクという人間は信じられる。そう思った」 「…今の、オレ…」 「おまえは信じられる人間だ。心配いらん」 静かに、けれどはっきりとシュウは断言した。 自分の内にひとつもない確かなもの。だが、眼前の青年の言葉は信じられる。シュウの言葉を信じることにより、『自分』というものを…信じられる。 エルクの瞳から鋭い光が消えた。 そのままうつむいた。肩が震えている。 シュウが手を伸ばし、エルクの頭を軽くたたいた。 幼い肩から力が抜ける。あどけなさを残す少年は、そのままベッドに座り込むと、小さく震えながら、やがて嗚咽をもらしはじめた。 エルクは周囲のことを忘れて、ただ泣きじゃくっていた。 だが、涙が涸れるまで傍らの気配が消えることなく、それが少年の心を何より安心させていたのだった。 |